case139 習慣
長い路地を抜けると、そこには時間に取り残されたような空地があらわれる。
お昼の十二時くらいから、二時近くまで太陽が降り注ぎ、そこは誰にも知られることのない、誰にも汚されることのない地上の悲しい楽園だった。
お花が咲き乱れるわけでも、豪華絢爛な建物があるわけでもない。ただ誰も住んでいないビルと、広場の中央に唯一生えた樹、そして小さな花壇には誰にも愛でられるでもなく、けなげに咲き誇る花々があるだけだった。
いったいこの花たちは誰が植えたものなのだろう?
キクナは花壇の前にしゃがみ込み花弁を滑り落ちる水滴を眺めた。
チトにこの場所を教えてもらってから半月、キクナはほぼ毎日この忘れ去られた楽園に通っていた。チャップやカノン、セレナという子供たちが拠点にしていたという、この場所には誰もいなくなっていた。
子供たちはいったいどこに行ったのだろうか? 朝ここに来て、子供たちが帰ってきているかどうかを確認するのが、日課になりつつあった。
それと誰が植えたのかわからない、花たちに水をやりにくることだ。
水をやりしばらく煉瓦が積み上げられできた、花壇に腰を下し意味もなくぽっかりと開いた空間から移り変わる空を見上げていた。
三十分ほど空を見上げて、気が済んだら家に帰る。
「おかえりなさい!」
「ただいま、ローリー」
ローリーはキクナの腰に抱きつき、その人懐っこい顔で可愛らしい微笑みを浮かべた。
アパートメントの玄関まで出迎えてくれたローリーの頭をキクナはやさしく撫でた。
あの日からチトとローリーをキクナのアパートで泊っている。丁度男も出ていき寂しかったのもあるが、この子たちをほっておけなかったからだ。
子供たちが見つかれば、チトとローリーもマリリア教会に連れて行き、ヨハンナに説明しようと思っている。身勝手なことだということは重々承知している、けれど今の自分には二人の子供を養うだけの力はない……。
ジョンは質素な暮らしをしていれば、ニ、三年は暮らせるほどのお金を残していったが、キクナはまだそのお金に手を付けていない。
それどころか、以前よりも仕事を増やした。
ローリーと共にリビングに行くと、チトは食器を洗い終えたところだった。ハンドタオルで手を拭き、チトは敷居に立っているキクナを見ていった。
「どうだった? あいつらには会えたか?」
キクナが渋い顔をすると、「ああ……そうか……。もうこの街には居ないのかもな」と干渉気味にチトはいった。
「もし、このまま彼らに出会えなかったとしても、チトとローリーのことだけは、ちゃんと責任を持つから安心してっ」
キクナは親指を立てて、愉快に告げた。
「べ、別にそんな心配してないよ」
チトは一目にはわからない程度に頬を赤らめていった。
「マリリア教会って言ってね。ここから南に四十キロほどのところにある、自然豊で温かい人たちがいる。
本当に素敵な所だから、見たらきっと感動すると思う。あなた達をそこに住ませてあげたいのよね。そこで暮らせば、あなたの男勝りな性格も直ると思うの」
「大きなお世話だよ。それに、その話昨日も聞いた」
チトは洗い終わった食器を拭き、食器棚に並べてゆく。
「そうだっけ?」
「そうだよ」
他愛無い話をしながら、キクナはチトの背中を見つめた。
この小さな背中に今までどれほどの、ものを背負ってきたのだろうか……?
子供とは無条件に愛されるものではないのだ。
こうして、日々懸命に生きている子供たちが世界には、星の数ほどいる。
チトやローリーを助けたいと思うのは、自分のエゴだとキクナは承知している。少し関りを持ち、情が移ってしまったから自分はこう努力しているのだ。
たとえエゴだとしても、エゴでもいいから、自分はこの子たちを助けたいと思った。世界から見れば、砂粒ほどの助けにしかないとしても、自分が動くことで今、目の前にいる二人が救われるならそれでいい。
「夕食はどこかに食べに行こうか」
「そんなのいいよ」
ワークトップと食器棚を行き来しながら、遠慮がちにチトはいった。
「わたしはローリーに訊いたの。ローリーは夕食どっかに食べに行きたい?」
屈託のない笑顔を浮かべてローリーは、「うん!」とうなずいた。
「そう、じゃあ。三人で夕食は食べに行きましょう」
チトは複雑な表情でそれ以上口をはさまなかった。
この子たちに普通の生活というものを、少しでも経験してもらいたかった。
この子たちといられる、少しだけの間普通の暮らしを送らせてあげたかったのだ。そんなある日、ある事件がキクナの耳に入った。
「昨日、街の北側で銃撃戦があったみたいなんだ」
チトは慌てて部屋に入って来るなり、そんな物騒な話をまくし立てた。
「銃撃戦? なんで」
あっけに取られながらも、キクナは問う。
「昨日ジェノベーゼファミリーのパーティーが開かれたみたいなんだけど、そのパーティーに招待されていた客の一人がボスの暗殺を企てたんだって」
チトは興奮からか、声が高くなり面白そうに語る。
「本当なの?」
「本当だよ。街の奴らが噂してるんだ」
「そうなの。しばらく出歩かない方がよさそうね……。チトもローリーもしばらく外に出ないようにしなさい」
キクナはそう言うなり、来ていたエプロンを脱いで「それじゃあ、わたしはあの広場に行ってくるから」と自分のことは棚に上げてチトに告げた。
「外に出るなって言ったのはあんただろう……」
「わたしは大丈夫。大人だもの」
「そんなの不公平じゃないか……」
キクナは振り返っていたずらっぽく笑った。
「すぐに戻ってくるから。おとなしく待ってて」
と言ってアパートを出た。
ひと月近くも通っていれば慣れたもので、アリアドネの糸を使わなくとも迷うことはなくなった。
入り組んでいる路地裏だけど、慣れてしまえばどうということはない。
いつか子供たちが帰ってきたときに花が枯れていれば、植えた子がガッカリしてしまうと思いキクナは水をやる。
一縷の望をかけて、キクナは路地を曲がったとき人影が花壇の前に立っていた。背は低く、影だけで子供だとわかった。
風が吹き抜け太陽を受けた長い髪がキラキラと流れた。
女の子だ。キクナは感動でしばらくその少女を見つめていた。
やっと出会えた――。子供たちが帰ってきたのだ――。