case80 狂戦士(バーサーカー)伝説
署の資料室には狼人間に関する書類は置かれていなかった。
考えてもみれば、そんなオカルト的な事例があるはずもないのだ。
どうして、これほどまでに私は躍起になっているのだろう、とサエモンは自分自身がバカらしく思えた。
しかしビックといった男の話には、不思議な魅力と好奇心を掻き立てる強い力があった。署の資料室を抜け出して、サエモンは街の中央にある図書館へ向かった。
高い書棚が、迷路のように並べられ、足を踏み入れたものを深淵へといざなうように、どこまでも続く。古い紙の匂いが、館内にしみつき落ち着いた雰囲気をかもしだす。
奥に進むほど、照明は薄暗く人もまばらになった。
二時間近くも、サエモンは広大な図書館の中を行ったり来たりしながら、目的の本を探した。
しかし、サエモンが探しているマニアックな本はなかなか見つからなかった。仕方ないので恥を忍び、司書に話を聞くことにした。
「あの、すいません。探している本があるのですが」
書棚の整頓をしていた、司書は振り返った。長い髪を後ろで束ねた、まだ若い女だった。本が傷つかないように、白い綿の手袋をつけている。
「はい。どのような本をお探しでしょうか?」
サエモンはいいしのぶ。
しかし、訊かなければこの何万冊もある本の中から、目的の本を探し出すことなど不可能に等しい。
「世界の怪物などがしるされた本です。そうですね。例えば人狼なんかが――」
「世界の怪物ですか」
司書は両手に担いでいた、本の束をワゴンの上に戻した。
「ありますか」
サエモンがそう訊くと、司書はパッと顔を明るくさせ、「はい。ありますよ。付いてきてください」と細い書棚のあいだを進みだした。
圧迫感のある書棚のあいだを進んでいると、書棚がじょじょに迫ってくるような錯覚にとらわれる。高い書棚たちが、天をおおい押しつぶすように、迫ってくる。
サエモンは司書の揺れるポニーテールを見ながら、後ろに続いた。
この何十万冊もあろうかという図書館の本をすべて、網羅しているのだろうか? サエモンは疑問に思った。
「あ、ここです」
そういって、司書は気味の悪いタイトルが並んだ棚の前で立ち止まった。
ゆっくりと、司書はふりかえり、「ここです。え~っと、探していたのは狼人間の本でしたよね」と書棚に並ぶ本を左上から順に指で追っていく。
すると、指の動きがゆっくりになったと思うと、「あ! ありました、ありました。これです」そういって司書は一冊の本を引き抜いた。
サエモンは渡された本を見下ろした。
werewolfとだけ、シンプルに書かれている本。
たかが、狼人間のことだけで本を書く人間がいることに、サエモンは驚いた。世の中には、モノ好きもいるものだな。
「これでいいでしょうか? きっと、狼人間のことなら大抵載っていると思いますよ」
「あ、ああ、どうもありがとう」
お礼をいって、サエモンは本を受け取った。
司書は微笑んで、「はい。どういたしまして」といった。
早速サエモンは借りた本を近くのカフェで読むことにした。
コーヒーを注文して、じっくりと読む。
狼人間は英語でwerewolfまたはwolfman。
ドイツ語でWerwolf、lycanthrope。
フランス語で loup・garou。
ウェアウルフの起源は東ヨーロッパとされる。
北欧神話にもウールヴヘジンと呼ばれる狼に由来した戦士がおり、ベルセルク(バーサーカー)と同種と言われ、狼男の伝説にも影響を与えている。
『ヘロドトスの『歴史』(IV, 105)にあるネウロイ人(Νευροι)についての一年に一度狼になるという記述や、医学的な記述としてはローマ帝国末期に人が獣化する現象が初めて「症候群」として紹介された。
ギリシア神話のゼウスがリュカーオーン王をオオカミに変身させる話についても言及された。
なお、プリニウスは、『博物誌』の中で狼男の記述をしているものの、彼自身は「狼に変身し、その後元の姿に戻る人間があるということ程、出鱈目なものは無い」と断言している。
また旧約聖書『ダニエル書』には、ネブカドネザル王が自らを狼であると想像して7年間に及んで苦しむ話がある。
古代ゲルマン、トルスルンダの「狼となったベルセルク」
宗教学的には、古代東ヨーロッパ地方のバルト・スラヴ系民族における「若者の戦士集団が狼に儀礼的に変身する」という風習がある。
(熊皮を着た狂戦士=ベルセルク)が、時代が下るにつれて民間伝承化されたものであると考えられている。
バルト地方における獣人化伝承に取材した初期の小説として、プロスペル・メリメによる「狼男」ならぬ「熊男」(Lokis)がある。
クマもギリシア神話における女神アルテミス及びその侍女カリストーとクマへの変身が結び付けられるなど、変身譚と結びつきの強い動物である。
