file10 『キスカの証言』
女は何も答えてくれない、私は意を決して獣に話を訊くことにした。獣は椅子に座って、酒を飲んでいた。私が憶えている限り、獣はいつも酒を飲み、泥水していた。
私はこの獣の吐く息が嫌いだった。
どうして、息を吐くんだ。どうして、空気を汚すんだ、といつも考えていた憶えがある。私はできるだけ、獣から距離を取り、「ぼくはどうして、生まれたの?」と獣に問うた。
獣は汚い唾を床に吐き出し、「俺が女を犯したからさ」と薄汚い笑みを浮かべていったのだ。
スープをすくい、口に運ぼうとした瞬間、バートンとキクマは一斉にとびらに向き直った。
ドアノブに手を置いたまま、唖然と立ち尽くし、バートンとキクマを見ている人物がそこにはいた。バートンは慌ててスプーンをスープの中に戻し、状況説明にかかる。
「あ、えーっと、お母様ですか……? 勝手にお邪魔してごめんなさい……その……」
バートンは何を言えばいいのか、分からずしどろもどろしていると、頭が混乱して、何も考えられなくなる。
「この人たちっ、お腹が空いているようだから、ご飯を出してあげたの……」
オドオドしている、バートンの代わりに、イスカが答えた。
「あぁ。そうなの」
母親は明らかに疲れがにじみ出る声で言った。精神的に疲れ切った人間の声とは、聞く者の精神を不快にさせる力があるものだ。
旦那が突然亡くなり、警察に事情聴取をされ、精神的に疲れない方が無理な話だった。
「どうぞ、気にせずに召し上がってください」
「え、あ、はい、いただきます……」
バートンは引け目を感じるものの空腹にはあらがえず、再び席につき、スプーンに口を付けた。キクマもバートンを見習い、スープに口をつけるのであった。
スプーンが食器を打つ音と咀嚼する音だけが、静かな室内に響くのみ。あっという間に、パンとスープを完食した。
食べ終えた食器をイスカは片付ける。毎日すすんで、母親を手伝っているのだろうか、と手際よく食器を洗うイスカの後ろ姿を見ながら、バートンは思った。
こんなにいい子が悲しい思いをするなんて、おかしいではないか。バートンはこんな格好をしているが、この仕事に誇りを持っていた。
こんな仕事をしているからこそ、この子たち家族を救うことができるただ一つの方法は、犯人を捕まえて、罪を償わせることだけだった。必ず犯人を捕まえる、バートンはもう一度心に刻み込んだ。
「奥さん、食事ありがとうございました。――名乗るのが遅くなりましたが、私たちは刑事です。私はキクマ、こっちは私の部下のバートン、と言います」
キクマは両手をこすり合わせながら、頭を下げた。
「そうだったんですか……またイスカったら野良猫を拾ってくるときみたいに、倒れていた人を連れ込んだんだと思ってたわ」
いや、いくらなんでも、こんなおっさん二人を拾っては帰らないだろう、とバートンは突っ込みを入れる。
しかし、母親はいたって、真面目に言っているので、本当におっさんでも拾って帰ることがあるのかもしてないと、少し不安になった。
「奥さんの名前をお伺いしてもいいですか」とキクマが訪ねた。
「あー、ごめんなさい……頭が回らなくて、私はキスカといいます」
「キスカさんですね。キスカさんお話をお伺いしてよろしいでしょうか――」
「ええ……」
キクマは少し間をあけてから口を開い。
「例えば――旦那さんが誰かに恨まれていたことがないか、心当たりはありませんか?」とキスカの顔色をうかがいながら、いった。
放心状態で聞いていたキスカは突然、悪魔にでも取りつかれたように激昂したのはそのときだ。
「何を言ってるんですか! 主人は恨まれるようなことをする人じゃありません!」
突然キスカは叫んだ。
精神的に不安定になっているのだ。
「まぁー、奥さん、落ち着いて聞いてください。人間恨まれることをした覚えがなくても、何らかの原因で恨みを買うってこともあるんですよ。実際そういったことが原因で殺された人を何人も見てきました」
キスカは椅子を倒さんばかりに、立ち上がり肩を怒らせたままでいる。獣による殺害が有力だが、ほんの一パーセントでも人間による犯行の疑いがある限りは調査をしなければならない。
その度に被害者の家族から事情を聴くのだから、刑事や警察は被害者の家族から恨まれることが多いのだ。恨みを買う職業なので、夜道には注意しなければならない。
「主人は本当に良い人で、みんなから慕われていたんです……だから誰からも恨みを買うようなことはしていません……」
最後はもう絞れない雑巾の水を無理やり、絞り出すような声だった。キクマの言葉を否定したくても、否定しきれない、どこか迷いのある声。
旦那を失った日に、今のようなことを言われては怒らない方がおかしいだろう。
しかし、キクマの言葉にも一理ある。人間生きているからには、知らないところで恨みを買っていることもあるからだ。生きているからには誰かしらから、必ず恨みを買っているものだから。
今話を聞くは酷だが、それが犯人逮捕の手がかりになるのだとしたら、仕方がないことだ。キスカは今にも泣きだしそうに、顔を歪めている。
そして、また、椅子に力なく崩れ落ちた。しかし、バートンは何だか不思議な感覚を覚えた。口では説明できないが何かを秘めたような、不思議な感覚をキスカから覚えた。
「思い出せる限りでいんです。奥さんの情報で犯人が一日でも早く捕まるかもしれないのだから。例えば金銭問題とかはありませんでしたか?」
「うちは借金なんてしてません……」
「だったら、金を貸していた人はいませんか?」
「貸せるお金もありませんよ。毎日の生活がいっぱいいっぱいなのに……」
何かを考えるようにキクマは黙りこくる。
そして、キスカを見た。華奢な肩、潤いのない髪の毛、目には疲れから来る隈ができている。そして、隈の黒さと相まって純血して血走った眼球はひと際赤く見えた。
「農家は儲からないんですよ」
うつむいたまま、キスカは語りだした。
まるで魂の感じ取れない声で、キスカは語る。
「貧しくても、心は豊かでした。あの人は誰からも慕われる、優しい人だったんです。ここに住んでいる方は高齢の方が多いので、まだ若い主人は村の働き手だったんです。
人の家の仕事まで引き受ける人でした。そんな人が嫌われますか? いや、嫌われません、だって次期村長候補だったんですから。だから、この村の人が主人を殺すなんてことは絶対! ありません……」
最後の言葉は自分に言い聞かせるようだった。旦那の死を事故だと決めつけるような言い方だ。不都合なことを考えたくない、それが人間の本能なのだから。
「次期、村長候補ですか。そのことが引き金になったとは考えられませんか?」
そんなキスカに、キクマが追い打ちをかける。
「そんなことで人を殺す人なんて、いるわけないでしょう!」
キクマはおかし気に、「いや、殺人とはね、衝動的なんですよ。ミステリ小説みたいに理論を組んで、行動する奴なんて、まずいません。理論を組めるほど考えられる人間だったら、まず殺人なんて馬鹿な考えを起こしません」と、自嘲気味に言ってみせた。
それっきり、キスカは黙ってしまい、沈黙の重い空気が室内に充満した。
イスカは台所から、顔だけを出して、心配そうに母親を見ている。子供からしたら、知らない男が母親をいじめているように見えるだろう。バートンは苦笑いを浮かべて、イスカを見返し微笑みかけた。
「分かりました、――最後に、これだけは教えてください」
と、いいキクマは、「村長の家はどこにありますか?」と放心状態のキスカに訊いた――。