case89 ひったくりの追跡
果てしなく、どこまでも続く暗い道を一人で歩いている夢をキクナは見た。一人で歩くには、とても不安な道だった。どれだけ歩いても、終わりがなく、光は見えない――。
そしてゆっくりと、目覚めた。
目尻には涙の筋ができている。
キクナは涙の筋を、人差し指の腹でなぞりふき取る。思いっきり泣いて、涙が枯れたと思っていたけど、眠っているときに流せるだけの涙は残っていたようだ。
何時間眠っただろう?
霧が張ったようにどんよりとしていた脳は、晴天のように澄み渡っている。顔の痛みも大分やわらいでいた。
キクナは壁にかけられている、振り子時計を見た。
午後三時を少し過ぎていた。
はてさて、わたしはどれほど眠っていたのだろう?
普通に考えたら、八時間ほどだけど、もしかしたら、一日を超しているかもしれない。頭が空っぽになったように、澄み渡っているのだから、ないとはいえない。
まあ、とにかく、腹ごしらえしよう、とキクナは思った。
ずっと眠っていたけれど、泣き疲れたからなのか、お腹は空いていた。
余っていたパスタを茹でて、トマトソースをかけて食べる。
もくもくと口だけを動かして、余計なことは考えないようにした。考えるのは、パスタの味だけ。
完食してから、一人分の皿を洗い片付ける。
恐るおそる、鏡を確認した。顔に赤みは残っているけど、腫れは引いている。目はまだ純血しているけど、これくらいなら気にならない。うん、大丈夫だ。
涙筋のついた顔を洗って、キクナは着替えを済ませた。
「よし!」
気合を入れるように、つぶやいて、キクナは敷居をくぐった。
気持ちのいい太陽の光が降り注ぎ、一瞬めまいを感じた。手のひらで日陰をつくって、空を見上げる。
どれだけ、気持ちは沈んでいても空は晴天だ。
止まない雨はないし、終わらない晴天はない。人間の気持ちも似たようなもので、晴れの日もあれば、曇りの日もある、雨の日もあるし、だけど、いつかは澄み渡る。
キクナは子供たちを捜すために、繁華街を歩いていた。
たくさん人が集まるところには、財布が集まる。財布が集まるところには子供たちが集まるんじゃないだろうか、とキクナは考えた。
けれど人の波にもまれて、数メートル先も見えない……。
これでは、見つけられないのではないだろうか……。
キクナは以前、カノンという子にあった繁華街に向かった。出店が多く出ているので、人通りも多い。買い物客たちが、片手に財布を持って歩いている。
ここなら期待大なのではないだろうか。
キクナはしばらく、ベンチに座って行きかう人々を見つめていた。早く子供たちを見つけて、マリリア教会に送り届けなければ。
子供たちがそのことを知ったら、どれほど驚くだろうか。
キクナはぽっかりと穴があいたような心に、温かいものが差し込んだ。同じ場所に座り続けて、一時間。あの子たちどころか、子供すらろくに見かけなかった。
時刻はすでに午後五時になり、人通りも減りはじめている。
今日は帰ろう、と思いキクナが立ち上がったときだった。
「ひったくりだ! 誰かそいつを捕まえてくれッ!」
と男性の太い声がどこからともなく聞こえた。
キクナはひったくり、という言葉に誰よりも強く反応した。
周辺を見回してみると、人の壁をジグザグに走り抜ける影が見えた。身長も低い、間違いなく子供だ!
キクナは考えるまでもなく、駆けだす。
足には自信があるのだ。小さいときは男子にだって負けたことがない。ひったくりは、車道を挟み反対側の歩道を走っている。見失わないように、影をしっかりと見ながら、反対側の歩道を走った。
「ちょっとッ! そこのひったくりッ! 止まってッ!」
走りながら、キクナは叫ぶ。
聞こえているはずだが、ひったくりは止まらない。
止まれと言われて、止まるひったくりはいない。そのままひったくりは、L字を曲がった。このままじゃ、見失っちゃう……!
キクナは全速力で走る。
車が通っていないことを横目にたしかめて、横断する。すると、車が急ブレーキをかける音が響いた。
遠くはしっかり確認していても、近くは盲点だった。あと数メートルブレーキを踏むのが遅ければ、キクナははねられていたのだ。
一瞬冷や汗をかいたが、すぐに気持ちを取り直し、駆けだす。
怒って、顔を出す運転手にキクナは頭を下げ、再びひったくりのあとを追う。
キクナが同じL字路を曲がったときには、ひったくりの姿は消えていた。久しぶりに走って、呼吸があがってしまった。
(見失ったぁ~……)
と落胆のため息をつき心で嘆く。
せっかくのチャンスが……また振り出しかぁ……。肩を落として、ひったくりが消えた歩道を歩いていると、裏路地に続く通路が横にぽっかりと開いていた。
そのままその通路の入り口を通り過ぎてから、ふと気になる影が横目に映ったことを悟った。数歩後下がりして、改めて通路をのぞいてみると人影が、財布を開きお金を数えているではないか。
キクナはこんな話をどこかで読んだぞ、と思った。
この展開はイソップ童話のウサギとカメではないだろうか。
足が速いことを自慢しているウサギが、足の遅いカメとかけっこをして、カメのことをあなどってひと眠りしてしまい、カメに負けるという話だった。
このひったくりも、追跡者を巻けたと安心して、まだ追いかけてきている人がいるとは思いもしていないのだ。
お札を数えるのに夢中で、ひったくりはキクナのことに気付いていなかった。キクナはゆっくりと、ひったくりに歩みより、手首をつかむ。
ぎょっと目を剥いて、ひったくりはキクナを見た。
持っていた財布を地面に落とし、信じられないという顔で眼を白黒させながら、固まりキクナを見上げる少年の顔。
暗がりでハッキリとは見えないが、少年であることは確かだと思った。カノンという子でもないし、ニックという少年でもなかった。
このひったくりの少年は、あの子たちのことを知っているだろうか――。




