case144 足止めの神父
本人を前にすると、頭が真っ白になり言葉が出てこなかった。あまりの緊張から、涙が出そうになるのを必死に堪えた。
今思えば昨日、どうしてもっと拒まなかったのだろう……。セレナをもっと諭さなかったのだろう……。感情に流された自分の浅はかさに、ニックは泣きたくなった。
けれど、もう後戻りはできない。目の前には不思議そうにニックを見るタダイ神父が立っているのだから。
今ごろセレナはタダイ神父の部屋に忍び込んだところだろう。何とか、時間を稼がなければ。失敗したときのことを考えると、額にべっとりとした脂汗が浮かんだ。
これ以上押し黙っているのも、怪しまれる。
ニックは乾いた唇を開いた。
「えっと……子供たちがタダイ神父を呼んでいます……」
目をそらすと不審に思われるので、ぐらつく瞳で必死に神父を見た。
怪しまれていないことを祈るしかできない。
「私をですか?」
「はい……付いてきてもらえますか」
神父は一瞬返事に戸惑ったが、「わかりました。いったいなんでしょう?」とニックに案内を頼んだ。
ニックは寮の長い廊下を進みはじめた。白樺の樹を使った廊下は滑らかで、スリッパをはいていると滑りやすい。
ニックはあと三十分間、どう時間を稼げばいいのかで頭がいっぱいだった。
(三十分だけ、時間を稼いで。その間にあたしは神父の部屋を漁るから)
セレナの言葉が頭をグルグルと回っている。
ニックは緊張から気分が悪くなっていた。胃が活動を止め、胃酸が食道を逆流しそうになる。失敗は許されないと思うほどに、気分が悪くなった。
長い廊下を抜け、寮の玄関にやってきたところで神父は不振がった。
「どこまでいくのですか?」
「庭です……」
ニックは振り返らずに、いった。
振り返りタダイ神父の顔を正面から見て、誤魔化せる自信がなかったからだ。歩くペースも不審がられない程度緩め、なんとしてでも三十分を稼ぐのだ――。
*
ニックが神父を呼び止めたのを確かめてから、セレナは神父の部屋のとびらを開けた。
すぐに戻ってくるつもりだったのか、計画通り鍵はかかっていなかった。後はニックがどれだけ、足止めしてくれるかが問題だった。最低三十分は足止めしてもらいたい。
神父の部屋には以前一度だけ入ったことがある。
そのときと何一つ変わっていなかった。
正方形の部屋に書棚、机、ソファー、小さなテーブルがある以外には何もない。唯一花が三輪テーブルの花瓶に活けられている以外は、目を引くものがなかった。
悠長に部屋を観察している時間はない。セレナは早速タダイ神父の机に向かった。この部屋で重要なものを仕舞っておくのなら、机しかないからだ。
机の引き出しを一目見て、セレナは胸を撫でおろす。引き出しに鍵が付いていない。もし鍵がついていれば、お手上げだった。
引き出しは三つあり、一番下の引き出しだけ大きくなっている。まずは一番上の引き出しを開けた。木の匂いがあふれ出て、昂っていた気持ちを落ち着かせる。
焦って散らかしてしまったら大変だ。物を動かさないように気を付けなければ。上手くいけばまだ三十分時間があるのだから。
一番上の引き出しにはインクと羽根ペン、そして何も書いていない綺麗な白紙が、収まるところに収まったという風に置かれていた。
続いて二段目の引き出しを開ける。二段目には小道具が入っていた。眼鏡、ハサミ、ペーパーナイフ、ルーペなどがこちらも収まるところに収まったというように整理されている。
気を落とすのはまだ早い、一番下の引き出しがある。
セレナは気を取り直して、一番下の引き出しを開けた。
*
ニックは神父を庭に連れ出すことに成功した。神父の存在を背中に感じながら、セレナが考えた作戦を頭の中で暗唱する。大丈夫、大丈夫……と自分を落ち着かせた。
「子供たちはどこにいるのですか?」
神父は庭を見渡しながら、ニックに問う。
小高い丘の上に建っている教会の周辺は原っぱになっており、視線をさえぎるものは所々生えている樹以外には何もなかった。なので誰もいないのは一目瞭然だった。
「あれ……おかしいな。子供たちが『お父さまを呼んで来て』っていってたんだけど……」
ニックは本当に自分もわからない風を装い、原っぱを見渡した。
「いたずらだったのかな……?」
表情が引きつらないように気を付けて、神父に苦笑いを向ける。不審がられていないだろうか……? ニックは不安で胃酸が逆流し、喉が焼けた。
「まったく困った子たちですね」
タダイ神父がそう言い、踵を返しかけたそのときニックは地面に膝をつけ、嗚咽をもらした。
「ど、どうしたましたッ」
慌てて神父はニックに駆け寄った。おえ、と嗚咽をもらしニックは吐いた。緊張とストレスから、体調を崩し本当に吐いている。
セレナはこういった。
(もし、部屋に戻ろうとしたら気分の悪くなったふりをしなさい)と。
しかしニックは本当に気分が悪くなったのだ。
けれどそのことが功を奏したのか、タダイ神父の足止めには成功した。
「大丈夫ですか……? いったいどうして……食中毒……」
そうつぶやきながら神父はニックの背中をなでた。
「立てますか?」
ニックは過呼吸のまま、返事をしなかった。このまましばらく、ここで神父を足止めしようとニックは脱力した意識の中、考えた。
*
一番下の引き出しには、この寮にいるすべての子供のデータが記された書類があった。身長、血液型。どういう経緯で、ここにやって来たかまで本人でさえ知らないであろう情報も記されている。
たどたどしい指先でページをめくる。まだ読めない単語もあるが、大半は理解できた。いったいこのデータは何に使うのだろうか……?
書類に夢中になり過ぎていて、セレナは周りが見えていなかった。ガチャリ、とドアノブがひねられたと気づいたときには、すでに隠れる時間はない。
(まだ、十五分と経っていないのに……)
セレナはとびらが開くわずかな時間で、言い訳を考えた。パニックになった頭でいい案が思いつくはずもなく、セレナの頭は真っ白になった。目をギュッとつむり、セレナはとびらから顔を背けることしかできなかった。
「早く出ろ」
その声は神父のものではなかった。
声変わりしはじめた少年の低い声だ。少年といってもニックの声ではない。セレナは背けていた顔をとびらの前に立っているであろう、人物に向けてゆっくりと瞼を開いた。
「あなたは……」
とびらの前にはスカラが立っていた。どうして……何か言葉をかけようと思うが口が“a„の状態に開いたまま閉まらなかった。
「いいから、早く出ろ。神父がもうすぐ戻ってくる」
質問は山ほどあったが、セレナは言葉にすることができず黙ってスカラに従った。どうして、スカラがここにいて、タダイ神父が戻ってくることを教えてくれるのだろうか……?
今は黙ってスカラに従うしかなかった――。