file16 『森の怒り』
「どんなことを訊かれても、何も知らないっていうのよ!」
女は私の肩を両手でつかんでいった。
いったい、どうしてそんなに取り乱しているんだろう。
私には訳が分からない。もう、暴力をふるう獣はいないというのに。
もう、怯えなくていいのに。いったい、女は何に怯えているんだ。肩をつかむ女の手に力がこもる。私は痛いと思った。
「いいわね! 何を訊かれても知らないっていうのよ!」
私の肩をゆすりながら、鬼の形相で女はいう。
もう、恐れるものは何もないのに、何に恐れているのだろうか。
分からない、何も分からない。幼い私には何も分からない。
巨大な狼は樹のあいだを縫うように動く。ジグザグの動きはまるで稲妻のように素早く、目にも止まらないほどだ。その動きに人間たちは翻弄され、的が定まらない。
と、思ったのも束の間、狼は一人の警官の足に噛みつき、とてつもない怪力で振り回した。少なくとも六十数キロ以上あるであろう大の大人がまるで、棒きれのように振り回され、投げられた。
投げられた警官は樹に背中から激突し、そのまま動かない。
両腕がだらりと垂れ下がったが、まだ死んではいないようだ、気を失っているだけだろう。
猟師や警官たちは突然の出来事に困惑し、口を開け、目を白黒させながら、絵に描いたようなアホ面で呆然と立ち尽くしている。ただ仲間が襲われているのを見て呆然と見ているのだ。
人間突然の出来事が起きると頭が付いて行かない、バートンもそうだった。ことが済んだあとにバートンとキクマは我に返り、キクマが声を張り上げる。
「何をやっている! 撃て! 撃て!」
我に返った猟師たちも慌てて銃を狼に構える。
しかし、巨狼はあまりに速過ぎた。その巨体からは想像できない速さ、眼光の光が尾を引くほどに。
少なくとも二メートル強はある狼だ。通常では考えられない巨体。猟師の一人が引き金を絞ったのはそのときだ。耳をつんざく爆音が樹海に反響し、跳ね返る。
銃声で我に返った警官たちは続けざまに、巨狼に発砲した。しかし、一つたりとも弾丸は狼には当たらない。等間隔で並ぶ樹々はまるで狼を守るかのようにすべて受け止める。
十人以上の人間が一斉に狼を狙うが、どれも当たらないなどあろうか。運だけではここまで外れない、考えられるはただ一つ、この森が狼を守っているのだ。
樹々のあいだをすり抜け、狼は猟師の足に噛み付く。一瞬見えた猟師の顔は恐怖で引きつり、生気が感じられない。死を覚悟した瞬間の人間の顔。
そして、狼は何度か振り回したあと、投げ飛す。狼は再び動き始め、一人一人襲われる。この森に入った人間たちを一人たりとも逃がさないつもりか。
人間など猛獣にかかれば、赤子の手をひねるようなものだ。
銃器を持ってしてもそれだけ、巨狼と人間とのあいだには天と地ほどの力の差があった。
バートンは樹々をぬってジグザグに動く狼に狙いを定める。
左目をつむり、呼吸と引き金を合わせる。指が震えて上手く狙いが定まらない。バートンがもたもたしている間にも、狼は次の獲物に狙いを定め、喰らいつく。バートンは引き金を引くのをためらった。
引き金を引けば人間に当たるかもしれない。しかし、引き金を引かなければさらに被害者がでる。迷っている暇などバートンにはなかった。
巨狼が人間を放り投げたとき、バートンは撃った。
高い銃声が唸ると同時に弾丸は狼の脇腹に消える、その瞬間当たった、とバートンは確信した。
狼は一瞬怯んだように見えたが、それほど効いていないように見える。確かに弾丸は当たった。しかし、効いていない。狼はバートンの方に向き直り、唸った。
鼻頭に深い皺を寄せて、牙をむいている。十メートルは離れているはずなのに、狼の唸り声が耳元で囁かれているように聞こえる。
どれだけ離れていようと、狼とバートンの距離はゼロ距離だ。
