case92 ウイックの過去②
キクマは夕日が差しはじめた空をチラリと見上げてから、改めてウイックを見て訊いた。
「どういう意味だよ? 実験台にされたって……?」
「まず、誰に話しても信じてくれる奴はいないだろうな。だが、これは嘘じゃない、本当の話だ。耳かっぽじってよく聞け。
俺は体の調子がおかしいことを、男たちに話した。すると、男たちは血相を変えて、『どういう風におかしいんだ!』って訊くのよ。
俺は不審に思いながらも、できるだけ詳しく説明した。頭がかったりいだの、体が熱いだの、無性にのどが渇くだの。イライラするだの、誰でもいいからぶっ飛ばしたいだの、ってな」
「後半からあんたの感情になってるだろ」
「いやいや、たしかに、たまには誰かをぶっ飛ばしたいって思うことはあるけどよ、その薬品を投与されてから無性に誰かをぶっ飛ばしたいって思うようになったんだよ」
「どこが違うんだよ。ぶっ飛ばしたいって思うことは思ってんじゃねえか」
キクマは苦笑を浮かべ、ウイックを見た。
「だから、とにかく、そのときはいつも以上に、むしゃくしゃするし、誰かをぶっ飛ばしたいって感情にかられはじめたんだ」
これ以上反論しても話が先に進まないと思い、キクマはとりあえず黙ることにした。
「で、そのむしゃくしゃした感情にかられることを、男たちに話した。すると、男たちはお互いに顔を見合わせて、ニヤニヤニヤニヤ気持ち悪いくらいによぉ、笑うんだよな。
それからでもしばらくは身体検査をされて、処方された薬を飲んで、わけのわかんねえ注射を打たれて、同じような毎日が過ぎていった」
「体の変化はどうなったんだよ?」
「その間も、体はおかしかったさ。だけど、少しずつ慣れて気にならなくなった。多少体がだるいのは厄介だったがな。
まあ、気にならないくらいには、慣れたってことだ。そんなある日だな、同じ隊の奴と格闘訓練をやっていたときのことだ。
そいつは俺と一二を争うくらい強い奴でよ。訓練するのに骨が折れるんだよ。だけど、その日は俺があっさり勝っちまったんだよな――」
ウイックは心底驚いたという風に、目をずんぐりと開いて、口を開けた。
「俺はいつのまにこんな強くなったんだって思ったね。何をするにも、以前なんか比べ物にならないくらい、体が動くんだよ。
集中すりゃあ、銃の弾丸を目でとらえられるくらい、動作をゆっくり見ることも可能になった」
キクマは自分の耳を疑った。いや、自分の耳を疑うのではなく、ウイックの話を疑ったのかもしれない。人間の動体視力で、銃の弾丸をとらえられるわけがないだろう、と。
「嘘だと思ってるだろ。話す前に言ったよな、嘘みたいに聞こえるが、本当の話だって」
ウイックは鋭い目で、キクマを見て、鋭い声でいう。
「俺もはじめは信じられなかった。だけど、たしかに俺の体は変わっちまっていることを実感したのさ。
自分の体の変化に恐怖を覚えだした……。このまま行っちまったら、俺は人間じゃなくなっちまうんじゃないだろうか、ってな。
怖くて、夜も眠れなかったくらいだ。変わっていく体を抱えながら、シーツにくるまってブルブル震えてた」
キクマはウイックがシーツにくるまって震える姿を想像してみたが、まったくイメージが湧かなかった。
「そんな、ある日だな。俺たちの隊は、戦地に派遣されることになった。以前から、それなりの戦地には派遣されてたが、今回のはそれとは比べ物になんねえ、銃弾が飛び交うところだ。俺たちの隊は戦地の、それも最前線へ送られたのさ」
そこまでいってウイックは顔を曇らせた。そして徐々に憎々し気に変わったと思うと、最後には悲し気に顔を歪めた。
