case90 パーティーへの参列
雲の間から夕日が差し、いくつもの筋が降り注いでいる。
帰宅路につく人々が、歩道を通り過ぎて行く。
ひったくりの少年は固唾を飲んで、キクナを見上げた。こげ茶色のハンチングキャップのつばの影から、不安そうに歪む少年の眼がのぞいた。
「な……なんだよ……?」
まだ、声変わりしていない、少女のような声だった。
「ごめんね。驚かすつもりはなかったの。ちょっと、訊きたいことがあって」
キクナがそういうと、少年はあっけにとられたように、表情がゆるんだ。ひったくりを働いたことを責められると思っていたのだろう。
「訊きたいことって……?」
そういいながら、少年はつかまれた手首を見下ろす。
放してもいいのだけど、放してしまったら逃げられる恐れがあるので、一応まだつかんでおく。
「このあたりにニックって子と、カノンって子を知ってるかな?」
「ニック? いや。ニックって奴は知らないけど、カノンって奴なら知ってるけど……」
「え! 本当! そのカノンって子の居場所を教えてくれる」
不審に濁る目で、少年はキクナを見た。
「どうして、そんなこと知りたいの?」
「知らせたいことがあるの」
「知らせたいことってなに?」
キクナは言葉に詰まった。
どう答えればいいのだろうか……。
「とにかく、カノンって子のいる場所を知ってるんだったら、教えて欲しいの」
「やだね……そんなこと教えたっておれに何の得があるっていうんだよ」
クッとキクナは歯を食いしばった。
たしかに、少年には何の得にもならないかもしれないけど、教えるくらいケチケチしなくたっていいじゃん、とキクナは心の中で愚痴る。
「わかった、じゃあ、どうして欲しいの? わたしにできることなら、なんでもしてあげるから」
「べつに、あんたにできることなんて、何もないさ」
そこまでいって少年はパッと何かを閃いたような顔をした。
「じゃあさ、このつかんでる手を放してよ」
キクナはつかんでいる少年の腕をにぎにぎ、とにぎっている。
男の子、というより、少女のようなやわらかい腕だと思った。
「手を放したら、本当にカノンって子のいる場所を教えてくれるのね?」
「ああ、放してくれたらな」
「わかった」
そういってキクナは握力をゆるめた、そのときだった。少年はゆるんだそばから、腕を引き抜き、首輪が外れた犬のように急に走り出した。
キクナは驚きに息を飲み込んで、しまった……と自分をなじる。
路地の奥へと逃げて行く、少年の背中を見つめながら、「嘘つきッ!」とキクナは叫んだ。
遠くの方で、「信じる方が悪いんだよッ!」と少年の声が建物を反響ながら聞こえてきた。
信じる方が悪いんだよって……そんな悲しいことまだ十歳ちょっとくらいの子供がいうなんて……。キクナはとても悲しい気持ちになった――。
*
葉巻の煙が充満した室内で、男とジョンは向かい合って座っている。
葉巻を一本吸い終わるまで、ジョンは無言で待った。
「彼女とは別れたのかな」
ジョンは数秒間考えるように黙ってから、答えた。
「ええ」
「そうか。未練はないか?」
ジョンはゆっくりと首をふる。
「ありません。未練などより、解放された気分です」
「そうか。――別れるなら早い方がいい。きみがあのまま、彼女と付き合っていたら、いつか彼女は深く傷つけることになってしまうだろう。彼女には申し訳ないことをしたが、これで正解だったと私は思う」
ジョンはうつむいて、自分の手のひらを見た。まだ、手の平にはキクナの髪の感触や、肌の温かさが余韻となって残っているようだった。
「ええ、だけど、彼女には悪いことをしました。本当に悪いことを……。はじめから、出会っていなければ――はじめから付き合わなければ良かったのです――」
「出会いがあるから、別れがあるのだよ。それは、誰にでも訪れることだ。別れを恐れて、出会わなければ、それは平穏な日々だろうが、きっと退屈で悲しい日々でもある。
別れがあるから、出会いを愛おしめるのだよ」
男は子供に言い聞かせるようなやさしい声で、ジョンに言い聞かせた。
「きみが彼女と過ごした日々は、生涯かけがえのない、宝物になるだろう。楽しい思い出は、力になるのだよ。だから、悔やむことではない」
ジョンは男を見つめながら、目をつむり、そしてゆっくりと開いた。
「ええ、私はこの思い出を生涯、忘れることはないでしょう。この思い出を糧に、私は生きられるでしょう」
「そうだ。きみと彼女にはかけがえのない、時間だったのだよ」
そして、男は話を切り出した。
「では、心の準備はできているだろうか」
ジョンはうなずいた。
「ええ、もうとっくにできています」
「そうか――」
目を細め、男はどこか遠くを見るような目をした。
「十日後、ある館でパーティーが開かれる。そのパーティーにラッキーは参加することになる。奴が人前に姿をあらわすのは、滅多にない。この機会を逃したら、もうチャンスはやってこないかもしれない」
「パーティーですか。私に潜入しろということですか」
「ああ、そうだ。礼服なら私が用意してあげよう」
「しかし、どうやって潜入すればいいのでしょうか? そんなパーティーなら、知らない人間がいればすぐにばれてしまうのでは」
「その心配はない。きみは私のSPとしてパーティーに参加してくれればいい」
「あなたも、パーティーに招待されてるのですか?」
男は整えられた口ひげを触りながら、答えた。
「以前話したように、私は実験の協力者だった。それなりに、裏世界には顔がきくのだよ」
この男はいったい何の実験に協力していたというのだろうか。
「その実験とはどういったことを研究されていたのでしょうか?」
男の顔が歪んだ。髭をなでる手が止まり、ソファーにもたれかかっていた姿勢を前のめりにする。
「人間を獣に変える実験だよ――」
男は実験の詳細を語りはじめるのだった――。