case132 二つの信念
どこを見渡そうと暗黒で何も見えない。
視覚に頼れないこの状況で、頼れるのは嗅覚と聴覚、触覚だけである。ジョンは気配で少女と自分の距離を一定数計った。
その間にもジョンの頭はこれ以上ないほどフル回転している。
どうすればこの絶望的な状況を切り抜けられるのか……。
そう思ったのもつかの間、考える時間など殆ど与えられることもなく少女が動いた。さっきまでカツカツ鳴っていたヒールの音は限界まで低く、まるで猫が気配を殺して獲物に迫るかの如く静かだった――。
*
「まさかあなたが私を裏切るとは想像もしていませんでした……」
暗黒の中。透き通るような若い男の声が闇に吸い込まれた。
「裏切ってなどいないよ。きみが私を裏切ったのさ」
ラッキーよりも洗礼された重圧感のある声で男は答えた――。
暗黒の中誰にも見えないが、ラッキーは肩をすくめる。
「僕が裏切った? 裏切ったのはあなたでしょう?」
「私は争いのために技術を教えたのではない。きみは私を裏切って人間として、してはいけないことをやろうとしているんだ」
「何をですか?」
「強すぎる力は争いを生んでしまう」
「ああ――」
納得したようにラッキーは相づちをうった。
しかし男の言葉がラッキーに響いている気配は微塵もない。
「いえ、違います――」
ラッキーは芯の通った強い声で言葉を継ぐ。
「強い力は抑止力になるんです。今世界中で核の開発をしている。核を持てば自分たちは負けるわけがないと思っている馬鹿なお偉方がね。
しかし各国が核を持てば逆に、お互いが身動きを取れなくなるんです。毒を以て毒を制す――。強すぎる力は抑止力になるのですよ。あなたならわかるでしょう?」
ラッキーは昂った声で、男に訴えたが、男は哀れな者にかけるような声で継いだ。
「たしかにきみの考えもわからないではない――。強すぎる力は抑止力になるかもしれない――。
しかし一度開発された技術をなくすことはできないんだよ。今きみがしようとしていることはパンドラの箱を開けようとしているようなものだ。
上手くいけば抑止力になるかもしれない。しかし何かの拍子に思いもよらない方向にシフトしてしまったらどうするつもりだ? きみが握るその力は諸刃の剣なんだよ」
「そんな説教をするためにお越しになったんですか? だったらごめんですね。僕は戦争を起こすためにこの計画を進めているわけじゃない。戦争を起こさせないために、この計画を進めているのだから」
「力で人間を押さえることなどできるわけがないだろ。それは長いときをかけて歴史が証明していることだ。
一刻は押さえつけることができるかもしれない。しかしいつかは民衆の不満が爆発して、反乱を呼ぶんことになる」
男は聞き分けのない子供を諭すように、一言ひとことゆっくりといった。この暗闇の中吸い込まれた言葉がどこまでラッキーに響いたのかは定かではない。
「僕はこの力で、争いを終わらせるんだ――。僕みたいな子供たちを生み出さないために、僕はこの力を使う」
ラッキー言葉は、子供が駄々をこねるようときのように聞こえた。
「確かにきみは苦労してきた。しかしきみが行っていることは、子供たちを利用しているだけじゃないか――。
その理想郷をつくるために、どれだけの子供たちを利用するつもりかね」
*
闇に目が慣れ、少しは少女の影が見えるようになった。それ以外は聴覚、嗅覚、感覚、そして野生の勘を頼りにジョンは紙一重で攻撃をかわしていた。
レムレースは少女とは思えない動きを見せる。
その華奢な足から繰り出される蹴りの風圧で、真空ができかの如く。その細い腕から放たれる鉄拳は鉄板おも突き破りかねなかった。
この少女は本当に何者なのだろうか……。
その動きは人間離れしすぎていた。
「あなたのような人はじめてよ。本当に楽しい」
そういう少女の声は遊園地で遊ぶ子供のように屈託がなく、心底から楽しんでいる風だった。
手を抜いていて勝てる相手ではないことは、はじめる前からわかっている。こうなったら殺す覚悟で戦うしかない。
少女はジェット機が通過するときに発生する爆音のような音が鳴る蹴りを放った。すんでのところでジョンは背後に飛びのく。もし直撃していたならば、内臓破裂ではすまされなかっただろう。
「よくかわせたわね。あなた見えてるの?」
レムレースの攻撃をかわすのに手いっぱいで、言葉を出す余裕などなかった。ジョンは反撃のチャンスをうかがる。
レムレースが正拳突きを放った瞬間、ジョンは左横に飛びのき右足で少女の足を払う。しかしレムレースは軽く飛び上がり、ジョンの払いを難なくかわした。
ジョンは傾いた体制のまま床に転がり、少女から距離を取った。
視界が九十パーセントさえぎられている中、近距離での戦いは不利だった。しかし距離を空けても、すぐさまレムレースは詰める。少女の蹴りをジョンは右前腕で防いだ。
鉄球を本気でぶつけられたような重々しい感覚が骨の髄まで響いた。前腕から伝わった衝撃で、体中がしびれた。
駄目だ……真正面から攻撃を受けてはならない……。次同じ個所に打撃を受ければ、間違いなく骨が折れる。ヒヤリと冷たいものが背中を伝い流れ落ちた。
いったいこの華奢な体のどこから、このような力が出せるのだろうか……?
力では勝てないが、スピードなら互角ほど、いや少しだがジョンの方が勝っているかもしれない。どう戦う……どう戦えばこのピンチを切り抜けられるのか……。
一度の踏み込みでレムレースはジョンとの距離を詰めた。空気の変化でジョンは少女との距離を測る。ジョンはその場に立ち止まったまま、動かなかった。
少女の蹴りをジョンは靴底で打ち消し、その力を利用して背後に飛びのく。
「血?」
少女は不思議そうにそういった。
靴底に仕込んでいたナイフが、レムレースの足を切り裂いたのだ。
もう手加減などしていられない、ここからは本気の戦いになる。
*
「あの力は人間などがコントロールできるはずがないだろ」
男は目の前にいるであろうラッキーにいった。
「いえ、あの子はその力を完全にコントロールしている」
「どうしてわからないんだ。獣の力は人間がコントロールできるほど生易しいものじゃない。
コントロールしているつもりでも、いつの間にかコントロールされているものだ。人間が安易に手を出してはいけない。あの子だって、例外ではないんだ」
「彼女も例外ではないって。あなたはあの子の力を見ていないから、そんなことが言えるんだ。だけど今にわかります。あなたが育て上げた、あのSPを葬れば。あの子は選ばれた人間なんだとね――」
暗黒の中、水と油のように二人の信念は混じり合うことはない――。