case84 自分が幸せだったかは、失ってはじめてわかるもの
キクナは一晩中泣いた。ベッドでうつ伏せになって泣くのではなく、テーブルに頭をうずめて泣いた。
泣き疲れ、睡魔が襲って来たけれど、精神が昂り眠ることもできなかった。嗚咽が漏れ、声が枯れ、最後には蚊の鳴くようにか細い声しかでなくなる。
何時間泣いただろうか。カーテンの網目から光が漏れ出ている。
朝になっている。キクナは振り子時計を見上げた。
まぶたが腫れあがり、視界の大半がさえぎられ、かすんでいる。
きっと醜い顔になってしまっているだろう。キクナはため息をついた。声が震え、声帯が震えた。
部屋は寒いのに、体は火照っている。キクナは強烈なのどの渇きを覚えた。水道を捻り、コップいっぱいに水をくむ。
それをゆっくり飲んだ。一気に飲んだらむせ返ってしまいそうだったから。乾いた喉を、冷たい水が流れてゆく。食道をうねりながら、流れ落ちる水を感じた。
水を飲んで、少しだけど落ち着いた。がんじがらめになっていた、思考も少しはほぐれた気がする。
シンクにコップを置き、顔を洗った。腫れあがった目に冷たい水が触れるのは、気持ちよかった。
涙で汚れベタベタになっていた、顔がすっきりする感覚。
さっきよりは、まぶたの腫れも収まり、視界も開けた。
キクナは時計を確認する。六時半だった。
一晩中泣いていたのだ。
涙は枯れたと思っていたけど、思い出すと鼻の奥がツーンと痛くなって、しゃっくりのような嗚咽と共にまた涙が出た。もう一度顔を洗って、涙を水に流し、精神を落ち着ける努力をする。
そして、ゆっくりと何が起きたのか考える。
突然だったから、自分でも状況が理解できていない。
マリリア教会から帰ってきて、ジョンが暗い部屋の中で物思いにふけっていた。
それでマリリア教会で起きたことをすべて話た。
ジョンの気に障るようなことでも言ってしまっただろうか?
いや、一つ思い当たる節は、ジョンの母親の話をしたことだけど、そんなことで別れを切り出すだろうか? そんなことで怒る男ではないはずだ。
ちょっと情緒不安定なところがあったけど、普段はおとなしくて、感情を表に出す人ではない。
じゃあ、どうして急に別れようなんて言ったのだろう……?
やっぱり、他に女ができたのだろうか……?
いや、ジョンに限ってそれはない、もっと違う理由だ。理由を知れば、わたしが傷つくと言った。
それはジョンの仕事と関係しているのだろうか。
きっと関係しているんだ。以前ジョンのあとをつけたことがあったけど、すぐに見つかって、それ以来探りを入れるのをやめた。
知られてはならない仕事ってなに……?
キクナは椅子に座ったまま色々と考えた。
考えている内に、自分がジョンのことを何も知らないことを実感した。いつも自分が話てばかりで、ジョンの話を聞かなかった。
いや、何も話してくれなかった。
どこで生まれたのかも、両親のことも、子供のときのことも、好きなものも、嫌いなものも、楽しかった思い出も、辛かった思い出も、何も聞いていない。
わたしはジョンのことがわかっているつもりでいたけど、何も知らなかったんじゃないか……。思い返せば、ジョンはいつも何かに怯えていた。それがわかっていたのに、怖くて訊くことができなかった。
ジョンはいったいどんな想いを抱えて、日々を過ごしていたのだろう。
ジョンはいったいどんな思いを抱えて、わたしと一緒にいたのだろう。
そして、どうして、急に別れを告げ出ていったのだろう。
何も説明せずに、ただ別れてくれって言うだけで納得できると思ってるの?
沸々と、説明のつかない怒りが湧いてきた。納得できるわけないじゃん!
わたしのことが嫌いになったのなら、それも仕方ない。
他に女ができたのなら、それも仕方がない。
けれど、何も説明されなくて、一方的に別れてくれと切り出されるのは納得できない。
ちゃんと説明を聞かなければ。
そして、こっちからふってやるんだ。あんたなんかより良い男を見つけて、わたしは幸せになってやる! と。本人の前で、いってやるんだ!
キクナはジョンに一泡吹かせてやりたい、という気持ちにかられた。
男が女をふるなんて何様のつもりよ! 女が男をふるものよ!
いつまでも、ふられたことでうじうじしてるなんて、バカみたい! そんなことより、今はあの子供たちを探し出して、マリリア教会まで送らなければ。
きっと、あの子たちがこのことを知ったら、喜んでくれる。
捜しにいかなければ、子供たちを捜しに行かなければ。
だけど、どこを捜せばいいのだろうか?
どこに住んでいるのか聞いておけばよかった、とキクナは後悔した。
たしか、あの子たちはスリをして暮らしている。
だったら、人通りの多い繁華街を捜せば見つかるかもしれない。きっと、見つかる。
捜しに行こう、と思い立ち上がったとき、キクナは思い止まった。
顔がゆでだこのように腫れてしまっているのだ。人の眼をそれほど気にしないキクナでも、さすがに腫れが引いてからじゃないと、出られないほどだ。
濡らしたタオルでキクナは顔を冷やした。
ベッドに横になり、しばらく目をつむる。
思えば自分はお腹が空いていた。自覚すると、腹の虫が鳴った。食べたい気分ではないけど、体は栄養をほしていた。
しかたなくキクナは起き上がり、簡単な料理を作る。
日本のことわざにもあった、腹が減っては何とやら、と。まずは、腹ごしらえだ。それからでも遅くない。日本のことわざにもあった、急がば回れ、と。
食欲はなかったけど、食べはじめれば不思議なもので、パクパク食べられるものだ。腹が満タンになると、張りつめていた神経の糸がゆっくりと緩んだ。
急にまぶたが重くなり、意識が遠のきはじめる。
泣いているときは、眠たくても眠れなかったのに、今になって強烈な睡魔が、キクナを襲った。
ベットに横になり、タオルを顔に載せるとゆっくりと、ゆっくりと、深い眠りにいざなわれる。
キクナは夢を見た。
昔の夢から、ジョンに出会ったときの夢を見た。
辛いこともあったけど、こうして思い返すと、楽しい思い出ばかりだったことに驚いた。
わたしは幸せだったんだな。
自分が幸せだったかどうかなんて、失ってはじめてわかるものだ。どこかで、そんな言葉を聞いたけど、本当だな、とキクナは実感した。
一筋の涙を流し、キクナは深い眠りの中にいた――。