case109 チトの解放?
キクナはローリーと出会った路地に向かっていた。
いつ通っても、人通りがまばらで、まるでゴーストタウンのようだ。
物陰から、鋭い眼光がのぞいている。一瞬ぎょっとしたが、その眼光が猫のものだとわかりホッとする。
まったく、ビックリさせないでよ……と猫に愚痴ったそのときだった。
前方を歩く人影が視界に入った。
こんな路地を歩く人には警戒を示さないわけにはいかなかった……。
警戒しながら、その人影を観察していると、まだ子供ほどの身長しかないことがわかり少し気持ちが緩む。
(子供……?)
こんなところに子供が一人で、うろついている……?
そう思ったとき、ローリーがキクナの手を放し急に駆けだした。
「あ、ちょっと、どうしたの……」
キクナは手を突き出し、ローリーの手をつかもうとしたが指さきほど届かなかった。
ローリーは前方を歩く人影に駆け寄るや、全体重をかけるように抱きついた。抱きつかれた人はよろりと、ふらついたが体幹がしっかりしているのか、こけることはない。
「おねえちゃんッ!」
ローリーはそう叫んだ。
(おねえちゃん……? いったいどういうこと……?)
どうしてローリーはこの人のことをおねえちゃん……と呼ぶのだろう。だって、ローリーのおねえちゃんは……。
キクナはその光景を見ながら呆然と立ち尽くした。
ローリーがおねえちゃんと呼ぶその人影は、一瞬びくりと体を震わせた後、飛びついた相手が自分の見覚えのある人物だとわかるやいやな、「ローリー!」と歓声の叫びをあげて抱き返した。
やはり、この子供がローリーのおねえちゃんなのか……。
キクナはおねえちゃんの顔が識別できる距離まで近づいたとき、その“おねいちゃん„を見たことがあることに気付いた……。
「あなたは……」
ローリーの肩にあごを乗せて、おねえちゃんは背後に立つキクナを見た。
「あんたは……」
キクナとおねえちゃん二人は呆然と、見つめ合ったまましばらく固まる。
「あのとき、教えてくれるって言って逃げ出した子が、ローリーのおねえちゃんだったの……」
このときほど因果を信じる気持ちになったことはない。
「どうして、あんたがここにいるんだよ」
おねえちゃんがそう訊くと、ローリーが代わりに説明した。
「あのね、このおねえちゃんがローリーを助けてくれたんだよ」
ローリーとキクナの顔を交互に見て、疑い気味におねえちゃんはいう。
「本当に?」
「うん」
おねえちゃんはローリーから体を放し立ち上がった。
「あんたが助けてくれたのか?」
「あ、いや」
助けたのはわたしじゃなくて……果物屋の店主さんなんだけどな……と言おうとしたけど、その前におねえちゃんは言葉をついた。
「本当にありがとう」
「いや、うん……。あなた女の子だったのね。わたしてっきり男の子だと思ってたわ」
「女に見えない?」
「あ、いや……そんな意味でいったんじゃないの。ごめんなさい」
「謝ることないさ。あえてこの格好をしてるんだから。女だと思われると、みんな舐めてかかってくるからな」
キクナはおねえちゃんの姿を足先から、順に視線を上げる。
灰色にズボンはくたびれて、ひざ丈がやぶれている。ジャケットのような服をシャツの上から羽織、少年のようないで立ちだった。
そして、何よりおねえちゃんを少年たらしめていたのは、短く切られた髪の毛だった。
よく見ると整った顔をしているから、髪を肩まで伸ばせば可愛い少女になるだろうとキクナは思う。
「妹を助けてくれて、ありがとう。何か礼をすることが礼儀なんだろうけど、おれ何も持ってないから――」
「そんなことないわ」
キクナは本筋を思い出した。
自分は何のために街をうろつき回っていたのかを。
「じゃあ、訊きたい話があるの」
「はなし?」
「ええ、話を訊きたいの」
「おれ……何も知らないぜ」
ローリーのおねえちゃんは少年らしい口の訊き方をする子だった。
「いえ、カノンって子の話よ。知ってるって言ったでしょ?」
その名前を出した途端、おねえちゃんの顔が歪んだ。
「どうして、そんな話を訊きたいんだよ?」
キクナは包み隠さず、話すことを決めた。
「その子たちを見つけて、家族を与えてあげたいの」
「かぞく……?」
「ええ、だから、その子たちの居場所を教えて欲しいの」
キクナはおねえちゃんの眼を見つめたままいった。
「おねえちゃん……チャップたちのことでしょ……。教えてあげましょうよ……。このおねえちゃんはローリーを助けてくれたんだよ……」
ローリーは姉の袖をゆすりながら、一緒に説得してくれた。
姉はやさしい目をして、ローリーを見下ろし、「わかったよ……命の恩人みたいなもんだもんな」とキクナに向き直る。
「おれが知っていることすべて教えてやるよ」
「ありがとう。そうと決まったら、ここで話を訊くのもなんだから、どこか休めるところに行かない?」
少女たち二人は、お互いに顔を見合わせてうなずいた。
キクナは繁華街にあった、白い外壁が印象的なカフェに向かう。
「ローリーこんなところに入るのはじめて!」
ローリーは興奮気味に店の屋外を見渡しながら、いった。店内に入ってからも、ローリーは目にお星さまを輝かせながら、ソワソワと落ち着きがなかった。
「紅茶でいい?」
キクナが訊くと、「何でもいいよ」とおねえちゃんは答えた。
注文を取りに来たウエイトレスにメニューを返して、「それじゃあ、紅茶とケーキを三つください」と告げた。
「かしこまりました」
ウエイトレスはメニューを懐に抱いて、綺麗にお辞儀をして厨房に消えた。
「それじゃあ、まず聞きたかったことなんだけど――」
そこまでいって、おねえちゃんの名前は何て言うのかを聞いていないことに気付いた。
「おれはチトってんだ」
ローリーのおねえちゃんはキクナが訊こうとしていることを悟って、先に名前を告げた。
「チト。可愛い名前ね。――わたしはキクナっていうのよろしくね」
キクナも名乗った。
「どうしてチトちゃんは、逃げだせたの?」
「どういう意味だよ?」
「あ、ごめん。つまり、そのノッソンって子に捕まってたんでしょ。どうやって、逃げ出せたのかなって思って」
「知らないよ。何か知らない男がアジトに訪ねてきたと思うと、そいつがあいつらに言ってくれたんだ。
『その子を解放させてやってくれ』って。それで、おれは解放されたんだ」
「男の人が? 誰なの?」
「だから、知らないって言っただろ。黒い服を着た男だった」
「黒い服……?」
一瞬あのときぶつかった、男を想像したがそんな訳ないよね……。と考えを振り払う。
「そうなのね。なにはともあれ、よかった。もし、チトちゃんの身に何かあったら、ローリーは一人になっちゃうもの」
話をしていると時間はアッという間で、ウエイトレスがケーキと紅茶の載ったトレイをもってあらわれた。
無駄のない動作で、すべてを並べ終えると砂時計を置いて、「この砂時計いがすべて落ちてから、紅茶をお注ぎください」と頭を下げて去って行く。
「それじゃあ、子供たちのことを教えてちょうだい」
キクナはテーブルの上で手の平を組んで、切り出した――。