case96 逃げてきた、ローリー
薄暗い路地の一角。
日の光がほとんど届かないため、ジメジメとした陰湿な空気が充満している。人通りがまばらで、この道を通る人たちは眼つきが鋭く、近寄りがたかった。
キクナはT字路に別れた道の物陰で、子供たちがあらわれるのを待っていた。果物屋の店主がいうには、ここで子供たちをよく見かけるそうだ。
近くにストリートチルドレンの子供たちがアジトにしている、場所があるはずなのだ。しかし、かれこれ、二時間近く張り込んでいるが、子供たちは愚か人自体がまばらだ……。
張り込みというのはこれほど、大変なものなのか……キクナは兄の偉大さをあらためて実感した。兄は短気だけど、根気強い性格で弱音一つ上げない人だ。
それに、見つけたところで何をすればいいのだろう? まず、それを考えておかなければ、見つけてもこの前みたいに逃げられてしまうのではないだろうか?
同じ轍を踏まないためにも、考えておこう。
しばらく物思いにふけろうとした、そのときだった。路地裏から、子供が飛び出してきたのだ。まだ、十歳にもなっていなさそうな、子供だった。
子供は必死に走って来る。少し見るだけで、普通じゃないことがわかった。いったい……どうしたのだろう……?
そう思いながら、走る子供を見ていると、遅れて路地から芋の根を引くように少年たちが次々にあらわれた。そこでキクナは悟った。あの子供は、追われてるんだ、と。
ただ黙って見張っている、と果物屋の店主と約束しているのだが困っている子供を見てしまうと無視はできない、したくないのだ。
鬼気迫る形相で、子供がキクナの方に駆け寄って来る。
そのとき、子供はレンガとレンガの間につま先を引っかけてしまい、派手につまづいた。前のめりになって、前身からダイブする。
駄目だ、追いつかれる……。
キクナはとっさに物陰から抜け出し、こけた子供のもとに駆け寄る。
「大丈夫……」
こけた子供は男の子なのか、女の子なのか、どちらともつかない可愛らしい顔をしていた。まつ毛が長く、髪は肩にかかるかかからないかくらいの長さだ。
子供は痛みに顔を歪めながら、ゆっくりと上半身を起こした。
膝の破れたズボンのすき間から、真っ赤な血がのぞいている。痛みに顔を歪めながら、子供は両手で右ひざを抱え込んだ。
そして、三人の子供たちがキクナの前に立ちはだかった。
「なんだよ、いったい?」
真ん中の少年は不思議そうに眉根を寄せながら、キクナに訊いた。
「きみ達こそ、この子に何をしてるのよ。この子必死に逃げてたじゃない。嫌がる子を無理に追ったらダメよ」
「は? 何なの? あんた。俺たち追いかけっこしてただけなんだけど」
少年がそう言った途端、膝に怪我をした子供がキクナの袖をつかんだ。
この子は助けを求めてるのだ……。キクナは子供の手のひらをにぎり返し、うなずいた。
「嘘よ。この子怯えてるもの。嫌がってるわ」
キクナがそういうと、少年たちは意地悪そうに顔を歪めて、お互いにうなずき合う。
「おまえには関係ないだろうが。おとなしくそいつを渡せば痛い目みないけど、これ以上減らず口をたたくんだったら、少し痛い目見てもらうからな」
「やっぱり、追いかけっこじゃないじゃない!」
キクナが少年たちを睨むと、少年たちもキクナを睨み一歩近寄る。
十五、六くらいに見える少年たちは、大人と言っていいくらいに立派な体をしていた。身長も170くらいあって、いくら大人のキクナでも少年には力でかなうはずもない。
少年たちが一歩近寄ってきたとき、キクナは大音声で叫んだ。
「誰かッー! 誰か助けてッー! 誰かァ!」
キクナは声の限りに叫んだ。
少年たちは一瞬怯んだが、すぐに余裕の表情に戻る。こんな路地に入って、助けてくれる人など来るはずがないことを少年たちは知っているのだ。
キクナは子供を胸に抱きしめて、声の限りに叫び続ける。
そのときだった。誰かの声が徐々に近づいて来ることがわかった。
聞き覚えのある声だった。
「おまえ達ッ! 何をしてるんだッ!」
そうだ、この声は果物屋の店主の声だ。
少年たちは鼻頭にしわを寄せて、唾を吐き、悪態をつきながら一端引き返していった。
「大丈夫か? お嬢さん」
キクナのもとに駆け付けると、果物屋の店主は心配そうにしゃが込んだ。
「どうして……ここに……?」
キクナは戸惑いをふくんだ、声で訊いた。
「お嬢さんがむちゃしてないか、様子を見に来たんだよ。むちゃしてないようだったら、黙って戻ろうと思ったけど、予感的中だ」
果物屋の店主の話を聞きながら、キクナは苦笑いを浮かべた。
「あははぁ……ごめんなさい……追われてる子がいたからほっておけなくて……」
そういって、キクナは抱きしめていた子供を見た。
「きみ……もう大丈夫だよ」
子供は震えながら、キクナの胸から顔をあげる。
「どうして、追われてたの?」
小首をかしげてキクナが聞くと、果物屋の店主も首をかしげた。
けれど、子供は口をきこうとしなかった。困り果てて、キクナは果物屋の店主と顔を見合わせる。
「とりあえず、ここに長居するのは危険だ。いつ、あの子供たちが仲間をひっ連れて帰ってくるかわからないからな。ひと先ずおれの店まで行こう」
「ええ、そうしましょう」
キクナに手を引かれ、子供は逆らうことなくついて来る。
「とりあえづ、その子も連れて行こう」
果物屋の店主がそういうので、キクナはうなずき、あとに続いた。
「その子……どうしたの?」
店につくと、店番をしていた女性が訊いてきた。
「おれもわからないけど……少年たちに追われていたのを、お嬢さんが助けたんだよ」
木組みの椅子にちょこんと座って、子供は黙りこくったままだ。
「きみの名前は?」
目の高さを合わせて、キクナは訊く。
「ローリー……」
「ローリー? きみはローリーっていうの?」
ローリーはこくりとうなずいた。
「ローリーはどうして、追われてたの?」
「悪いことをしたから……」
「悪いこと? 悪いことって何をしたの?」
「悪いことは悪いこと……」
ローリーは肉食獣に捕らわれた、小動物のようにオドオドしている。
「女の子でいいのよね」
店番をしていた三十代くらいの女性がローリーに訊いた。
ローリーはうなずいた。
「そう。――ローリーはお腹空いてない?」
お腹をさすりながら、少女はうつむき黙り込む。
「お腹空いてるんだね。リンゴやバナナ、ぶどうでよかったらあるから、食べておくれよ」
女性はそういって、棚に並んでいた果物を手当たり次第につかみ、ローリーに渡した。
ローリーは渡された果物をリスのようにチビチビ食べてゆくのを見ながら、これからどうすべきかをキクナは考えた。
着ている衣装は泥色で、ボロボロだ。
この子もストリートチルドレンなのだろうか?
このまま帰したら、この子はまたあの少年たちに追われることになる。そして、今度は必ずつかまってしまうのだ……。どうしてこの子は追われていたのだろう? そのことがわからない限り、この子から眼を離すことができない。
カノンとニックという子供を捜していたのに、どうして自分は厄介ごとに首を突っ込んでしまうのだろう……。トホホ~と思うながらも、困っている子供をほっておくわけにはいかない。
まずは、追われているわけを聞き出して、解決方法を見つけるしかない、とキクナは思うのだった――。