case100 子供たちの過去 前編
「オレがチャップに出会ったのは、オレが八歳、アノンが五歳の時だった。前にも話したけど、オレたちはユダヤ人で親父とお袋はあのイカレタおっさんに殺されちまって、オレ達を育ててくれたばあちゃんはそのショックで、体を壊して死んじまったんだ……。ここまではいいな?」
「ああ。そこまではいいよ」
「そのまま、ばあちゃんの家にいてもSSの奴らに見つかっちまうから、オレとアノンは家を出ることにした。長い放浪のすえ、あの街に行きついたんだ。街についたはいいものの、とうぜん右も左も、後ろも前も、何にもわからない状態だ」
「当然だよな。まだ八歳だったんだろ? よく街までたどり着けたと思うよ。下手をすれば道中野垂れ死にだもんな」
言えてる、というようにカノンは笑った。
「助けてくれる人もいたんだよ。腹が減ったら食べ物を恵んでくれたり、寒ければ衣服をくれたり、家に泊めてくれたりな――」
カノンは昔を懐かしむように、振り返る。
「そういう優しくしてくれる人たちがいたから、オレはひねくれなくて済んだんだと思うな」
「いや、十分にひねくれてると思うけど?」
ニックは即座につっこみを入れると、カノンはムッとして、一瞬ニックを睨んだ。
「オレのどこがひねくれてるっていうんだよ? え?」
「いや、ひねくれてないない。すごく素直だって……」
両掌を胸の前でブンブン振って、ニックは訂正する。まあ、たしかにカノンは陽気で、心の真っすぐな良い奴なのは本当なのだ。
「あのとき、世界には優しい人たちもいるんだって、知ったからオレはひねくれなくて済んだんだよ――本当にな」
「ああ……そういう人たちに出会えるか、出会えないかで人間って変わるよな――。おれもあのときパンをあの男からもらわなかったら、おまえ達にも出会えなかったし。きっとあのまま、路地でごみのように死んでいたと思うから……」
「人間は出会いなんだよ。人で人は変わることができるんだ。どんなにいい人でも、悪い人と付き合っていれば悪に染まり、どんなに悪い人でも、いい人と付き合っていれば、膳にもなれるんだ――。そう思わないか?」
ニックはこくりとうなずいた。その通りだと思う、と。
「街についたオレ達はこれから、どうやって生きていけばいいのか考えた。まだ八歳と五歳の子供を雇ってくれるところなんてあるわけがない。
どうやって食っていけばいいのか、わかるわけないよな?」
「ああ……」
「それでオレはどうしたと思う?」
「わからない」
「早いって、ちょっとくらい考えろよ」
カノンは考えて欲しそうにしてるので、仕方なくニックは考えるふりをする。
「路地に座って……物乞いをしたのか……?」
「いや、それも一度は考えたんだけど、あるものを見ちまったんだ」
「あるもの……?」
カノンはニックの眼を真正面から見つめ、うなずく。
「街について、しばらく途方に暮れていたとき、子供たちが数人チームを組んで、スリをしている光景を見たんだ。
それがすごくかっこよくって、大人の力をかりずに子供だけで生き抜くドブネズミみたいな姿が本当にかっこよく見えたんだよ。
それに憧れて、オレは見よう見まねで大人の後ろに貼り付いて、スリをやってみることにした」
カノンの顔が痛みを堪えるように歪んだ。
「けどやっぱりはじめてだから、失敗するわな」
「ああ、そうだよな。おれもおまえ達に連れられてはじめて、スリをしたときは緊張で何も考えられなかった。あれと同じだよ」
「ああ、何でも失敗しなきゃ上手くならないんだよ。はじめてオレがスリの標的に選んだ奴が運悪く男で、感づかれちまって捕まっちまった……。当然悪ガキはボコボコにされるよな」
ニックはどう答えていいのかわからず、苦笑いを浮かべるしかない。
「親も何も頼れる人がいないと、大人は子供を甘く見るんだよ。このガキには何をしても、誰も咎めやしない。
これはしつけなんだ、って足腰が立たないくらいにボコボコに殴られた。だけど、ひでぇ~よな……。あそこまでボコボコに殴ることないぜ」
「おれはそのときの光景を見てないから、何とも言えないけど、その様子じゃあ、相当手ひどくやられたんだな」
「ああ、頭はたんこぶだらけ、目は腫れあがり、体中にひびが入ったように動かなくなったんだぜ。本当にあのときは、死ぬと思ったんだからな。アノンを一人残してオレは死んじまうのかって……。
それで道端でぶっ倒れてるオレのもとに、あらわれたのがチャップなんだよ――」
カノンは食堂の天井をあおいで、そのときの光景を脳内で再生するかのようにしばらく干渉にふけった。
「『おまえどうしたんだよ? そんなにボロボロになって』ってチャップは訊いてきて、口の中も切れているから、上手くしゃべることができなくて、代わりにアノンが説明したんだ
『お兄ちゃんは……お兄ちゃんは……ぼくのせいで殴られちゃったんだ……』って泣きながらな……。
アノンのせいなんかじゃないんだけど、あいつは自分のせいだと思っちまって……しばらくは泣き止まなかった――」
「ああ、想像できるよ」
「それで、チャップにかつがれてオレはアジトに連れて行かれたんだ。アジトっていうのは、オレ達が住んでいたあそこだぜ。
そのころはまだ、ミロルとチャップの二人だけだった。あとは、想像の通り、オレとアノンはチャップとミロルの仲間に入ったってわけさ」
「そういう出会いだったんだな」
「ああ、困ってる奴がいたら、ほっておけないんだよチャップはな。オレはミロルとチャップからスリの技術を教わった。
おかげで一人でも生きていけるくらい、スリが上手くなったよ。いまでは一番上手い。
それから一年くらいかな。セレナが仲間に加わったんだ。オレも詳しくは知らないんだけど、セレナは父親から暴力を受けていたそうだ」
そういえばセレナのことも全然知らない……。
自分はみんなのことを何も知らないのだ……。
「セレナの母親はどうしたんだよ?」
「そこまでは知らない。オレがセレナから聞いたのは、父親から逃げてきたって話だけだから。
路地でドロドロになって震えているところを、オレ達が見つけて、ほっておけなかったから連れて帰ることにしたんだ。
はじめは男だと思ってたから、女だとわかったときはビックリしたもんだ。はじめは女を仲間に入れて大丈夫なのか? って思ったけど街に放り出したら、酷い奴らに捕まって、酷いことをされるのは目に見えてるだろ? あれはあれで、けっこうかわいい顔してるからな」
「ああ」
「今となっては、あいつがいなきゃ回らないくらいだけどな」
ニヤリとカノンは笑った。
ニックもうなずきながら、「ああ、本当に働き者だもんな」と同じく笑う。
「家のことをすべてしてくれるからな――」
そのとき、時計の針が八時をさした。
それと同時に、廊下の方から足音がバタバタと轟きはじめる。
「朝飯の時間になったな。チャップとミロルの話はまた部屋に戻ってからしてやるよ」
「ああ、それじゃあ」
子供たちが雪崩のように食堂の中に押し寄せた。
みるみる、席が埋まりおしゃべりの入り混じった雑音が食堂の中に響き渡る。セレナが席にやってきた。少し遅れて、チャップとミロルも席についた。
みんなのことを知ったつもりでいたけど、一人ひとり違う人生があって、色々な思いで寄り集まり助け合い、暮らしていることをニックは再実感した――。