case130 夢で見た光景
今は何時だろうか? 時計の針が動く音だけがやけに大きく聴こえてくる。誰もが寝静まり、カノンたちの規則正しい呼吸音がしている。
昼間眠り過ぎたせいで、目が冴えてしまっている……。一向に眠れる気配もない……。この長い夜をどう過ごせばいいのだろうか……。無限とも思われる長い時間を持て余し、ニックは物思いにふけっていた。
ぼんやりと憶えている、あの夢は何だったのだろうか。いつも夢で現れる少女は、自分の姉だといった。自分に姉がいるのだろうか……? いや、あれは夢の話しだ。
おれは馬鹿かッ。なに夢と現実を一緒くたんにしているんだ……。本当に自分はおかしくなってしまったのか……。ニックは枕の下に頭をうずめて、唸った。
だけど……。もしあの夢の話しが本当なのだとしたら、自分には血の繋がった家族がいることになるのだ……。
そのことは嬉しい……しかし、もしあの夢が現実に起きたことなのだとしたら、その姉はあの施設で沢山の人を殺したことになる……。
深く考えるだけで頭が痛くなる。
夜はどうしてこうも物事を深く考え込んでしまうのだろう。
ふと意識が別のことに向いた。ニックは尿意を催した。
こんな夜にトイレに起きることなど、今までに一度もなかった。トイレに起きたのではなく、はじめから起きていたのだが。
ニックは床に足を乗せた。ひんやりとした床は芯まで冷え切り、まるで氷の上に立ったかのようだった。長い間突っ立たままでいると、凍えてしまう。
トイレは長い廊下を進んだ突き当りになる。とても長い廊下でよく子供たちが、かけっこをして遊んではカリーラに怒られていた。
消灯した廊下はとても不気味だった。何もかもが静まり返った廊下は、ニックの足音だけが異様に大きく聴こえた。
北風が吹いたように、肌寒い。
ニックは両手で二の腕をこすりながら長い廊下を進んだ。豆電球だけが唯一の道しるべだった。強い風が吹きガチャガチャと窓を鳴らした。突然の大きな音で、ニックはびくりと肩を跳ね上げた。
「な……何だ……。ただの風じゃないか……」
どうして自分はこんなにビビっているんだ……?
あのとき子供たちから聞いた、話しが頭をよぎった――。
“悪霊がうろついている„ニックはブンブンと首を振り、そんな馬鹿な考えを振り払った。
幽霊何ているわけないだろ……。どうしてビビってんだよ……。そのときまた強い風が吹き、窓を揺らした。
朝なら気にならないくらいの出来事だろうが、どうして夜はこうも気になってしまうのだろうか……。
「は……早くトイレに行って帰ろう……」
ビビりながらも長い廊下を進んで行くと、どこかの部屋から明かりが漏れているのが見えた。
「こんな時間に起きてる人がいるのか……?」
あの部屋はどこだっただろうか? 暗いせいで今自分がどこを歩いているのかすらおぼつかなかった。院内の地図を脳内再生して、今自分がどこを歩いているのか考えた。
「あ、そうか聖堂だ」
光が漏れているのは聖堂だった。
しかしどうしてこんな時間に聖堂の灯りが付いているのだろう?
ニックは恐るおそる聖堂に続くとびらの前に立ち、少し開いたとびらのすき間から中を覗き込んだ。橙色の淡い灯りが聖堂内を柔らかく、抽象的に浮かび上がらせている。
橙色の光に照らされたイエス。慈愛に満ちた微笑みを浮かべたマリア様。十字架。パイプオルガン。何から何まで、幻想的でまるで夢のような光景だった。
視界をゆっくりと動かしていくと、人影が浮かぶ上がった。大きな背中がある。この教会にいる大人と言えばシスターカリーラとタダイ神父以外にはコックたちしかいない。
そうなればその背中が誰のものなのか必然的に絞られる。
タダイ神父は黒いローブに包んだ、背中を浮かび上がらせた。
いったいこんな時間に何をしているのだろう……? ニックは不審に思った。しばらく聖堂内を覗き見ていると、タダイ神父の他にも人影があることに気付いた。
タダイ神父の物より小さな人影だった。目を凝らして見てみると、同じく黒いローブを羽織った少年と少女が二人、タダイ神父の前に立っている。
離れているので顔まではわからないが、少年と少女だということはわかった。聖堂内を一通り見回してみたが、タダイ神父と子供二人だけしかいなかった。
タダイ神父は両手を天に掲げ、何かをつぶやいているようだが離れ過ぎていて聞こえなかった。
タダイ神父に続いて少年と少女も何かをつぶやきはじめた。その光景は常軌を逸しているかのように狂気的に映った。
ニックは恐怖を感じはじめた……。
けれど好奇心にはあらがえず、その光景に惹きつけられた。
意味のわからない詠唱が終わると、二人の子供はローブを脱いだ。子どもたちは服を着っておらず、裸だった。
いったい何をしているんだ……? そこまで見てタダイ神父たちが行っている行為が異常であることを確信した……。逃げなければ……本能がそう告げている。
しかし金縛りにあったように足が動かなかった。どこからともなく声が聞こえる。それは人間のものとは思えないほど、甲高く空洞内を反響しているかのようだった。
空耳などではない……。この声は子供たちの間で噂されていた獣のような声ではないだろうか……? 子供たちは苦しそうに、膝を折り両手をついた。
逃げなきゃ……早く逃げなきゃ……。
この光景を前にもどこかで見たことがあった……。どこで見たのだろう? そうだ、夢で見た光景に酷似し過ぎていた……。苦しむ少年たち……。そのあとに起こることをニックはすでに夢で見ていた。
子供たちの体が変わって行く。しかし、どこか違う……。少年と少女は銀色の体毛をまとった狼のようになってしまった……。
これは悪い夢だ……。そうだ、夢に決まっている……。ニックは自分に暗示をかけるかのように、何度も“夢だ„を唱え続けた。
「また、駄目ですか……。やはり、この方法では成功しないのでしょうか」
タダイ神父はそうつぶやいた。
成功しない……とは何のことだろう。それはどういう意味なのだろうか……? ニックの固まっていた足から力が抜け、その場に尻もちをついた。
「誰ですッ!」
カッと鬼のような目でタダイ神父は振り返る。
「誰かそこにいるのですかッ?」
タダイ神父はゆっくりとこちらに迫ってくる。ニックは腰が抜けて動けなかった……。ここで見つかってしまったら、取り返しのつかないことになることが本能でわかった……。
これは夢であってくれ……。
これは夢であってくれ……。
これは夢であってくれ……。
すべて夢であってくれ……。
ニックは何度も何度も祈った――。