case97 ウイックの過去③
川は流れる。水面はまるで生命が宿っているかのように、滑らかに流れている。物体は揺れながらも、いびつにその姿を川面に映している。
ウイックは川面に映った化け物の顔を、恐怖に怯えながら見つめた。
しばらくして、その化け物は自分と同じ動きをしていることに気が付いた。自分が手をあげれば、川面に映る化け物も手をあげる。自分が動けば、川面に映る怪物も動く。
ウイックは気付いた。川面に映る怪物は自分自身なんだ、と。
信じられない気持ちで、ウイックは自分の顔を乱暴に触った。骨格からして、人間のそれではなかった。
口が裂けている――。
目が見開かれ、吊り上がっている――。
鋭い牙がはえている――。
体が膨れ上がったような、筋肉の鎧を着ている――。
指先から伸びる爪は、刃物のように鋭く研ぎ澄まされ危険な光を放っている――。
脚は湾曲して、まるで四足歩行の動物のようになっている――。
言葉を出そうとすると、裂けた口角から空気が漏れて、人間のものとは思えない、伸びたガラガラの声が出た。出せる言葉も限られていた。
自分はクッソ! と叫んだつもりでも狼の遠吠えのような甲高い声がでた。
(いったい……俺に何が起きたんだ……)
ことの経緯をウイックは思い出す。
そこで、ハッと映画のフィルムが巻き取られるようにウイックは思い出した。みんなは……どうなったのだろうか……? と。みんなは無事なのだろうか。記憶が混乱していて、よく思い出せない。
(戻らなければ……あの場所に戻らなければ……)
ウイックはその感情に強く心を動かされた。どうして、自分は逃げてしまったのだろう……? そうだ……怖かったからだ。屍の中に立っているのが怖かったから、尻尾を巻いて逃げ出したのだ。
ウイックは後悔しながら、走ってきた荒野を再び走りはじめた。
足がとてつもなく速かった。まるで体すべてがバネのように、跳躍する。体を前のめりにさせ、空を泳ぐようにして前進した。
すごく気持ちのいい感覚だった。
風になったような、疾走感と清々しさだった。そこで、ウイックは自分が獣に近づいていることに気付いた。このままじゃ飲み込まれる、そうウイックは悟った。
この快感に身を任せれば、戻って来られなくなるのだ。ハッキリとしたことはわからないが、野性の勘とでも言う何かが、自分にそう告げている。
ウイックは神経を集中させて、意識を保つのに専念する。
体の中に意識を集中させると、禍々しくどす黒い何かが体の中にうごめいている感覚を感じる。体の中に何かが住みついている。こいつに負ければ、自分は消える。
内なる自分と戦いながら、ウイックは戦場へと舞いもどった。
血煙が荒野の隅々まで広がり、息を吸うのも耐えられなかった。普通なら、ここまで臭いを感じることはないだろう。しかしこの体の影響で、五感が何倍、いや何十倍にも研ぎ澄まされているのだ。屍が荒野に転がっていた。
(これすべて、俺がやったのかよ……)
動かなくなった肉の塊を見渡しながら、唖然と立ち尽くす。
自分がやってしまったことを自覚すると、猛烈な吐き気に襲われた。ウイックは胃の内容物をすべて吐き出した。吐き出すといっても、胃酸だけしか、戻すものはなかった。
徐々に体から、力が抜けていくようだった。
体が重くなり、立っているのもやっとなほどだ。
体がゆっくりと小さくなってゆくような感覚があった。
戻っている……。人間の体に戻っている。
体が戻るにつれ、全身に激痛が走り抜けた。一瞬意識を失いかけたほどだ。アドレナリンが切れたかのように、強烈な痛みが増してゆく。
筋肉が収縮して、体が内側にまるまるように前のめりに倒れた。
重力が十倍の世界にいるかのように、体が大地に吸い込まれる。
指先一本動かすことができなかった。磁石で体が地面に磔にされているように、深淵に吸い込まれてゆく。
とうとう体が激痛と、脱力感に負け意識が遠のきはじめた。
屍の荒野の中に、ウイックは吸い込まれ消えた――。
ハッと意識が戻り上半身を起こそうとしたが、動かなかった。
ここは……どこだ……。ウイックは仰向けに横たわったまま、あたりを見回した。目がチカチカするほど、白い部屋だった。自分は白いベッドに横になっている。
ここはどこかの部屋の中だ。
窓がないから、今が夜なのか朝なのかすらわからない。眼球が動く範囲、見回しても時計すらなかった。
真っ白い部屋には白いベッドと、鉄のように冷たい光を放っているとびらしかなかった。歯を食いしばって、ウイックは上半身を起こす。全身複雑骨折しているかのような感覚だ。
通常の何十倍の時間をかけて、上半身を起こすことに成功すると、通常の何十倍もの時間をかけて立ち上がった。
はじめて歩く赤子のようにおぼつかない足取りで、ウイックはゆっくりと、とびらに向かう。
とびらの前につくと、金属のドアノブをつかんだ。
ガチャガチャ、とドアノブを捻ったが、外から鍵がかかっているようでびくともしなかった。
「クソが!」
ウイックは叫んだ。
叫ぶと体中が強く傷んだ。けれどウイックは叫び続けた。
「いったい! なんなんだよ! ここはどこなんだよ! 誰かいねえのかよ!」
それほど広くない密閉された室内は、防音室のように声が反響した。
そのときだった。鉄のとびらがガチャガチャとなったと思った途端、とびらがゆっくりと開いたのだ。
ウイックは鋭い眼つきで、開いたとびらを凝視した。
一人の白衣を着た、男が後ろ手に腕を組んで室内に入ってきた。
「気が付いたようだね。まず、ご苦労だった、といっておこう」
そう言いながら、男は部屋の中央で立ち止まり、ウイックの方に顔を向ける。
「そして、おめでとう。きみは合格だ」
男は淡々と感情の気迫のない、声でいった――。