ヨーロッパでは世俗のあいだで古くから変身譚が信じられていたが、中世の初期までのキリスト教では、神が関与しなくても変身が起こることを信じる者は不信心の徒である、として、公会議などで変身という概念そのものを公式に否定している。
しかし、中世後期に異端が問題になるにつれ、異端者と人狼が関連付けられて考えられるようになった。
神学者たちは、獣人化現象を悪魔の仕業であるとして強く恐れた。特にオオカミは中世の神学においては、その容姿から悪魔の化身であると解釈された。
13世紀のフランスにて動物誌の著作を書いたピエール・ド・ボーヴェル(Pierre de Beauvais)は、「オオカミの前半身ががっしりとしているのに後半身がひ弱そうなのは、天国で天使であった悪魔が追放されて悪しき存在となった象徴」であり、更に「オオカミは頸を曲げることが出来ないために全身を回さないと後ろを見ることが出来ないが、これは悪魔がいかなる善行に対しても振り返ることが出来ないことを意味している」と解説している。
中世のキリスト教圏では、その権威に逆らったとして、「狼人間」の立場に追い込まれた人々がいた。
その傾向は魔女審判が盛んになった14世紀から17世紀にかけて拍車がかかった。こういった者たちも、狼人間の原型と考えられる。
墓荒らしや大逆罪・魔術使用は教会によって重罪とされ、その容疑などで有罪とされた者は、社会及び共同体から排除され、追放刑を受けた。この際、受刑者は「狼」と呼ばれた。
当時のカトリック教会から3回目の勧告に従わない者は「狼」と認定され、罰として7年から9年間、月明かりの夜に、狼のような耳をつけて毛皮をまとい、狼のように叫びつつ野原でさまよわなければならない掟があった。
(当時のフランスでは彼らを見て「狼人間が走る」と表現した)
人間社会から森の中に追いやられた彼らは、たびたび人里に現れ略奪などを働いた。
時代が下るとこれが風習化して、夜になると狼の毛皮をまとい、家々を訪れては小銭をせびって回るような輩が現れた。
1520年代から1630年代にかけてフランスだけで3万件の狼男関係とされた事件が報告され、ドイツやイギリスでも同様の事件の発生が記録されている。
また、魔女にはオオカミに変身できる能力があると信じられるようになった。
その後より合理的な解釈を求めて、生理現象や精神的な問題と結び付けられることも行われるようになった。
17世紀末のジャン・ニノは狼への変身を「狼狂(folie louvière)」として捉え、知能障害や頭脳損傷などに由来する精神的な理由で月に向かって絶叫したり、4つ足で歩くなどの精神錯乱を起こしたと考えた』
はじめは半信半疑で読んでいたサエモンも、次第に惹きつけられていた。この本には科学的な観点からも、狼人間の解釈を加えているのだ。
狼人間など、オカルト的なことだと考えていたが、あながちない話ではないのかもしれない、と思えるようになった。
もし、何かの人体実験で、人間を獣に変える技術が開発されているのなら、ビックが言っていた『狼男みたいだった』という話もあり得ない話ではなくなる。
MKウルトラ計画と狂戦士。
感情のない戦士をつくる実験……。
狼人間……。人間と獣のハーフ。
古代神話でも、半獣半人の怪物の話が盛んにある。エジプト神話では、半獣半人の神がいる。アヌビスや、ホルス、セト。
ギリシャ神話でも、半獣半人の獣の話がある。
ミノタウロスが有名だ。たしかこういう話だった――。
『かつて、クレタ島というところに、ミノスという王がいた。ミノスはある神が持つ、一匹の白く美しい雄牛に一目ぼれし神にいった。
「この、雄牛をかしてほしい」、と。
神は必ず返すことを約束させ、ミノスに白い雄牛をかし与える。ミノスは喜びに震えた。数年後、雄牛を神に返納するときがやってきた。
しかし、ミノスは雄牛を返すのを拒んだ。そしてミノスは神を欺くことにしたのだ。――ミノスは偽の牛を返すことにした。
その偽りに激怒した神は、ミノスの后パシパエに呪いをかける。それは白い雄牛と交わりたくなる、呪いだった。しかし、人と牛、交わることなどできるはずもない。パシパエの思いは募るばかり。
パシパエは閃いた。物づくりの名工ダイダロス、という男に雌牛の模型を作らせたのだ。
パシパエは雌牛の模型の中に入り、思いを遂げたのである。そして、パシパエは牛の頭と人間の体を持つ、半獣半人の怪物、ミノタウロスを産んだのだった』
半獣半人の怪物の話は神話の世界だけではなく、実際にあるのかもしれない。サエモンは久々に胸の高鳴りを覚えた――。
今回作中に現れた、『werewolf』という本は、Wikipediaの狼男、というページからの引用です。