case126 イレギュラー
レッドカーペットが敷き詰められた長い廊下。
ホールからは賑やかな声が聞こえてくる。
見張りの男二人はそんな、にぎやかさとは無縁の静寂した廊下で任された仕事を果たす。
「さっきの男、まだ出てこないな」
見張りの一人が不振に眉をしかめた。
「そうだな。もう中に入って十分は経つ。一度様子を見てくるよ」
男は長い廊下を再び戻り、トイレとは思えない豪奢なとびらの前に立った。ニ、三回ノックして、しばらく待つ。返事はなかった。
男の疑問は確信に変わった。あの礼服の男に何かあったに違いない。見張りはドアノブに手をかけ刑事が犯人のアジトに侵入する時のようにバン、という音を響かせとびらを開けた。
見張りは目を見開いた。
「何でしょうか?」
礼服の男はハンカチを口にくわえ、手を洗っていた。
「あ……いや、申し訳ありません。あまりに遅かったもので……」
口にくわえていた、ハンカチを取って男は手をふきながら、「ご心配おかけして申し訳ありません。神経質なもので場所が変わってしまうと、なかなかでないんです」と少し恥ずかし気な微笑みを浮かべていった。
「ああ……そうでしたか、驚かせてしまい本当に申し訳ありませんでした」
そういって見張りは慌ててとびらを閉めた。
ジョンは安堵のため息を吐きだす。
あと十秒遅ければ、手遅れになっていた。ダクトの中があれほど狭いとは予想外だったのだ。四分三十秒で管理室まで行き、四分で戻る。脱いでいた礼服に着替え直し、汚れた服を覆った。間もなくノックが聞こえたのだ。
冷や汗ものだったが、なんとかバレずに成功した。後は男がラッキーを例の場所におびき出すのを待つだけ。
ホールに戻ると、ダンスの真っ最中だった。男女がペアを組み、楽団の演奏に合わせて、優雅に踊っていた。ジョンは少し離れた場所で、その光景を眺めた。
おとぎ話の世界でしか見たことがない光景だった。
本当に世界では、このようなパーティーが執り行われているのか。
そんなことで感心していたとき、となりから聞き覚えのある声が聞こえた。
「暇かしら?」
ジョンはゆっくりと声が聞こえた方向に視線を向ける。
両手を後ろで組んで覗き込むように、人形のような少女の顔がそこにはあった。
「暇かしら? もし暇ならわたしと踊ってくださらない?」
銀髪を結い上げて、バラの髪留めで止めているその姿は、いつものミステリアスな雰囲気とは違い、絵本に登場するよなお姫様に見えた。
「レディーの誘いを断るのは申し訳ないが、私は踊り方を知らないんだ」
そう打ち明けると少女はジョンの手をつかみいった。
「そんなこと気にしなくても大丈夫よ。わたしがリードするから」
「いや、結構だ」
「女性から誘っているのに、断るのは失礼よ」
このままではまずい……。どうして、レムレースは今このタイミングで、自分の元にやって来たのか……?
この少女から距離を取らなければ。しかし、どれだけ断ろうと少女は一向にさる気配を見せなかった。
少女はしびれを切らしたように、ジョンの両手をつかみ、手取り足取りリードしはじめた。少女が手を引けばジョンも、力を抜き。少女は手をあげ、一回転する。ピアノとバイオリンの演奏のテンポが上がりはじめた。
もう、仕方がない。早く終わらせて、この状況を終わらせよう。ジョンはそう思った。
「バカなことは考えないで欲しいの」
少女は音楽のテンポが上がるのを待っていたかのように、切り出した。
「何をいってるんだ」
「あなた、彼を殺そうとしているでしょ」
ジョンは少女の眼を見つめた。
銀眼に濁りはなく、何もかもを見透かしているかのように澄んでいる。
「あんな男だけど、わたしを拾ってくれた人だから恩があるのよね。だから、彼を殺そうとするならわたしがあなたを殺すわ」
音楽の音に紛れ少女の声はジョン以外の誰にも聞こえなかった。
「どうして、そんなことを知ってるのかって顔をしているわね。前に言ったでしょ。わたしは人の心がわかるのよ」
フフフ、と少女は笑った。
そのとき演奏が終わり、人々は踊りを辞めた。
「楽しんでいただけたでしょうか」
階段の踊り場に立ち、ラッキーはみなに聞こえるように声を張り上げた。少女は澄み通った目で、ラッキーを見上げた。
「あんな男でも、わたしを助けてくれたのよ――。わたしは決めたの、彼を守るって。だからこのパーティーを邪魔しないで」
少女はジョンの横腹に手刀をそえた。
怪訝に顔をしかめて、少女の表情をうかがった。
「その手はなんだ?」
「動かないで、動いたら殺すわ」
「見たところ、武器のようなものは持っていないようだが、どう私を殺すと言うんだ」
「わたしを舐めない方がいいわよ」
少女がそういったとき横腹に鋭い痛みが走った。
横腹を恐るおそる見ると、礼服に穴が開き血が滲みでいていた。
礼服の破れ目に、少女の第一関節より先が入っている。少女はゆっくりと手を抜いた。
ジョンは目を疑った。少女の爪は鋭くとがり、はるで刃物のようだった。これはいったいどういうことだ……。
ジョンは己が目を疑った。けれど見間違いなどではない、レムレースの爪は鋭くとがり、刃物のような怪しいきらめきを放っていた。
「ごめんなさい。あなたには死んでもらわないとならないわ……。あなたとなら、友達になれると思ったのに……。本当に残念……」
ジョンは慌てて、レムレースから距離を取った。異常な動きを取ったジョンに招待客たちは一様におかしな目を向けた。
「どうしたんだ?」
ラッキーが階段の踊り場から呼びかけた。
すでにレムレースの指は華奢な少女のものに戻っている。
「いえ、何でもないの。ちょっと、彼がバランスを崩しちゃって」
「そうか」
ラッキーは疑いを微塵も見せずそういって、話しの続きをはじめた。
「時刻は十一時四十五分。楽しいパーティーも終わりが近づいてまいりました。最後のひと時までどうぞ楽しんお帰り下さい」
午前十二時にパーティーは終わる。ラッキーに近づけるチャンスは今しかない。今夜決着をつけなければ……。しかし少女の存在が大幅に計画を狂わせた。
仕掛けた時限爆弾が起動するのが十一時五十分。ここまではすべて計画通りだ。しかしレムレースがあらわれたのはイレギュラーだった……。
この少女はいったい何者なんだ。今さっき自分の横腹を貫いた、あの爪は何だったのだろう……。
ジョンに状況を整理させる暇を与えず、シャンデリアに灯っていた明かりが次々に消えはじめ、人々の視界を刻一刻と奪ってゆく。
招待客たちは悲鳴を上げはじめた。そんな状況で計画は最終段階に入ったのだ――。