バートンは恐怖ですくみ上る。もう一度狼に狙いを定めるが、銃口が震えて定まらない。巨狼は猫を思わせる俊敏さで駆けだした。
バーン! バーン! バートンは撃った。しかし、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、なんて嘘だ、乱れた精神ではどれだけ撃ったとしても、当たるはずがない。弾丸は明後日の方向にそれる。気が付いたときにはバートンは狼に押し倒されていた。
とっさに猟銃を盾にして狼の牙を防いだが、いつまでもつか。人間のひ弱な力では怪物の力を耐えることはできない。狼の生臭い息がバートンの顔面に吹き付ける。
唾液が銃をつたい滴り落ち、ポトポトとバートンの額に落ちる。一瞬の出来事だったが、長く感じる。風の流れ、狼の動き、まばたきのスピード、すべてがゆっくりに見えた。
ここで死ぬのか、バートンは死を覚悟した、そのとき妻子の顔が走馬灯のように駆け抜けた。
ここで死ぬ訳にはいかない。
けれどもう力が尽きかけている、最後の力を振り絞って狼の巨体を押し返したときだった。バーンという大きな音が轟いた。その音が聞こえてすぐ、銃にかかる体重が軽くなっていく。
バートンに覆いかぶさるように巨狼は倒れ、獣臭で息ができない。毛皮がやわらかく、バートンを包む。毛皮が熱い。
自分は救われたのだ、とバートンはやっと実感した。
数秒後、巨狼はどかされ、暑苦しく息苦しかった気道がひらく。薄暗かった視界が明るくなった。
「意識はあるか」
キクマは猟銃を肩に担いだまま、こちらを見ている。そうか、キクマが救ってくれたのか、とバートンは理解した。
「ありがとうございます……」
巨狼が警察と猟師にどかされると、バートンは起き上がる。まだ、体が震え、恐怖から解放されたことで腰が抜けたようにへたり込んだ。
「こいつを持って帰るぞ」
キクマは明らかに動けそうにない、バートンにいう。
「ま、待ってくださいよ……腰が抜けてまだ動けませんよ……」
すると、どこからともなくキプスが現れ、狼を見下ろしていた。今までどこに隠れていたのか、まったく分からない。この森のことを知り尽している人だ、隠れる場所など知り尽していることだろう。
「こいつです。こいつが私を襲ったんです。この森の主、私たちは銀狼と呼んでいました」
「ぎんろう? ですか……」
バートンの声はまだ震えている。
「はい、この灰色の毛皮は光の角度によって銀色に輝くんですよ。だから銀狼です」
「銀狼ですか……カッコいい名前ですね」
バートンはかつて銀狼だった、狼を見ていった。
警官たちは銀狼を持ってきていた、タンカーに乗せて運ぶ。銀狼に襲われた、猟師や警官たちも起き上がり、歩いていた。それほどの怪我はしていない、打撲ていどで済みそうだ。
自分の力で歩けない者はタンカーに乗せられ、歩ける者は自分で歩るくのだが幸いなことに、三人の被害者のうち三人とも歩けるようだ。
みんなは先に歩く。この森の主、この森を守ってきた獣。この獣にも家族がいたのだろうか。
バートンは死を覚悟したときにみえた、妻子の顔を思い出しながら、狼のことを考える。もし狼にも子供がいたのなら死の間際、家族のことを考えたかもしれない。
生きるか死ぬかの瀬戸際だった。
運だ、バートンは運で狼に勝ったのだ。
「おい、何やっている、遭難したいのか」
キクマは数メートル離れたところから、ボーと立ち尽くしているバートンにいった。
「あ、いま行きます」
木影で何かが動いたのをバートンは横目で見た。数十メートル離れた樹の陰から狼が覗いているのが見えた。一匹、いや、狼の足元には小さな子犬みたいなやつが三匹顔を覗かせている。
そうか、あれがこいつの家族だったのか、バートンはタンカーで運ばれる銀狼を見ながら思った――。