case120 家路
下界から忘れ去られたように、時間が止まっている。
空気も肌をなでる風もすべてが、違った。周辺を建物に囲われて、広場のように開いている空間に子供たちが拠点としているアジトはある。
通常なら絶対に来られないこの場所は、誰にも荒らされることなくただ膨大な時間を植えられた草木の成長と共に流れゆく。
「すごいわね……こんな場所がこの街にあるなんて」
キクナは感嘆のため息をもらしながら、となりにいるチトにいった。
「この街にはどんなところでもあるさ。普通の奴らはただ見ないふりをしているだけで」
「本当にそうね。見ないふりをしているというよりかは、見えないのよ。きっと。虫眼鏡で見るように、よーく見ないと何も見えないのよ」
キクナはそう言いながら、花壇に歩み寄った。
誰が手入れをしているのか、色々な種類の花々が咲いており朝露が流れ落ちず花弁に溜まって輝いていた。
「それじゃあ、おれはここで待ってるからあいつらんとこ行って来いよ」
「えっ……。わたし一人で?」
「当たり前じゃん。あんたが連れてこいっていったんだぞ」
「それもそうだけど……チトも仲直りしたいんじゃないの?」
キクナがそういうと、チトは「はッ……」と顔を赤くした。
「な、何言ってんの……? いいから行って来いよ。あいつらは人に手をあげるような奴じゃないから、安心して大丈夫だから」
何度もチトを説得したが、キクナに同行してくれることはなかった。渋々廃墟のなかに足を踏み入れる。ひんやりとした空気で、中は五度ほど低く思われた。
「あの……お邪魔します……」
小さな声でつぶやいたつもりが、トンネルの中のように音が反響して壁に消えてゆく。
「あのぉ~、留守ですかぁ~」
キクナは入り口から小股で五歩ほど進んだところで、立ち止まり辺りを見回した。リビングとして使っているのか、ボロボロのソファーが置かれて、いつ足が折れてもおかしくないテーブルがあった。
壁際に木箱が積み上げられていて、木箱にそって目線を奥にやると通路がある。通路の奥に何があるのか暗くて見えないが。きっと部屋があるのだろうことは何となくだがわかった。
人がいる気配は全然しない。もう長い間誰も住んでいないように、人の気配というもの。つまり生活感がなかった。
「あの~、誰かいませんかっ」
通路の奥にも聞こえるほど大きな声で、もう一度キクナは呼んだ。しばらく待てど、誰も姿をあらわさない。
テーブルに歩みより、キクナは指を這わした。指には微量の埃がつくくらいでそれほど埃は溜まっていない。これだけでは、いつからいないかなど名探偵でない限りわかるわけがなかった。
仕方なくキクナは外に出た。
中に入ってわずか、五分ほどだった。
「どうしたんだよ……? えらく早かったじゃないか?」
チトとローリーは木陰に隠れていた。
木陰の影からチトは顔だけを出して、キクナにいった。
「その……誰もいなかった」
「誰も?」
「誰も」
しばらくチトは考えるように押し黙ってから、確信に満ちた表情でいう。
「まだ昼過ぎだし、獲物を探して街をうろつき回ってるのかも知れないな」
「かも知れないね。帰ってくるまでどうしてよっか?」
「帰り道は憶えてるか?」
「まあ~……憶えてると思うけど――それがどうしたの?」
「それじゃあ、おれたちは帰るからあとは一人でやってくれ」
そういってチトはローリーの手を引いた。
「ちょ、ちょっと待ってっ! わたしを置いて行かないでよォ~……。それに謝るんじゃなかったの? 昔のこと」
一瞬チトはきまり悪そうに、眉を引きつらせて「そのことはもういいんだよ……」と話を打ち切るようにいった。
「どうして……? さっき言ってたじゃん。謝るって。謝ろうよ。ちゃんと話せば許してくれるよ。悪い子たちじゃないんでしょ?」
「そうだけど……」
「ね、わたしも一緒に謝ってあげるから」
親指を立てながらキクナはいった。
「おせっかいなおばさんみたいだぞ」
チトは目を呆れたように細めて、いった。
そういうことで樹に背中を預け、三人は子供たちの帰りを待つことにした。子どもたちはどういう表情をするだろう。昔のともだちと出会うのだ。
ビックリするだろうか? 照れくさそうにするだろうか? そんなことを考えながら一時間ほどが過ぎたと思う。
時計を持っていないので、今が何時なのかわからない。太陽は建物にさえぎられ、すでに見えなくなっていた。
太陽が隠れてしまったせいで、建物に囲われたこの広場全体が影になり肌寒い風がすき間から通り抜ける。
「帰って来ないね……」
キクナは頭上をおおう枝を見上げながら、いう。
「獲物が見つからなくて、粘ってるんだろう」
「そうかな?」
「わからないよ」
ローリーはチトの肩を枕代わりにして眠っていた。寒くないだろうか? けれど毛布代わりにできる上着をキクナは持っていなかった。
「ローリー寒くないかな?」
キクナがそう訊くと、チトは当たり前のように淡々という。
「大丈夫だよ。慣れてるから」
チトのその話を聞いて、そうか……この子たちはこういう生活に慣れてしまっているいるのだ。
きっとこの子たちが住んでいたところは、すき間風が入ってくるところだったのだろう。温かい毛布もろくにないところだったのだろう……。キクナは自分のことのように心が痛んだ。
それからさらに一時間ほどが過ぎ、空は仄暗くなった。
「帰って来ないね……? いつもこんなに遅いのかな?」
「おれにわかるわけないだろ……」
もう少し待てば帰ってくるだろうか? けれど、もうすぐ暗くなってしまう……。キクナは帰ろうか、もう少し粘ろうか思案していると、ローリーが可愛らしいくしゃみをした。
そのくしゃみを聞いて、キクナは決めた。
「帰ろうか」
チトはキクナの横顔を横目に見ながら、短くいう。
「ああ」
チトはローリーの肩をゆすり、起こす。まだ眠そうに眼をこすりながら、ローリーは起きた。
「あなた達、夜はどこで眠るの? もうあなた達が属していたところは追い出されちゃったんでしょ?」
「あんたには関係ないだろ」
「もし良かったら家に来ない」
チトの瞳が一瞬揺れた気がした。
「べつにいいよ。夜をしのぐ場所なら沢山知ってるから」
そういったとき、ローリーがチトの袖をつかみ、寝起きとは思えないハッキリとした声でいった。
「行きたい」
「じゃあ、決まりね。わたしの家においで、美味しいものをたくさん作ってあげるから」
「勝手に決めんなよッ!」
チトは怒鳴った。けれど、ローリーは怒鳴りに臆することなくキクナの手とチトの手を握り、まるで親子三人が並んで歩くように手をつないだ。
チトはローリーの顔をうかがい、渋々と言うようにいった。
「おれは別にどこで眠ったっていいけど、ローリーが行きたいみたいだから――おれも仕方ないからついて行くよ」
素直じゃないねぇ~、とキクナは猫のような微笑みを浮かべながら思った。手をブランコのようにふりながら、三人は家路についた――。