case157 お手伝いのキクナ?
レースカーテンの網目から差し込む光が、キクナの顔を直撃した。顔を背けても、光はどこまででも襲ってくる。光はベッド一面をまんべんなく照らしていた。
もう少し眠っていたい……。内心ぼやいていたとき、ふと思いだした。昼のバスを逃したら、夕方までないことを。意を決して上半身を起こし、壁にかかる振り子時計を見る。
朝七時半。朝の九時くらいに、第一便があり、あとは昼に一便ある。キクナはひる一時過ぎのバスに乗る予定だった。
寝間着として着ていた、白のネグリジェを脱ぎ、紺の上着とアーモンドグリーンのロングスカートに着替えた。部屋に備え付けの、鏡で寝ぐせを整え、キクナは部屋を出る。
朝の澄み切った空気は肌寒くはあるが、爽やかだった。泊めていただいたのだから何かしないと、と思った。キクナとりあえず、広間に向かい誰かを探した。けれど、誰もいない。
まだ誰も起きていないのか? と思ったときふと背後に気配を感じた。振り返ると、前髪が湿り、顔が少し赤らんでいるベタニアが立っていた。
「キクナさん、おはようございます」
「おはようございます」
持っていたハンドタオルでベタニアは、顔をトントンと押さえた。どうやら、顔を洗っていたようだ。
普段はウィンプルで覆われている髪の毛があらわになり、甘栗のような色の髪の毛がとても美しかった。
「あの、何かわたしにできることはありませんか? 泊めてもらって、わがままも聞いてもらっているのに、何もしないのは何だか悪い気がして」
「キクナさんにできることですか」
「はい」
ベタニアは「うん~」とキクナにでもできそうなことを考える。
「それでは、中庭のお花に水をあげてくれますか」
「お安い御用です」
胸を叩き、キクナは二つ返事でいった。
キクナは内廊下を抜け、外廊下に出た。丸柱が廊下と庭を分けれている。中庭用のサンダルのような靴が、廊下と庭の境界に置かれていた。
このサンダルを履いて、中庭に出ろということだろう。キクナはスリッパを脱いで、サンダルに履き替えた。
枕木が庭の中央まで延びている。バラのトンネルを通って、キクナは中庭を一通り見渡した。中央には木のベンチが置かれ、木で組まれた屋根があった。その屋根に蔓が巻き付いている。
「さて」
どうやって水をあげるのだろう。と思いながら、見回すと草に隠れるようにして、緑色の井戸ポンプが目に付いた。その横に少しさび付いたジョウロが立てかけられてあるのが目に付いた。
ジョウロを手に取り、キクナは井戸ポンプの頭から伸びているレバーを何度か上下に動かす。しばらく動かしていると、生ぬるい水が出てきた。
水が冷たくなるまで待ち、キクナは手に取ったジョウロに水を入れた。沢山いれると重いので、半分で止めてキクナは手当たり次第に水をやる。
しばらく水やりに専念していたが、どこまで水をやればいいのか聞き忘れてしまったことを後悔した。小さな中庭と言っても、この面積に植えられた花々すべてに水をやっていれば、何時間かかるかわからない。
ジョウロの水がなくなると、再びポンプを動かし水を入れた。それを五回ほど繰り返したとき、ベタニアが丸柱のとなりに立っているのが目に入った。
「キクナさん。ごめんなさい。言い忘れていました」
「はい?」
かたむけていたジョウロを平行にして、キクナはベタニアを見た。
「水やりはそこの花壇だけでいいのです。今キクナさんが水やりをしているその辺は、雨が降れば行きわたるので」
キクナはベタニアが指さしている、花壇を見た。
円形にレンガを積み上げた、可愛らしい花壇が三つ作られていた。
「この花壇は屋根の下に作ってしまって、雨が当たらないのです」
地下水で満たしたジョウロを持って、キクナは花壇に向かった。枕木を踏み鳴らしながら、花壇と井戸ポンプの間をキクナは三往復した。
これだけやれば、しばらくは水やりをしなくても大丈夫だろう、というほどあげてジョウロを元の場所に戻した。
