case113 懲罰房の悪霊
いったいこの壁の文字は誰が彫ったのだろうか……?
ランプの淡い光で照らされた、壁面は不気味な影を狭い部屋の中に張り巡らせた。
どうして、こんなところにこんな不気味な文字が彫られているのだろう……? ニックは恐怖した、いや、ニックだけではない、子供たちはみな恐怖した。
「誰も読めないのかよ……」
そういって、チャップはみんなの顔を見まわした。
少年たちはいっせいに首を振る。そのとき、背後から足音が聞こえた。
「まったく、あなた達勉強してたんじゃないの?」
とセレナが呆れたようにいった。
「勉強してたさ……だけど、今のオレたちが習っていない単語ばかりじゃないか……」
カノンは言い訳するような口調でいうと「ふぅ~ん」とセレナは疑うような目で男子たちを見回した。
「まあ、いいわ。ちょっと、壁際を照らしてくれる」
セレナは壁際に歩みより、カノンにいった。
「ああ……」
カノンは言われるがまま、持っていたランプを壁面に近づける。
デコボコに凹んだ彫り込みに真っ黒な影をつくり、その文字はいびつに歪んで見えた。
「『私は深い眠りの中にいる。深い、深い、眠りの中に……』」
「え?」
突然わけのわからないことをつぶやきはじめた、セレナにカノンは質問とも取れない声をもらした。
「ここにそう書かれてあるの」
「ああ、そうだったのか。続けてくれ」
改めて、セレナは壁面に向き直った。
「『起きていることに気付かなければ、眠っていることと変わらないのではないか。
意識が覚醒していようと、気付かなければ、眠っていることと何も変わらないのではないか』」
「何かの詩なのか?」
「わからない……」
セレナも眉をしかめながらいった。
「まだ、あるわ。『呼ぶ。私を呼ぶ。私に何かを言っている。誰かが呼ぶ。誰かが私を呼んでいる。耳では聞こえない声が私を呼んでいる』
『私は目覚めた。暗い、暗い、視界が開き、私は目覚めた。これが私が生まれて初めて、持った記憶だ。暗い、暗い、記憶だ。
私を産んだのは、獣と女だった。獣と人間の間に、私は生まれた』
『目覚めた、私は目覚めた。こんなに辛いのなら、目覚めなければ良かった。こんなに辛い世界なら、目覚めなければ良かった。
こんなに苦しいなら、目覚めなければ良かった。辛く苦しい世界で私は目覚めた』これですべてよ……」
「で、結局どういう意味なんだよ?」
「わからないわ……。何かの小説の一節かも知れないし、ここに閉じ込められた、誰かが彫った呪いの呪文なのかもしれない」
セレナが推測してみせると、チャップは言葉を継いだ。
「たぶん。ここに閉じ込められた誰かだろうな。わざわざ、こんなところまできて、こんな文章を彫って行かないぜ」
「そうよね……あたしもそう思うわ……」
チャップはカノンからランプの灯りを受け取り、壁面を照らした。
「傷の具合から見て、彫られて相当経つな」
「そんなことわかるのかよ?」
カノンは感心したようにいうと、チャップは照れ臭そうに頭をかいた。
「まあ、勘だけどな。ずっと昔、ここに閉じ込められた子供が、彫ったんだろう」
「どうして子供だってわかるの?」
セレナも不思議そうに訊く。
「だって、子供しか閉じ込めないだろう、ここには」
「そんなのわからないじゃない。もしかしたら、何か失敗を犯した大人を閉じ込めていたのかもしれないわ。それで、腹いせに彫ったのよ」
「まあ、そうかもしれないな。子供とは限らない。だけど、問題はどうして、こんな文章を彫ったかだ。ええっと、なんて書かれてたっけ?」
救いを求めるようにチャップはセレナを見た。
「『呼ぶ。私を呼ぶ。私に何かを言っている。誰かが呼ぶ。誰かが私を呼んでいる。耳では聞こえない声が私を呼んでいる』よ」
セレナは答えた。
「ああ、そうだった。つまり、誰かが誰かを呼んでんだよ」
「そんなことわかりきってるわ。それに、耳では聞こえない声って彫られてるのよ」
「ああ……たしかにそうだな……。目覚めたか何か書かれていたよな。つまり、起こしてほしくないのに、誰かに起こされて、その腹いせに彫ったんじゃないか」
セレナは「はぁ~」と呆れ果てた、ため息をついて、「本当に男は単純ね。起こされたくらいで、ここまで手の込んだことはしないわよ」という。
「まあ、たしかに、そうだよな……。じゃあやっぱり何か悪いことをして、ここに閉じ込められた奴がやったことさ。そうに違いない」
「たぶん、そうだろうけど……何だか怖いわね……」
セレナは気味悪そうに壁面を見つめた。
「たしかに……不気味だよな……」
セレナとチャップがそう漏らしたとき、カノンがからかうようにいった。
「ここに死ぬまで閉じ込められた、人間が彫ったものかもしれないぞ。飢えと渇きに苦しみながら、恨みを込めて彫ったんだ。
そして、その人物は息絶えたんだよ。今もこの懲罰房の中には、この文章を彫った奴の怨念がうろついているかもしれないなぁ~」
「ちょっと……冗談辞めてよ……」
いつものように怒ると思っていたセレナは、肩を抱いて弱々しくいった。
「どうしたんだよ? 怯えてるのか?」
カノンは追い打ちをかけるように、セレナをからかうと「お、怯えてなんかないわよッ……怯えてなんか……」とそのとき、「バン」とカノンが大きな声で叫んだ。
セレナはひッと割れた悲鳴を上げて、床にしゃがみ込む。
「ハハハ、やっぱり怯えてるんじゃないか。やっぱり、女は女だな」
セレナは肩を抱いて、小刻みに震えていた。
いつもは気の強いセレナでも、今回ばかりは言い返さない。
「おい」
チャップは少し険しい声で、カノンにいった。
「何バカなことやってんだよ。女の子をいじめて楽しいのかよ」
「いじめてるわけじゃないって……ただ、からかってるだけだろ……」
「同じじゃないか。おまえは面白いかもしれないけど、やられている方はどれだけ怖いか、嫌か、考えてもみろよ」
カノンはチャップから眼をそらした。
「ごめんな……セレナ……。ちょっとやり過ぎたよ」
そうカノンが謝ると、セレナはゆっくりと立ち上がった。
「ええ、別にいいわ。ちょっと取り乱しただけ。もう大丈夫よ。ゴーストなんているわけないもの」
セレナがそう言ったとき、ランプの灯りが揺らいだ。
今度はセレナだけでなく、少年たちの表情も引きつる。
「ちょっと、また……やめてよ……」
「違うオレじゃない……それに、ランプを持っているのはチャップだ」
「ああ、オイルがもう切れそうなんだ」
そういってチャップはランプの灯りを絞った。
「嘘でしょ……」
「本当だ」
「もし切れたら、真っ暗じゃないか!」
「ああ。もう、少ししかないから、ランプを切るぞ」
返事を聞くまでもなく、チャップはランプを消した。
今まで明るかった、懲罰房に再び闇が訪れる。
目が闇に慣れるまで、子供たちは体を寄せ合いお互いの存在をたしかめ合った――。