file14 『サイの証言』
人々はその感情を正義感とでも呼ぶのだろうか。だとしたら、私はその正義感というものを抱いたのかもしれない。
獣の皮をかぶった悪魔を生かしておいてはいけない、と。
法では裁けない罪人を私が裁く。
そのような正義感を抱いたのは私がちょうど十歳ほどのときだった。正義感を抱いた歳に私は正儀を執行した。酔いつぶれていた、獣の寝首を掻いたのだ。
文字通り私は酔いつぶれた獣の首をナイフで掻き切ったのだった。
固唾を飲んで、サイはうなずいた。
「はい、答えられる限り答えます……」
そういったサイの表情は硬い。
サイは木粉で黄ばんだ両手を自分のエプロンのような作業服でふき取った。
作業服の網目には沢山の木粉が挟まり、手拭きに使ったその一点だけ他の生地と色が変わっている。今までも作業服を手拭き代わりに使っていたのだろう。
「じゃあ、お名前からお聞きしていいですか」
サイというのは名前だと思った。
名前はもう知っていたがキクマは姓を訊いたのだ。
「サイ・ハオと言います」
「ハオ、中国系ですか?」
「ええ、祖父の代に中国から移住してきました。それが何か?」
サイは訝し気にキクマを見み、不審がる。中国系問わずアジア系の人種への当たりは、今でもよくない。余程サイも苦労してきたようだ。言われてわかったが、確かにアジア系の顔立ちをしている。
高い鼻は鷲鼻の類に入り、目尻がきりりと切れていて、クールな印象を受ける。右目の下に泣きぼくろがあり、さぞ女装が似あう男だ、と思った。
年のころはバートンより、少し若いように見えるから二十代後半かくらいだろう。髪は長く後ろで束ねていて、見る者によれば女にみえても致し方ない。
中国人は顔が平たいと言われるが、サイ・ハオという人物は堀も深く、顔立ちもハッキリとしていて、美青年の部類に入る。西洋の血が濃くみえ、アジアの血は薄れかかっているようだった。
「あぁ、いや、私も日系三世なんですよ」
キクマは自分を指さしていう。もしかしたら、同じアジア系の血を引いている同胞に出会えて、嬉しかったのかもしれない。
まぁ、キクマのその顔からは本当の感情をうかがいしることはできないのだが。
「そうなんですか。確かに言われてみれば刑事さんもアジア系の人ですね」
「ええ、こんなところで同胞に会えるとは嬉しい限りです」
と、キクマは笑った。
珍しい、キクマが笑うとはよほど嬉しかったのだろうか。
「それじゃあ、本題をお訊きします。――ラッセルさんとは仲が悪かったんですよね」
さっきよりは感情を乱すことはなかったが、それでもサイは不機嫌気味だ。
「いえ、仲はいい方でした、ただちょっとしたことがきっかけで最近もめていただけです。だけど、僕は恨むとか根に持つとかはしていない!」
「何も疑ってかかっているわけではありません。ラッセルさんと関りがあった人、みんなに聞き回っているだけですから。話を聞くのが刑事の仕事みたいなものなんです。そう、怒らないでください。ご理解お願いします」
キクマは両手を目の高さで振ってみせた。まるで敵意がないことを相手に知らしめるように。
「それじゃあ、何が原因でもめていたんですか?」
と鋭い質問を遠慮なくぶつける。
平常心を取り戻しつつあった、サイは思いのほか動揺してみせた。
「それは……」
明らかにサイは言いよどんでいる。挙動不審に視線も定まらない。
顔をよく観察すると額に薄っすらと汗が滲んでいるのが分かった。一滴浮いた脂汗が額を流れ落ち、高い鼻筋を流れ、上唇に消えていった。
「答えずらいことだったら、無理に答えなくていんですよ。サイさんには黙秘権、というものがありますから」
額に浮いた汗を観察していたバートンは気を利かせ、サイのフォローするつもりでいった。サイは袖で額に浮いた汗をぬぐう。一度ではふき取れず、もう一度ぬぐった。
