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人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
第二章 過去編 名前のない獣たちは……
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case77 一粒の麦

 煙が天井に充満して、独特な空気が室内をおおった。

 窓から差し込む光が、煙を照らし。濁った輝きとなって、床にまだら模様をつくった。ジョンは酒も、ギャンブルも、葉巻もやらない。本当のことをいえば、こんな煙たい部屋からはさっさと立ち去りたかった。


「ピエール議員を始末してくれたようだね」


 葉巻を灰皿に立てかけて、男は足を組んだ。

 ジョンは灰皿に落ちる灰に視線をやりながら、ぼんやり考えごとにふけり。そして答えた。


「ピエール議員を始末したのは私ではありません」


「そのようだな。きみはあんな殺し方をしない」


 重みのある低い声で、男はいった。


「では、あれをやったのは誰だね?」


 男は眼をほそめ、ジョンを見すえる。まるでジョンの考えていることを読み取ろうとしているような訊き方だった。


 ジョンは男から視線をそらして、考える。あれをやったのは、本当にレムレースなのだろうか。いくら大人びているとはいえ、まだ十二、三歳ほどの少女だ。


 もし本当にあれをやったのがレムレースだとして、いったいどんな育ち方をすれば、あのような(むご)い殺し方ができるというのだろう。


「どうした? 考えごとか」


 男の声で、ジョンは物思いから覚めた。


「はい、ちょっと」


「何を考えていたんだ」


 男は鋭い眼つきで、ジョンを見た。

 気の小さい者なら怯みあがってしまうほどの威圧感があった。


「きみにはピエール議員をやった犯人がわかっているのかね?」


「わかりません」


 しばらくジョンを見つめたのち、ふっと息を吐いた。

 

