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人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
第二章 過去編 名前のない獣たちは……
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case83 別れを告げて――

 その日ジョンは決意した。

 いうなら早い方がお互いのためになると想い――。


「キクナ――」


 ジョンがぽつりとつぶやくと、キクナは小首をかしげた。


「なに?」


「別れよう」


 唐突に告げた。キクナはしばらく言葉の意味が読み取れないように、呆然としていたが、やがて顔が曇った。


「どういう意味よ……?」


 苦笑いを浮かべながら、眼の奥には暗雲とした不安の色が読み取れる。


「そのままの意味だよ」


「そのままの意味って……それだけじゃわからないわよ……?」


 ジョンは珍しく言葉を慎重に選ぶ。

 どの言葉を使えば、キクナを傷つけなくてすむのだろう、と。ハッキリ事実を突きつけるのがいいのか。オブラートに包んで、告げる方がいいのか。


 しかし、オブラートに包んで、あいまいに答えるよりハッキリと告げて、ちゃんと納得させる方がいいのではないだろうか。どっちにしろ、意味は同じなのだ。それ以上でも、それ以下でもない。


「このまま私と付き合っていても、きみは幸せになれない。だから別れよう」


 ジョンは正直な気持ちを告げる――。

 キクナの瞳が揺らいだ。


「なんなのよ……急に……。冗談ならやめて、その冗談はたちが悪いよ……」


 そういうキクナの声は震えている。

 表面張力の張ったコップの水のように、少しの刺激で氾濫(はんらん)してしまいそうなほどに。


「冗談じゃない。本当だ――別れよう――」


 ハッキリとジョンは告げる。


「どうして、そんな急になの……? わたしのどこが気に食わなかった……?」


 キクナは小刻みに震えてる手で、自分の胸を押さえいった。


「気に食わなかったとか、そんな話じゃないんだ」


「じゃあ……どうしてよ……意味も説明されずに、勝手に別れてくれなんて、酷過ぎると思わない……」


 頬を高揚させながら、キクナは叫んだ。テーブルの上に載せている、キクナの手が微小に震えている。それは悲しみからくるものなのか、怒りから来るものなのか、ジョンにはわからない。


「意味なんてないさ。私と付き合っていれば、いつか、いや、近いうちにきみは傷つくことになる。だから、お互いのために別れようと言っている――」


「どうして、わたしが傷つくことになるのよ……? わたしは傷つかないわよ……」


 ジョンはこぶしを握り締め、テーブルをたたいた。

 テーブルの上に載せていた食器が、甲高い音を立て揺れる。

 ジョンが感情をあらわにすることなど見たことがない。キクナは白黒する目で、ジョンを見た。

 

「私といたら、本当に……取り返しがつかなくなるんだ」


 これから自分は取り返しがつかない――深淵に潜ろうとしている……。

 今までよりもより危険な、深淵に潜ろうとしている……。


「だから、それだけじゃわからないわよ! わたしと別れたいんだったら、ちゃんと、理由を正直にいってよ……。わたしのどこが、気に入らなくなったの? それとも他に女ができたの?」


 ジョンは首をふる。

 キクナは一度言い出したら自分が納得するまで、いうことを聞かないのだ。ジョンはほとほと困った。


「女ができてないんだったら、どうしてよ?」


 ジョンは一瞬真実を話そうか、と考えた。しかし、そんなことを話せば、余計に傷つけてしまうのではないだろうか。


「どうしてもこうしても、ない。別れた方がきみのためになるし、私のためにもなるんだ。わかってくれ」


 他に上手い説明が思いつかない。

 こういうとき、世間一般の人々はどう別れを切り出すのだろうか。


「とにかく……今日限りで別れよう」


 キクナは何かを言おうとして口をパクパクさせるが、言葉にならない。そして、目頭に浮いた涙が盛り上がり、表面張力が切れ、流れ落ちた。


 しばらく、うつむいたまま嗚咽を堪え泣いた。

 ジョンは何も言葉をかけなかった。かける言葉がなかった。

 キクナの震える背中をしばらく見つめたあと、椅子から立ち上がり、


「私がここを出ていく。いい男を見つけて、幸せになってくれ。今までありがとう――」


 それだけを言い残し、ジョンはリュックにまとめていた荷物を持った。

 それほど、荷物はない。数着の服と、少しのお金。ただそれだけだ。

 キクナが帰ってくる前から、準備し、決めていた方だ。本当ならもっと早い段階で、別れを告げておくべきだったのだ。


 しかし、切り出す心の準備がつかなかった。

 あと一日、あと一日と思ううちに今日まで来てしまった。しかし、キクナがいなかった夜に、ジョンはこれが自分のあるべき姿なのだと実感できた。


 そう、はじめから群れずに一人で生きていたではないか。

 昔から、あの獣を殺してから、一人で生きていたではないか。

 どうして、今までそのことを忘れていたのだろう。忘れていたのではないのだ。忘れたふりをしていたのだ。


 楽しかったから――。生まれてはじめて楽しいと思えたひと時だった――。


 だが、今日を境に自分は戻る。

 昔に戻る。


 玄関のとびらのすき間から、テーブルに顔を押し付け泣く、キクナの背中が見えた。上手く説明できなくて、傷つけてしまったが、これでよかったと思えた。


 本当のことを話た方がもっと傷つけることになってしまうのだから。

 あの女は強い。きっと幸せになってくれる、ジョンはそう強く想っている。

 キクナの震える背中を見ながら、ジョンはゆっくりととびらを閉めた。


 二度と戻ることのない、幸せだった日々。

 二度と戻ることのない、家。

 二度とであることのない、愛した女。


 ジョンはとびらを閉めてから、とびらの奥にいる女にいった。


「今まで、ありがとう――」


 ジョンは宵闇(よいやみ)に足を踏み出した――。

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