case85 千頭狩り
UB計画とは、何の略称なのだろうか?
そして、ビックという名の黒人男が打ち明けた、犯人像――。獣のようなシルエットが人間になった。たしかに、ビックはそう言っていた。
しかし、そのようなオカルト的なことが実在するのだろうか。
一切の光が入らない、地下室のような部屋でサエモンは物思いにふけっていた。頼れる光は、淡々と揺れるランプの灯りだけ。
図書館で借りて読んだ、werewolfという本。
あの本に書かれていた、狼人間の伝説。古代から半獣半人の怪物の話が語り継がれている。あの話はフィクションなどではなく、実在の話だとしたら――。
ビックが証言した話が全てつながるのではないだろうか。
人間の肉を食い、逃げ続ける獣は今も見つかっていない。いったい、どこに逃げているというのだろうか。あの辺りの森に、人間を襲う獣がすんでいるというのだろうか。
しかし、大抵の獣は人間を襲ったりはしない。
人間を襲えば、どうなるか、獣たちもよくわかっているからだ。獣が人間を襲うパターンは限られている。
恐怖を感じたからか、人間が獣にちょっかいを出したからか、どうしようもない飢えに苦しんでいるときくらいだ。ただ、快楽のために人間を殺す獣などいない。
快楽のために人間を殺す獣は、人間だけだ。
そこで、ふと昔の事件を思い出した。ジェヴォーダンの獣事件だ。思えば、ジェヴォーダンの獣事件の犯人も捕まっていない。
数度の山狩りが行われたが、確証のある獣は発見されずじまいだ。
そして、ある日突然ジェヴォーダンの獣は消えた。
どこかの村の猟師が、ジェヴォーダンの獣を捕えたという話を聞いたことがあるが、それも自作自演の可能性があると囁かれていたはずだ。
その他にもハイエナが犯人かも知れない、という説や、獣の皮を被った人間の仕業だという説がある。
どれも怪しいと言えば怪しいし、正しいと言えば正しい。
中でも一番信憑性があるのは、獣の皮を被った人間の仕業だというものと、その猟師の自作自演という説だ。今となってはたしかめようのない、話なのだが。
獣が人間になれるのなら、人間が獣になれるのなら、いまだに見つかっていない犯人の説明がつくかもしれないな――そんな馬鹿なことをサエモンは考えた――。
*
ウイックとキクマは、『アレック』という酒場にいた。
そう、あの丸太のような二の腕をした、スキンヘッドのマスターがいる店だ。あの日以来、アレックというマスターと意気投合したらしく、ウイックはちょくちょくこの店に通うようになっていたのだ。
ウイックは仕事中にも限らず、酒をあおっている。
それもアルコール度数の高い、ジンやウオッカなどの酒である。
キクマは注意するのも馬鹿らしく思え、自分も便乗して酒を飲んだ。
酒が好きというわけではないが、嫌いというわけでもない。
飲むときは飲むし、飲まないときは飲まない。酒に強いのか、昔からけっこうな量を飲んでも、意識がなくなるという経験はしたことがなかった。
せいぜい、顔が赤くなる程度だ。
「刑事さん……仕事中なんだろ? さすがに真昼間っから酒をあおるのは、刑事のかざかみにも置けねえんじゃないか?」
アレックは太い腕を組んで、呆れるようにいった。
「そう固いこと言うなって。大丈夫、俺は酒に強いから、ちょっとくらいのんだところで、仕事に差し支えはないさ」
そう言ったのもつかの間、ウイックはグラスをあおった。
そしてぶへ~、と酒臭い息を吐いた。
「ピエール議員が殺されて、やけになる気持ちはわかるが、時間ならたくさんあるだろ? だから、気を取り直して、もう一度頑張れって」
アレックは他の客に聞かれないように、声を潜めてつぶやいた。
ウイックは何言ってんだ? というように顔を歪めて、アレックに言い返す。
「俺たちはべつにやけになってないぜ。それより、清々してるくらいだよ。あの、議員は気に入らなかったんだ。だから、これは祝い酒さ」
グラスに入った、氷をベルのように鳴らしながら、ウイックはいう。
それはさすがに不謹慎だろう、とキクマは思い、テーブルの下でウイックの足を蹴った。
ウイックの眼を大きく見開き、ぎょっとキクマを睨んだ。
キクマもウイックを睨んだ。眼つきの悪い二人がにらみ合うと、黒いプラズマのようなパチパチしたものが、具現化したように感じられる。
「わかったよ。今のは不謹慎だった」
ウイックの方が先に折れて、肩をすくめる。
そのときだ。店のとびらが開き、ブリキのベルがなったのは。
「らっしゃい!」
キクマとウイックに向けていた視線を即座に、とびらに移して、アレックは叫ぶように客を出迎えた。
そんな、大声を出したら、気の小さな客だったら逃げ出すのではないだろうか、と思えるほどだ。
日の光が逆光になり、人物のシルエットだけが見える。
とびらが閉まると同時に、シルエットには色彩が蘇り、背筋の悪い五、六十代の年寄りだとわかった。
着ているものは、それなりに上品で髪も後ろに撫でつけられている。
背筋さへピンとしていれば、紳士に見えなくもなかった。
その、背筋の悪い男はゆっくりと、カウンター席に向かう。そのとき、こちらを視界にとらえた。
キクマはその男と目があった。
そらすのも癪なので、睨むようにして見つめ合っていると、男はふと、となりにいるウイックに視線を移す。
男の歩みが止まり、タップダンスのような踵を打つ音をがあがる。
その音に反応して、酒をあおっていたウイックは男を見た。
ウイックの酒をあおる手が止まり、信じられない、というように目を白黒させながら男を見た。
男も同じで瞳孔の開いたような、ずんぐりとした眼でウイックを見た。キクマはそんな二人の様子を不審に思い、ウイックに問うた。
「どうしたんだよ? 知り合いなのか?」
「あ、いや……」
ウイックが珍しく言いよどんでいると、男の方からウイックに歩み寄り、目と鼻の先までやってきた。すると目が悪いのか、目を細めてウイックの顔をのぞき込む。
「なんだよ? 俺の顔に何かついてるか?」
眉根を歪めて、ウイックはその男に訊いたとき、「隊長ですか……?」と推し量るように、男はいった。
隊長? 誰のことだ? とキクマはウイックを見ると、ウイックは黙って男を見た。ウイックの酔いでほんのりと紅くなった顔を、男を目視する。
「やっぱりそうですね。あなたは! 千頭狩りのウイック隊長ですね!」
男は目を輝かせ、テーブルに両手をついた。
男とは反対に、ウイックの眼は虚ろだった。
千頭狩りのウイック? いったいどういうことなんだ?
キクマは意味がわからず、ただ二人のやり取りを見ていることしかできなかった――。