「そうか。わかったらまた教えてくれ」


「はい」


 ジョンは短く答えた。

 灰皿に立てかけてあった、葉巻が短くなりはじめたとき、男は話を切り出した。


「ラッキー、という男を知っているかね?」


 視線を灰皿に落とし、男は短くなった葉巻を人差し指と親指でつまみ上げる。


「いえ。知りません」


 ジョンの声を聞きながら、最後に一度煙を吸い、男は灰皿に葉巻をなすりつけた。シューという、蚊の鳴くような音をさせて火は消えた。


「ラッキーというのは、ジェノベーゼファミリーのボスの名前だよ」


「ラッキー、ですか。幸せそうな名前ですね」


 ジョンはそういいながら、憶えやすい名前だな、と思った。

 口角を微小(びしょう)にあげて、男は微笑んだ。


「名前はかわいらしいが、怪物だよ。人身売買、売春の斡旋(あっせん)、麻薬の密売などで巨万の富みを蓄え、組織を大きくしたのだから」


 ジョンは口をはさむことなく、男の話に耳をかたむける。

 男の話が終わったのをたしかめると、ジョンは訊いた。


「つまり、ジェノベーゼファミリーのボスを私に殺せ、と?」


 しばらくのあいだ、クラシック調のテーブルの一点をみつめたのちに、男は顔をあげジョンを見た。男は笑っていた。


「無理にとはいわない。きみが可能だと思うのであれば、の話だ」


 男は感情の読み取れない、微笑みをうかべながら続ける。


「もしきみが了承してくれるのであれば、私もできる限りの協力をおしまない。

 考えてみてくれ、ジェノベーゼファミリーに人生を狂わされた人々の気持ちを――。ラッキーは戦争をしようとしている。それも大きな戦争だ。

 戦争を起こせば、武器が売れる。ジェノベーゼファミリーは究極の兵器を作り出した――」


「どうして、そのようなことを知っているのですか?」


「私は昔、組織とつながっていたからね」


 男は考える風もなく、即座に答えた。


「ジェノベーゼファミリーに入っていたのですか?」


「いや、組織には入っていない。ある計画に私は協力してしまったんだ」


「ある計画?」


 男はしばらく押し黙り、鋭い目を細めて昔を懐かしむような顔をした。


「戦争兵器をつくる計画にだよ。だから、私にはラッキーが起こそうとしている、戦争を止める使命があるんだ」


 ジョンは男の鋭い目を真正面から見つめ返して、問う。


「あなたは科学者だったのですか?」


「いや、私は科学者ではない。私は国に仕える者だ。科学者だったのは、私ではなく先祖だ。先祖はある実験をしていたんだよ。生物兵器をつくる実験をね」


「生物兵器?」


「人体実験という方が正しいかな。私の祖先はその人体実験をしたのさ。そして、その計画は政府や裏社会の人間たちに知れ渡り、今も極秘に研究されている」


「どのような実験なのですか?」


 ジョンが訊いても男は答えようとしなかった。

 重い首をゆっくりふって、いう。


「それはまだ教えられない。きみが私の計画に協力してくれるといえば、教えよう」


 ジョンはしばらく押し黙り、考えた。

 ジェノベーゼファミリーとは、アメリカにもコネクションをもつ巨大な犯罪組織だ。赤子が考えても、暗殺の可能性などないことはわかる。それに、ラッキーという人物の顔も知らない。


 戦闘力で考えると、一国と一個人の差があると考えていい。

 もしかりに、暗殺に成功したとしても、そのあとの人生を組織に追われながら過ごすことになるのだ。


 そのときふとキクナの顔が頭にうかんだ。

 もし自分がこの仕事を請け負ったら、キクナはどうなるのだろうか。

 考えるだけで、嫌悪感にさいなまれる。


「組織の情報ならいち早く手に入る。ライフルも提供しよう。絶好のチャンスをきみにあたえる。決して不可能ではない仕事だ」


 男はまくしたてるように、言い続けた。

 ジョンに有無をいわさぬつもりらしい。この男には色々と助けてもらった恩義は感じている。しかし、その計画に協力するかどうかの話はべつだ。


 ジョンは恩義をとるか、愛する者の未来をとるか、という選択を迫られた。


「仕事が成功したあとのことは私に任せてくれればいい。きみに安全な住み家をあたえ、名前もあたえよう」


 男の声は低かったが、か細くはない。どすは利いていないが、透き通ってもいない。ジョンの心の中で、盛りをたてひっかかった。


 そこまで男はいって、ソファーに深くもたれかかった。

 そして、足を組み変え、一息大きな息をついた。


「すぐにとは言わない。今までにない大仕事だ。よく考えてからでいい。もし私に協力してくれるのなら、きみと一緒にいるあの日系人女性とは別れてくれ。酷なようだが、きみもわかるだろう」


 そこまで男はいって、声音を変えた。


「もしこの仕事が成功した(あかつき)には、どれだけの人が救われるか、きみに考えてみて欲しい。一人の人間の犠牲で、どれだけの人が救えるか、考えてみて欲しい」


「一粒の麦ですか」


 皮肉りを込めて、ジョンはつぶやいた。

 男はジョンの言葉を聞くや否や、眼を細めて微笑んだ。


「そうだな。きみの言うように一粒の麦だよ。一粒の麦が犠牲にならなければ、一粒のままで終わるが。一粒の麦が犠牲にあることで、実を結ぶ生命(いのち)は数えきれない」


 ジョンは考えた。

 一粒の麦の犠牲で、犠牲になるものがどれだけいるのかを――。

 一粒の麦が犠牲になることで、救われるものがどれだけいるのかを――。

 自分が犠牲になることで、悲しむものがいるのかを――。

 自分が犠牲になることで、救われる生命(いのち)がどれだけあるのかを――。


 一人を救うより、二人。

 二人を救うより、三人。

 三人を救うより、四人。

 五十人を救うより、百人。

 百人を救うより、五百人。


 命とは平等なのだろうか――。

 そんなこと昔から、わかり切っていることだ――。

 命に平等などあろうはずがない――。

 

 家畜の命と、人間の命なら、人間の命の方が重い――。

 庶民の命と、権力者の命なら、権力者の命の方が重い――。

 権力者の命と、王族の命なら、王族の命の方が重い――。

 王族の命と、神の命なら、神の命の方が重いのだ――。


 この世にあるものすべては、天秤ではかりが取れるようになっている。

 そう、この世にあるものすべて、はかりが取れるのだ。

 ジョンは決めた。

 昔、己に誓った想いを、果たすときだと――。

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