「俺たちはおごってたんだよ……。そんな奴らが戦場で生き残れると思うか? 生き残れない。相手は最新鋭の銃火器を持っていたのさ。
同期生たちは次から次へと、死んで逝った……。地雷を踏んじまう者、マシンガンで蜂の巣にされる者、特攻隊に自爆される者。
信じられねえくらい、仲間が次々死んで逝った」
ウイックは前のめりになり、うつむき自分の手を見下ろした。
「弾丸飛び交う戦場の真っただ中で、俺は呆然と仲間が死んで逝く光景を眺めてることしかできなかった……。そのとき、俺がかわいがっていた子分が銃で撃たれたんだ。
それを見たとき俺の中で何かがプッツンと切れる音を聴いた。そして、恐怖の感情が怒りの感情に変わって。
無性に相手を殺したいってどす黒いヘドロみたいな、感情が体の奥から湧いてきているのを俺は自覚した。
気付くと、体がものすげえ熱くなって、力が溢れてくるようにうずくんだ」
ウイックの語り口に熱がこもりだした。
「すると、俺は敵陣に突っ込んでいた。自分ではなにバカなことやってんだ、死にたいのか、って自分自身に訴えてんだが、体が勝手に動くんだよ。
弾丸をかいくぐり、地雷をぬって、俺は無心に敵陣へ突っ込んだ。敵陣へ入ると、敵兵たちは恐怖に歪む顔で俺を見た。
当然だよな。弾丸かいくぐって、地雷を避けて、突っ込んできたんだぜ。驚かない方がおかしいわな。
俺は目に付いた敵兵たちを、手当たり次第に殺していった。逃げる者も後ろから殺した。泣き叫び助けを乞う者も殺した」
そこまでいって、ウイックは暗くなりはじめていく空を見上げた。一番星がひと際強い輝きを放ち、夜のとばりを告げる。
「今となっては、俺が殺した奴らにも守っている者があって、帰りを待つ家族がいたと思うと、どうしようもなく悪いことしたなって気持ちになるんだよな……」
ウイックの声が震えていることに気付き、キクマは横目でウイックをうかがった。すると、キクマは目を疑った。ウイックは泣いているのだ。
天を見上げ、涙を隠すことなく、流れる涙は一筋の痕をつくった。歯を噛みしめて、嗚咽を堪え、ウイックは泣いている。
「だけど、殺しているときは、恍惚としたいい気持ちでよ。今まで感じたことのない、いい気分なんだよ。
女を抱くよりも、はっぱをとのない、いい気分なんだよ。女を抱くよりも、薬をやるよりも、まるで自分が神になったみてえな、いい気持ちなんだ。
俺はそれが怖いんだ……変わっちまう自分自身が恐ろしくてなんねえんだよ……」
ウイックは空を見上げたまま、ゆっくりと感情を押し殺すように、平坦な声で続けた。
「気付けば、俺は死体が転がる荒野の真ん中に突っ立ってた。体中、血まみれで、空はどす黒く曇ってて、あたりには動くもんどころか、植物すらなくて。そんな、荒野の真ん中で、俺は突っ立てた。
そして、状況を理解してくると、俺はとてつもねえ、まるで雷に打たれたような衝撃を受けた。
自分の手を見下ろしてみると、化け物のような長い爪がはえてんだよ。自分の体を見下ろすと、化け物のような……まるで狼が二足歩行であるいているような体になってたんだよ……。
そして、俺は地獄から逃げるように夢中で走った。走って走って走りぬいた。そのときに小さな川を見つけたんだ。俺はのどを潤すためにその川に近寄った……」
ウイックは一度言葉を区切って、口に溜まった唾を飲み込んだ。喉仏がごくりと上下に大きく動いた。
「川面に映った俺の顔は、まるで狼のように牙がはえ、口は裂け、鋭く光る眼光をやどしていたのさ――」