case78 生物学的な母
静かだった。どうしようもなく、静かだった。
死後の世界のように、静寂に包まれた室内で、ジョンは考えた。これからの、あり方を――。
壁にかかった振り子時計が、チクタクチクタクと重い音を落とす。窓から差し込む淡い月明りだけを頼りに時計の文字盤をみた。十一時半を少し過ぎた時間だ。
キクナは書置きだけを残し、どこかへ行ったきり帰って来ない。
はたして、どこに行ったのだろうか。予想はできない。
以前キクナが言っていたことを思い返す。
兄の話、子供たちの話、たわいない世間話。それから考えるに父に会いに行ったのだろうか。いや、それはまだ考えられないだろう。
キクナは責任感の強い女だ。
自分ではどうしようもない、ストリートチルドレンを救おうと躍起になっているのだろう。
しかし、人、一人の力などたかが知れている。自分の力ではどうすることもできないこともあるのだ。
自分の力でどうすることもできないことで、いちいち傷つくのなら、あの女はどれほど生きづらい人生を送ることになるのだろうか。
きっとこれから、自分と一緒にいれば一生癒えることのない、傷を負うことになるのだ。やるなら、なんでも早い方がいい――。
別れるのなら、縁を切るのなら早い方がいいのだ。自分はそれほど傷つかないだろう。しかし、キクナはどれほど傷つくだろうか。
一刻傷ついたとしても、一生癒えないほどではないのだ。
しかし、その一刻でも傷つけてしまうのだ……。
こんなことなら、はじめから出会わなければよかった。あのとき、助けなければよかったのだ。
そこでジョンは首を強く振る。
いや、あのとき助けていなければ、キクナは一生消えない傷を負っていた。どちらにしろ、結果的には同じだった。なら、少しでも、あの女の傷つかない方がいい。
いま別れれば、傷は小さい。
キクナを傷つけるのが嫌だったのではないのだ。とジョンは悟った。自分が傷つくのが嫌だったのだ。けれど、自分一人が傷つくことで、人々を救えるのなら。イエスのように、一粒の麦になれるのなら。
その方がいいに決まっている。
マフィアの組織をつぶすことで、人々が救われるのなら。私は一粒の麦になろう――。
そのとき、振り子時計の午前十二時を知らせる音が鳴った。
*
翌日の夕方。空気が乾き、夕日がくっきりと見えた。
キクナは清々しく、澄んだ表情をしていた。迷いがなくなり、吹っ切れたような顔だ。
「ごめんね。突然でかけちゃって」
片手に持っていた荷物を、片付けながらキクナはいった。
「いや、べつにかまわない」
荷物を片付け終わったあと、キクナは二人分のお茶をいれテーブルについた。お茶を飲み、落ち着いたのちにキクナは経緯を説明しはじめた。
子供たちを引き取ってくれるかもしれない、院に話を聞きに行ったこと。そして、子供たちを引き取ってくれる、と了承してくれたこと。
そこで出会った、わんぱくな少年たちのこと。
おしゃべりをして遊んでいる少女たちのこと。
彫刻を彫っていた男の子のこと。
讃美歌を聞かせてくれた、子供たちのこと。
心優しきシスターたち。
その教会がいかに良い場所なのか、キクナは熱弁した。
訊きもしないのに、キクナはしゃべり続けた。
たしかに話を聞く限り、いい孤児院であり教会だった。ジョンは話を聞きながら、そんな孤児院もあるのだな、と感心した。
ジョンがむかし入っていた、孤児院であり教会はたとえ拷問されても、いい教会だとはいえないところだった。子供たちは残酷で、大人は無力で、罪を犯していた。
たしかあの教会はなんといっただろうか。
憶えていない。憶える必要もない。あの運命の日、わたしはある獣を殺し、その院から逃げ出した。あれから、あの院はどうなったのだろうか。私を探しただろうか。もう過ぎたことだ――。
「それでね。聖歌隊の子供たちが、わたしのために讃美歌を歌ってくれたの。すごく素敵で、わたし泣いたの。
本当よ。泣いちゃうかもしれない、って思ってたけど本当に泣くとは思っていなかった」
そのときの感情を再現するかのように、キクナは語った。
「その歌を聴きながら、わたしは吹っ切れたの。お父さんに会いに行こうって。今すぐではないけど、ちゃんと会って、家出したときのことを謝ろうって」
そこでキクナは一瞬迷うように眉間にしわを寄せて、切り出した。
「わたしもお父さんに会うから、ジョンもお母さんに会ってあげれば……?」
タブーに触れるように慎重に、キクナはつぶやいた。
母親と喧嘩して、家を飛び出した、とキクナには説明してあったのをすっかり忘れていた。あながち嘘ではないのだが、はじめに母親のことを訊かれたときは、どう答えればよいのか戸惑ったものだ。
苦し紛れに、母と喧嘩して家を飛び出した、といってしまった。
あとになって、母は死んだといっておけば良かったと、後悔した。
「ね? どんなことで喧嘩したかは知らないけど……きっとお母さんも後悔していると思うの。きっと、お母さんはジョンに会いたがっている、と思うわ」
悲しみにうるむ瞳で、キクナはジョンを見た。
ジョンはキクナの瞳を、直視しすることはできなかった。
そこで、ジョンは考えてみる。いま、生物学的には母親の女はどこで何をしているのだろうか、と。
自分が獣を殺し、その罪をかぶった女はどこで、何をしているのだろうか、と。刑務所はすでに出ているはずだ。
あれから、十五年以上も経っているだろう。
自分の罪をかぶって、十何年ものあいだ冷たい獄中で過ごしていたのだ。罪悪感を抱かないはずがなかった。獣は嫌いだったが、あの女のことは嫌いではなかったのだ。
たしかに謝ってばかりの女は大嫌いだったが、それもあの女が悪いのではなかったのだ。女に暴力をふるう獣がすべての元凶だったのだから。
ただ獣がいなければ、あの女は幸せな人生を送れていたのだ。
自分がいなければ、あの女は幸せな人生を送れていたのだ。
私があの獣を殺していなければ、あの女には幸せな未来があったのだろうか。いや、獣がいる限りいつかは、こちらが殺されていた。
はじめから獣にさへ出会っていなければ、幸せになれていたのだろうか。きっと幸せになれていただろう。出会う人間によって、人の人生は取り返しがつかないほど狂わされるのだ。
キクナも自分と出会ってしまったばかりに、人生を狂わされた一人だ……。
「ねえ? 会ってあげて……。そして、仲直りしてらっしゃいよ……」
キクナの問い掛けて、ジョンは物思いから覚めた。
「いや、いまどこで暮らしているか、わからないんだ。だから、それは無理だ」
キクナの顔が悲しみに歪んだ。
「どうして、わからなくなったの……?」
ジョンは答えない。答えられるはずがないから。
「色々あったんだよ」
泣き笑いのように、ジョンは微笑みながら答えた。
キクナは納得がいかなかっただろうが、それ以上は訊かなかった。
私とかかわった人間は人生を狂わされる、とジョンは悟った。自分さへいなければ、母は刑務所に入らなくてもよかったし、キクナは悲しむこともなかった。
しかし後悔しても、なにもはじまらないし変わらない。
ジョンは深呼吸をいちどして、意を決する。
キクナに別れを告げよう、と――。