「他に何かすることはありませんか?」
キクナは外廊下に立ったままの、ベタニアに訊いた。
けれど、ベタニアは「いえ、もうありませんね」と即答した。
「もうすぐ朝食の時間ですから、食堂に向かいましょうか」
もうそんな時間か。マリリア教会では朝八時半に朝食をとる。起きてから、一時間が過ぎているということだ。
「そうですね」
うなずいて、キクナはベタニアと共に食堂に向かった。すでに子供たちが集まっており、食事開始を今か、今かと待っている。
しかし、それほど広くない食堂なので、子供たち皆が座ることができない。なので、年少の子供たちが先に食事を済ませ、そのあとに年長の子供たちが食事をとることになっていた。
「あの……」
キクナはベタニアに問う。
「はい?」
「子供たちより先に食事をとっていいのでしょうか……」
「ああ、大丈夫ですよ。いつもわたくしは、年少の子供たちと食事をとっています。
そのあとにスザンナとヨハンナが年長の子供たちと食事をとるのです。席をちょっと詰めれば、キクナさんも十分座れるので安心してください」
そういって、ベタニアは食堂の端に数席置いている余りの椅子を持って、長方形のテーブルの縦に置いた。
ザワザワとしたおしゃべりが徐々に小さくなり、時計が八時半を指したころには、静寂に包まれた。
静かになるのを見計らっていたように、ベタニアは立ち上がり指揮をとった。
「それでは、食事にしましょう」
前置きして、ベタニアは食前の祈りをとった。
「父よ、あなたのいつくしみに感謝して、この食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたくしたちの心とからだを支える糧としてください。わたくしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」
子供たちはベタニアに続き、祈りを唱えた。キクナも子供たちを見習い、祈る。
朝食はフランスパンのようにちょっと固いブレッドと、コーンスープ、あとはゆで卵だった。ブレッドにバターをのせ、少し溶けるまで待つ。
バターの香ばしい、香りが食堂内に広がった。カリサク、とした子気味良い触感と、バターの塩味がとてもよく合い、噛めば噛むほど味が出た。
コーンスープは滑らかで、体の内からあったまる。食事を済ませ、一息ついた。昼までの時間をどうしよう。
キクナはしばらく食堂の椅子に座ったまま考えた。
そのとき、ベタニアは立ち上がり食後の祈りを唱えた。
「食器洗いましょうか?」
キクナはベタニアにいった。
「いえ。大丈夫ですよ」
「やらせてくださいッ」
キクナは押し切るようにせがむ。
ベタニアは押し切られ、「そ……それではお願いします」と了承した。
シェフたちは「そんなことしなくて、いいですよ……」と言ったけど、キクナは、「いえ、わたしの気が済まないんです」と押し切った。
逆に迷惑がられている感はあったが、キクナは気付かなかった。食器を洗い終わったあとでも、昼まではまだまだ時間があった。
もっと何か、できることはないのか? とベタニアに訊いたが、さすがにもうなかった。仕方なく、キクナは外のベンチに座って、流れる雲を見ていると、ふと思いだした。
あのとき、聖歌を聞かせてくれた男の子にまだ会っていない、と。丁度、年長の子供たちの食事が終わったころなので、キクナは男の子のいそうな場所を捜してみることにした。
どこにいるのだろう? キクナは庭や食堂、広間、教室を回ってみたが見つけることができなかった。
外廊下を渡っていたとき、教会の方から歌声が聴こえた。そう言えば、今日は日曜日だった。朝練でもしているのかもしれない。
聖堂のとびらを少し開けて、中の様子をうかがうと、以前見たローブに身を包んだ子供たち数人が声を合わせ、練習をしている最中だった――。