case152 マリリア教会へ
都心を離れ、バスは田園風景が地平線まで続くのんびりとした田舎道を走っていた。透き通るコバルトブルーの空には、雲一つなく遠近感がつかめなかった。
出かけるにはこれ以上に最適な日はまずないだろう。
キクナは楽しそうに、窓の外を見ているチトとローリーの横顔を見た。
バスには二人しか乗客がいない。
三人乗っていた乗客は、さっき止まった村で下車した。
マリリア教会に到着するには、まだ一時間ほどかかるだろう。
それまで、キクナはのんびりとした気持ちで流れる光景を眺める。バスに乗るのは初めてで、ローリーは見るものすべてに感動している。
チトも感情を表には出さないが、ここひと月ほどの付き合いで微妙な表情の変化を読み取れるまでになっていた。
それで今のチトの表情から察するに、喜んでいる。に違いない。
「ねえ、あれは何?」
ローリーは窓の外を指さして、いった。
キクナはローリーの肩から、窓の外を覗き込み彼女が指さした物を突き止めた。
「ああ、あれは“かかし„だよ」
「かかし?」
ローリーは振り返り、キクナの顔を見上げた。
「そう、かかしっていって、鳥なんかが麦を食い荒らさないように追い払ってくれているの」
感心したようにローリーは「へぇ~」と言葉をもらし通り過ぎて小さくなるかかしを、見えなくなるまで見ていた。
それから、しばらく進んでまたローリーは指を指しながら訊いた。
「あれは何?」
もう一度キクナは外を見る。
「ローリーは羊、見るの初めてなの?」
田園地帯を抜け、バスは草原地帯に入っていた。
草原には白と黒のもこもこした動物が群れをなして、草を食んでいた。
牧羊犬が羊を追ったり、群れから離れた羊を連れ戻したりと多忙に走り回っている。青空のした草原を歩き回る羊たちは、心なしか足元が弾んでいるようにキクナには見えた。
「あのもこもこしたの、羊って言うの?」
「そうよ。羊って言って、ウールをとったりミルクをとったりできるの」
そしてまたローリーは感心したように「へぇ~」と言って羊たちが見えなくなるまで、窓に顔を押し付けていた。
好奇心旺盛にまるで、散歩にはじめて連れて行ってもらった犬のように、ローリーは見るものすべてに興味を示した。
「いい加減おとなしく、座れよ」
座席に膝をついたまま、せわしなく首を動かすローリーにチトはいった。
「べつに、暴れているわけじゃないんだからいいじゃない。わたしたちの他に乗客いないし」
すでに乗客はみんな下車して、今バスの中にいるのは運転手とキクナたちだけになっていた。
「それに、もうすぐ目的地につくわ」
納得が言っていないようだったが、チトはそれ以上なにも言わなかった。バスが止まった。キクナはチトとローリーに降りると告げる。
「ここで降りるの? 何にもないよ」
ローリーは窓の外を一通り見回してからいった。
「自然豊かでしょ」
微笑みながら、キクナは立ち上がる。
運転手にお礼を言って、バスを降りる間際、「お客さん」と背後から声をかけられた。
バスには誰も乗っていないので、必然的に声の主は運転手になる。
「はい、何でしょうか?」
「ひと月くらい前にも、ここに来たよね」
「はい……?」
キクナは運転手の顔を失礼にならない程度、まじまじと見てから、思いだした。
「ああ、あのときの運転手さんですか」
「ああ、こんな田舎に二度も来てくれるなんて、何か気にいったものでもあったのかい?」
「マリリア教会に用事があって――」
「そうか、まあ、ここは自然と教会しかないからね。まあ、こんな場所でも、喜んで足を運んでくれる人がいるって言うのは、嬉しいよ」
運転手は目元に温かみのある小じわを刻んで笑った。
「次にバスが出るのは夕方だから。それまで楽しんで来てよ」
「あ、今日は教会に泊めてもらおうと思っているんです」
「そうなの。――呼び止めて悪かったね。それじゃあ」
運転手は手をあげて、三人を見送った。
「ありがとうございました」
なだらかな丘を登り、キクナたちはマリリア教会に向かった。
以前来たときは、真っ白なシーツが干してあったが、今回は子供たちの服やズボンが草原を泳いでいた。
「いい場所でしょ」
キクナは振り返り、チトとローリーを見た。
しかし、チトとローリーはまだ丘の下で立ち尽くしていた。
「どうしたの?」
チトもローリーも答えず、その場に立ち尽くしている。
仕方がないので、もう一度丘を降りた。
「もしかして、緊張してるの? 大丈夫よ。良い人ばかりだから」
しかし、二人はこわばった表情が和むことはない。
緊張を解くには、とにかく経験が大事だ。
「手つなごうか?」
そういって、二人の手を取ろうとしたときチトだけ手を引っ込めた。
「いいよ。子どもじゃないんだから。おれは別に緊張なんかしていない。ローリーが立ち止まったから、付き合っていただけだ」
と緊張を悟られないように、まくし立てる。
肩をすくめて、キクナはローリーの手を取った。
「そうなの。まあ、そういうことにしときましょう。それじゃあ行こうか」
やさしく微笑みかけて、キクナはゆっくりと丘を登る。
すると丘の上に、人影が見えてきた。
人の顔が識別できるほどまで、進んでキクナは喜びに手を振る。
「お久しぶりです。ベタニア。お元気そうで何よりです」
洗濯ものを背景にベタニアが立っていた。
ベタニアもキクナに気付くと、手を振り返す。
「キクナさんもお元気で何よりです」
そういって、ベタニアはキクナの後ろに身を隠す二人の子供を見た。
「その子たちがキクナさまの言っていた、子供たちですね」
「あ~、えっと、わたしが捜していた子供たちはルベニア教会ってとろこに引き取られたと聞きました。この子たちはちょっと色々あって、帰る家がない子たちなんです」
そういって、キクナは横に一歩引く。
「こっちの男の子っぽい子はチト。男勝りだけど、れっきとした女の子です。そして、こっちの人形みたいにかわいい子が、チトの妹のローリーって言います」
「そうですか。はじめまして、チト、ローリー」
ベタニアは子供にも丁寧に頭を下げた。
チトとローリーも恥ずかしそうに、頭を下げ返す。
「遠いところから、お越し下さったのですから、まずはお茶でも淹れましょう」
キクナたちは教会内に招き入れられた。
洗剤の残り香が漂う中をキクナたちは歩きはじめた――。