case82 ソニールの噂
空はゆっくりと夕やみに侵食されてゆく。
もう一時間もしないうちに、夜がやってくるだろう。
室内は薄暗く、瞳の光だけが猫のように煌々と輝いていた。
シスターカリーラのベッドで横になる少年は、黙ったまま一言もしゃべろうとしない。カリーラは困りはて、肩をすくめる。
「いったい何があったのですか? 本当にスカラさんたちがやったのですか?」
少年は黙秘を貫いている。
「わかりました。答えたくなければ、無理に答える必要はありません」
カリーラは諦めたようにいった。
「おい、シスターカリーラが訊いてるんだぞ。黙ってないで、ハッキリ答えろよ!」
となりで黙って様子を見ていた、チャップがしびれを切らせ少年に叫んだ。少年は虚ろな目でチャップを一瞥し、眼をそらした。
「おい、なんとか言えよ。いったい何があったんだよ?」
そこでチャップは言葉を切り、「えぇーと、たしかソニールって名前だったよな?」とあいまいに問うた。
「殴られるようなことでもしたのかよ?」
どれだけ訊こうと、ソニールは仰向けに横たわり、天井の模様を見たまま答えようとしなかった。
「もういいですよ。あとはわたくしが見ますから、あなた達は食事の準備を手伝ってください」
顔を歪めながらもしぶしぶ、チャップはうなずいた。
チャップのあとに続き、三人もカリーラの部屋をあとにした。
*
食事の手伝いは十歳以上の子供たちの仕事だ。
料理を作るのは、コックたちの仕事だが、作った料理の盛り付けだったり、盛り付けた皿を長テーブルに運んだりと、それなりに忙しい。
子供たちだけで百人近くいる。
その半数以上が十歳以下の小さい子供たちで、十四歳以上の子供たちはいない。どうして、十四歳以上の子供たちがいないのか、ずっと気になっているのだが、訊く機会がない。
ニックやカノン、チャップ、セレナ、ミロルは十二から十三歳だ。アノンだけは九歳。もし、十四歳までここにいられるのなら、この院で一番の年長になる。
そう考えると、ニックはざわめくものが心の中に芽生えた。
だけど、どうして、十四歳以上の子供たちがいないのか……?
そんなことを考えながら、スープを皿に入れていると、「あ、おい! 何やってんだよ。手もとちゃんと見なきゃ駄目じゃないか!」とチャップが背後で叫んだ。
ハッと肩を震わせ、ニックは物思いから覚めるとジャガイモのスープが皿からこぼれていた。ニックは慌てて、シンクの横にかけていた布巾でスープをふき取った。
綺麗にふき取り、一安心したとき、「おい。どうしたんだよ? また夢のことでも考えてたのか?」とチャップの心配そうな声が聞こえた。
「あ、いや。夢のことじゃないんだけどな……」
打ち明けようとしたそのとき、せわしなく料理を作っていたコックが叫んだ。
「おい、おまえたち何休んでんだよ。もうすぐ晩飯の時間なんだから、口動かしてないで、手を動かせ」
と厳しい叱責を投げつける。
「はい!」
チャップはビクっと跳ね上がり、「悪い……あとで話をきくわ」と自分の持ち場に去って行った。
みんなの食事をすべて、長テーブルに並べ終えると、数分後には子供たちでごった返しになった。
シスターカリーラは自分の分とソニールの食事をトレイに載せて、運んだ。今日は部屋で食事をするようだ。立ち去り際に、カリーラは祈りを唱え、子供たちは後に続き唱えた。
「シスターカリーラ、今日は部屋で食事するのかな?」
セレナはカリーラの後ろ姿を見送りながら、つぶやいた。
そうか、セレナはあの一件のことを知らないのだ。
「ソニールって俺たちと同じくらいの子供がいるだろ」
チャップはいう。
セレナはピンとこないらしく、しばらく考えた後、あっと思い出した。
「ええ、話をしたことはないけど、何度か見たことはあるわ。それがどうしたのよ?」
声を潜め、セレナに顔を近づけチャップは教える。
「おまえと別れたあと、部屋でくつろいでいたら窓から、そのソニールがスカラたちに殴られているのを目撃しちまったんだよ」
セレナは驚きに、スプーンの動きを止めてチャップを見返した。
「それって本当なの?」
セレナはささやくような小さな声で、いった。
チャップはうなずいた。
「一方的に殴られていたんだ。だけど、どうして殴られていたのか、全然答えないし、困っちまってよ」
セレナは周辺を見回し、ざわめきを探った。
これだけ騒がしければ、話を聞かれる心配はないかな、そのことを確認して、セレナはいう。
「実はね……ソニールのことでいい噂を聞かないのよ……」
男子たちはお互いに顔を見合わせ、「ちょっと、待ってくれ。ヤバい話なら、食事のあと俺たちの部屋でしよう」とチャップは提案し話を打ち切る。
「ええ、その方がいいわね」
食事が終わり、食器の片づけをすませたのち、セレナは同じ話をチャップたちの部屋で話しはじめた。
「実はね。マリファナをやっているって噂がたってるの……」
「マリファナって、あのマリファナか?」
カノンは思いのほか大きな声で訊いた。
自分でも声が大きくなり過ぎたことに気付いたらしく、すぐにトーンを落として、「どういうことだよ……? そんなもんここで手に入れられるのかよ?」と訊いた。
「手に入れられないことはないわ。十歳以上の子供たちは日替わりで、町まで買い出しに行くでしょ。そのときに手に入れられるかもしれない」
「だけど、金はどうするんだよ?」
「買い出しするのに渡されたお金を使うんじゃないかしら」
カノンは首をふる。
「そんなことしたら、すぐにバレちまうだろ」
「それもそうよね……じゃあどうやって手に入れるのかしら……?」
小首をかしげ、眉間に浅いしわを寄せ、セレナはいった。
チャップの表情が少し険しくなった。
「子供が金を手に入れる方法なんざあ、数えるほどしかないだろう……」
「数えるほどしかないって、どういう意味だよ……?」
カノンがいうと、「悪さするしかないだろう、ってことだよ」とチャップは答えた。
みんなの表情が曇った。
「もし、セレナがいう話が本当なら、スカラたちはそれを止めようとしていたんじゃないだろうか?
いつもわけのわからないことばかりいうけど、もしかしたら、やみくもに言ってるんじゃなくて、ちゃんと言っていることには意味があったんじゃないだろうか?」
ニックは心の中にわだかまったモヤモヤをゆっくり、吐き出すようにつぶやいた。
「何言ってんだよ。『痛い目みたくなかったら、出ていけ』っていうのに意味があるっていうのかよ。あいつらの言っていることを深く考えすぎるなって。意味なんてあるわけないだろ」
カノンは鼻で笑いながら、ニックに行いった。
彼は心のモヤモヤを表情にあらわし、「そうかな……」とか細い声で応じる。
「そうだって。ただあいつらは、闖入者のオレたちが疎ましくていってるんだよ」
それ以上言い返す気も起きず、ニックは黙り込んだ。
「とにかく」
二人の話し合いがすむのを見届けたのち、チャップは切り出した。
「明日、そのマリファナの噂が本当かどうか、ソニールに話を訊こう。セレナも自分の部屋に戻って、休め」
「ええ。そうするわ。アノンも待ってると思うし」
そういってセレナは去った。
チャップは、明日こそ本当のことを訊きだそう、そしてその話が本当なら、きつく注意しなければならない、と心で思った。