case87 夢の実験
いつものように夢を見た。
近頃よく見る夢だった。灰色の世界に、灰色の壁、そして、そんな世界とは不釣り合いなほどに純白の教会がある夢。
灰色の壁はどこまで行っても、終わりはなく、灰色の天はいつまでたっても、移り変わらない。
またこの夢かとニックはガッカリした。
もう何十回見ただろう。すでに、いま自分が見ているものが、夢なのか現実なのかわかるようになっていた。この夢はおれにいったい何を伝えようとしているのだろう? ニックはそう思うようになった。
この夢は自分の失われた記憶の一部なのだ、と。
失われた記憶が戻りはじめているのかもしれない。自分はごみのように、街道の端にいたのだ。それまでの、記憶はぽっかりとなくなっていた。
なんども同じ夢を見ているが、今まで三パターンほどしかないことに気付いた。
顔が渦巻いた大人が迎えてくるか、戦闘の訓練を受けているか、注射をうたれているかの、三パターンだ。
そして今回は、顔が渦巻いた大人が迎えに来た。ところまでは、同じだったが、今回はちょっと様子が違った。
大人に手を引かれ、教会の横にいある院の地下室に連れていかれたのだ。隠しとびらのように、大きな書棚を動かし、そこから地下へと続く階段があらわる。
真っ暗な階段を探りさぐり下りながら、今回はいつもと違う、とやっと気付いた。なんだか、とてつもなく嫌な予感がした。
空気が禍々しく息苦しい。まるで水のように液体状の空気を吸っているかのようだった。じょじょに鼓動が速くなってゆく。
本能が逃げろと警鐘を鳴らしていた。
しかし、もがくことはできない。実際には下っているのだけど、まるで断頭台に上る階段を上がっているかのような感覚だった。
階段を下りた先には、大きな鉄のとびらがあった。
大砲を打ち込まれても壊れないと思わせるほどに、頑丈そうなとびらだった。
顔の渦巻いた大人がとびらのノブを捻ると、重々しい金属をこすり合わせるときに響き渡る音をあげながら、ゆっくりと開いた。
とびらのすき間から、白い光の筋が漏れでる。
今まで暗いところにいたから、眩しくて目を開けていることができないほどだ。
「さあ、そこの台の上に横になりなさい」
顔の渦巻いた大人はニックの手を引き、部屋の真ん中に鎮座する台を示した。とっても嫌な予感がした。
けれど、あらがうことはできず、ニックはおぼつかない足取りで、台に向かい合い横になった。薄い布ごしから、金属の冷感がひしひしと伝わってしまう。ヒッと声を漏らした。
首をかたむけ横を見ると、ニックと同じように横になっている少年が二人いた。虚ろな目をした少年だ。
遠近感のつかめない真っ白な部屋の真ん中で横になっていると、とても眩しいライトを当てられた。それと同時に両手足になにかが巻かれた。
彼は驚き手足をばたつかせたが、びくともしない。
目が光に慣れてきて、自分の両手を見てみると黒いベルトでしばられていることがわかった。いったいこれは何なんだ……? 暴れれば暴れるほど、ベルトはきつくなっていくようだ。
「放せ! 放せ!」
ニックは力の限り叫んだ。
しかし、大人たちはニックの声が聞こえていないかのように、反応すらしない。何十回見た夢で、このようなことははじめてだった。
まったく先が予想できないのが、恐怖を掻き立てる。
横にいた少年たちも、彼と同じようにベルトで両手足を縛られていた。
淡々とした様子で、白衣を着た大人が注射を取り出し、空気を抜いた。
その注射を少年の腕に近づけ、太い血管の集結している間接に刺した。注射の中に入っていた、透明な液体がゆっくりと少年の中に入ってゆく。ニックは固唾を飲みながら、その光景を見ていた。
同じようにもう一人いた少年にも、注射を刺した。
ビクンと胸が跳ね上がったかと思うと、死んだように動かなくなる少年。
二人の少年に打った注射と同じものを、どこからともなく出して、空気を抜いた。
白衣を着た大人が、彼の元までやって来ると光の逆光でシルエットをつくった。目を細めながら、彼は大人を睨み返した。
「何すんだよ! 放せよ! 放せって!」
力いっぱい手足を動かし、首をふる。
しかし、子供の非力な力ではどうすることもできない。ゆっくりと、注射針が腕に近づいて来る恐怖で全身の毛穴という毛穴から冷や汗があふれ出た。
直視できず、彼は顔をそらす。
肉を引き裂き、冷たい金属が体の中に入る鋭い痛みを感じた。得体の知れない、液体がゆっくりと体の中に流れ込んでくる。彼は恐怖と、興奮から来る吐き気を覚えた。
時間としては一瞬だったのだろうけど、体感的にはとても長く感じられた。三人の少年に注射を刺し終えると、ベルトを解かずに大人たちはスタスタと角のとびらに消えていく。
いったい、何を打ち込まれたのだろう……?
彼は自分に起きる変化に、怯えた。
今のところ体に変化はない。
真っ白い部屋の中にいると、時間の感覚がおかしくなる。台に縛られて、どれくらいのときが流れただろうか。
いつ、このベルトを解きにやって来てくれるのだろうか?
どれほど、待てばよいのだろうか?
そのときだった。ニックと同じ注射を打たれた、少年の体が激しく痙攣しはじめた。ニックは目を見開き、もだえ苦しむ、少年を見た。
「おい……大丈夫か……? しっかりしろよ……」
か弱い声で彼はいう。
少年は口角から唾液を流し、白目をむき、獣の唸るような声を漏らしながら、体を痙攣させた。
もう一人の少年も、数分遅れて痙攣がはじまった。
そこで、彼は悟った。これは、あの注射の副作用だ、と。
あの大人たちは、何を打ったんだ……?
彼は恐怖に体をこわばらせながら、必死に叫び続けた。
「おい! しっかりしろって! おいって!」
少年たちは歯を食いしばり、苦しそうな息を漏らし続ける。
すると、少年たちの体にある変化がはじまった。
体がじょじょに大きくなってきているように、感じられたのだ。
体を反り返しながら、胸筋が膨らんでいるように思える。
いったい、少年たちの体に何が起きているんだ……? ニックは自分にも起こるかもしれない、変化に恐怖した。
栗色の髪がじょじょに白色になっている……。いや、白ではない、白にしては輝いている……。銀だ、少年の栗毛が銀色に変わりはじめているのだ。
その変化を境にしてなのか、今までびくともしなかったベルトが物凄い力ではち切れそうになっている。
獣のような咆哮と共に、少年を縛っていたベルトがはち切れた。少年の非力な力では、びくともしなささそうな、頑丈なベルトが紙切れでもちぎるように、はち切れたのだ。
封印を解かれた、少年は白目まで赤く純血した目で、ニックを見た。
もう、少年は少年とはいえなかった。
顔の相は変わり、牙を剥きだし、異様に伸びた爪はナイフのように鋭かった。
荒い息を吐きながら、その獣は彼に近寄って行く。
目と鼻の先までやって来ると、獣は彼を見下ろしナイフのような爪を心臓に振り下ろした――。