深呼吸するように二、三回息を吸った。
心を静めて、サイがしゃべりだすまで、二人は待つ。
「――それじゃあ、話しますが、僕は本当にラッセルさんを恨んだり、ましてや殺そうとなんて一度も思ったことありませんからね」
そこでまたいいよどんだが、すぐに続ける。
「……キスカさんと僕は肉体関係があったんです」
予想外の言葉にキクマとバートンは顔を見合わせた。肉体関係があったとは、つまり浮気をしていたということか。そのことがばれて、不仲になったのだろう。
バートンはキスカの顔を思い出した。ラッセルが死に、悲しむキスカの顔は鮮明に思い出せる。あの、悲しみは偽りだったのか、いや、あの悲しみは本物だった。
しかし、キスカから何か引っかかりを覚えたのはそういう、秘めごとがあったからなのだろう。
あの色々な感情がないまぜになったような顔は、旦那への気後れの気持ちからきていたのだ。もしかすると、これがキクマのいう刑事の勘というものだったのだのかもしれない。
「浮気がばれて、ラッセルさんともめたんですね」
「まぁ……そうなりますね。――みんなから慕われていたけど、あの人はキスカさんに……手をあげていたんですよ……。そのことで相談を受けていて……成り行きで……」
サイは自分の膝に視線をおとして、言いよどみながら答えた。
「つまり、ラッセルさんはDVをしていた、と言うんですか?」
最初はもじもじしていたサイだったが、「……そうです。キスカさんから聞いた話ですから嘘ではありません。僕はそのことをラッセルさんに問いただした」最後の言葉にはテーブルにこぶしを叩きつけんばかりの勢いがあった。
「それで、もめていたんですね」
サイは黙ってうなずく。目には疲れの色が浮かんでいた。
「貴重な情報をありがとうございました」
キクマは両手をテーブルについて、頭を下げた。
一枚板のテーブルには年輪や節穴をうめた跡がところどころある。
テーブルの表面を撫でてみると、ひんやりとした感触の後にすべすべとした、肌触りが心地よく手に伝わった。
このテーブルもサイが作ったのだろうか、このような家具が家にも欲しいと、バートンは思った。バートンは自分の妻と子供たちの喜ぶ顔を思い浮かべる。きっと、こんな家具が家にあると喜んでくれるだろうな、と。
「あ、お茶も出さずにごめんなさい。来客には慣れてなくて」
サイは思い出したように立ち上がり、台所に向かう。
「あ、いえ、いんですよ、気を使わなくても。ここに来る前に尋ねた、家でお茶とケーキをもらったばかりですから」
キクマは台所に向かおうとしていた、サイを呼び止めた。
「そうなんですか。本当にすいませんね」
サイは再び木椅子に、腰を落とした。キクマは二、三個の質問をぶつけるが、サイはすべてを包み隠さず答える。
動揺はしているが、嘘をついている様子ではない。嘘をつけばそれなりに反応を示すものだが、サイにはそれがなかった。
「もう一つだけ、お聞きしていいですか? これだけ、聞いたら帰りますから」
「はい……」
「本当に怪物が人間を殺し回っていると思いますか?」
「……僕には分かりません。だけど、あんな惨い殺し方人間にはできませんよ」
と、サイは眉間にしわを寄せていった。
「貴重な証言ありがとうございました」
キクマとバートンはお礼を言い、サイの家を後にする。
外に出ると、鬱蒼とした森が不気味に囁き合っている声が聞こえて来た。
確かにこんな森には怪物がいてもおかしくないな、とバートンは思う。もしかしたら、いまも樹々のあいだから怪物が覗いているかもしれない。
明日、山狩りが行われる。伝説のように怪物を捕獲できるのだろうか。捕獲できたとしても、伝説通りならまだ事件は終わらないことになる。
そう、英雄があらわれるまでは。明日になってみないと、誰にも分からない。そして、キクマとバートンは引き上げた――。