case76 ニックの字
食器をガチャガチャ片付ける、甲高い音が食道内に響きわたっている。
続いて子供たちの楽しそうな、しゃべり声に変わった。
それから間もなく、シスターカリーラが食道の真ん中に立ち、こっほん、と咳ばらいをした。カリーラの咳ばらいを聞き、子供たちは一斉に黙り込んだ。
「おしゃべりは祈りが終わったあとにしてください」
やさしい口調で、カリーラはたしなめるのようにいった。ザワザワというもの音がしばらく鳴ったあとに、「は~い」と子供たちは一斉に返事を返した。
それを見届けると、シスターカリーラは手のひらを組んで、眼をつむった。カリーラをお手本に、みなも手のひらを組み、眼をつむった。
「父よ、感謝のうちにこの食事を終わります。あなたのいつくしみを忘れず、すべての人の幸せを祈りながら。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン」
カリーラのあとに続いて、子供たちも同じように唱えた。
ここにきて、ゆいいつ作法に戸惑わなかったのは、この食後と食前の祈りだけだった。祈りは毎日、セレナがうるさいので唱えるからだ。
「はい、それではみなさん、よい一日を」
シスターカリーラはそういいながら頭を軽く下げ、廊下に消えて見えなくなった。みなはカリーラが去ったことを確認すると、またおしゃべりをはじめた。
「それじゃあ、あたしたちは勉強しに行きましょう」
食器の載ったトレイを持ち上げながら、セレナはいった。チャップたち五人の顔が曇った。
「まあ……そんなに焦ることないんじゃないか……? 少し休んでからでもいいだろ」
いいづらそうに、カノンがいうと、「なに? 行かないの?」とセレナはきつい目で睨んだ。
カノンは縮み上がってしまい、それ以上なにもいえなかった。
渋々男子勢は顔を見合わせて、肩をすくめる。ここに来てからの数週間は、セレナの機嫌が悪かったが、近頃は勉強が楽しいらしく愚痴をもらすことも減った。
愚痴は減ったのだが、スカラたちに出会ってしまうと険しい顔で、「やっぱりここ嫌いよ」ともらしている。
今日は機嫌がいいようなので、男子たちはセレナに逆らわずに、おとなしく従うことにする。
セレナのあとに続き、院の長い廊下を歩く。ピカピカに磨き上げられたフローリングは、鏡のように顔が映るほどだ。等間隔に花瓶がおかれており、教会の庭で摘んだ花がいけられている。
花をいけるのは、小さな子供たちの仕事で、早起きした子が自ら花を摘んできていけるのだ。
その他にも、施設の廊下には子供たちが描いた絵が手創りの額縁にいれられ飾られている。けっして上手いとは言えない絵だけど、心がこもり、不思議とやさしい気持ちになれる絵だった。
そんなサロンのような廊下をしばらく進んで行くと、シンプルなとびらの前に行きつく。セレナはとびらの前で、息を整えると三回コンコン、とノックした。
ノックのあと、「入りなさい」という声がとびらの向こう側から聞こえてきた。とびらを開け、中に入ると木組みの椅子にシスターカリーラが座っていた。
ここはカリーラの部屋なのだ。
この部屋で、ニック、チャップ、ミロル、カノン、アノン、セレナは勉強を教えてもらっていた。修道女の部屋らしく、必要最低限の物しか置かれていない。
それほど広くない部屋の角に、シンプルなベッドが置かれ、そのベッドの横に落ち着いたブラウン色の机があった。机の上には、羽ペンとインク、羊皮紙がおかれている。
部屋に唯一ある窓は花柄のレースカーテンでしきられ、外で子供たちが走り回っているのが見えた。
部屋の真ん中には、シンプルなテーブルが鎮座しており、そこに教科書が置かれている。
あとは小さな書棚が机の横につけるように、置かれているだけだ。窓から入るやわらかな光が、室内を照らすなか、シスターカリーラは入ってきた子供たちを見た。
「いらっしゃい。今日も早いですね。べつに遅く来たって教えてあげますから、部屋でゆっくりするなり、遊ぶなりしてからでもいいのですよ」
セレナは首をゆっくりとふった。
「いえ、あたしは遊ぶことよりも、勉強がしたいんです」
はきはきとセレナは答えた。
シスターカリーラは微笑みながら、「そうですか。セレナさんは偉いですね」とやさしくいった。
褐色の頬を紅くそめながら、セレナはうつむいた。
照れたときにセレナがよくやるしぐさだ。
「それでは、テーブルについてください」
シスターカリーラがそういうと、セレナは端の席についた。
男子たちもそれぞれテーブルに向かい合う。みなが席についたのを見届けると、カリーラは立ち上がりテーブルの上に置かれていた、教科書を手に取り広げた。
カリーラは色々な科目を教えてくれる。
数学や、国語などの通常の授業から、科学や偉人たちの話などだ。カリーラから聞かされる話は、血沸き胸躍る、英雄伝ではなく、こういう人物がこういう偉大なことをしただとか、人のために尽くした、だとか、こういう物を発明した、だとかの話ばかりだった。
セレナは眼を輝かせながら、聞いていた。
男子たちも、数学や、国語などよりは、偉人伝を聞いている方が好きだった。
国語の書き取りをしているときのこと、「なんだよ。ニック。字きたねえな。全然、読めないぞ。それじゃあ暗号だ」とカノンがおかしそうにいったのだ。
ニックは自分の字を見てみる。
たしかに大きさがいびつだったり、端折られていたり、スペースが空き過ぎたり、狭すぎたりでけっして綺麗だとは言えない……。そのことは自分でも自覚していた。
けれど、誰かに指摘されるのはいい気分ではない。
ニックはムッとなって、カノンのノートものぞきみた。人のこと言えないじゃないか、カノンの字もじゅうぶん汚かった。
たしかに自分よりは汚くないかもしれないが、いびつで大きさがそろっていない。読めなくはないけど、読みずらい。つまり人のことをいえないってことだ。
「カノンも人のこと言えないじゃないか!」
ニックは声を少し荒らげていった。
するとカノンもムッとなって、顔をしかめた。
「おまえよりは綺麗だよ」
そういって、ノートをニックの目の前にかざした。
「暗号にはなってないだろ?」
たしかに暗号にはなっていないが……それとこれとは話が別ではないだろうか?
「そんな問題じゃないだろ。人が一生懸命書いたものを馬鹿にするなんて」
カノンの顔が曇った。
どうやら本人も悪気があっていったわけではないようだ。
カノンはいつも調子に乗って、思ったことをすぐいうのだ。つまり暗号みたいに汚い字だと思いはした、ということだが……。
「悪い……馬鹿にしたわけじゃないんだ……。言葉が悪かったよ……。本当にすまない」
そういいながら、カノンは頭をさげた。
根は本当に素直でいい奴なのだ。ただ調子にさへ乗らなければ。
「悪気があっていったわけじゃないんだろ」
「ああ、思ったことをつい口に出しちまったんだ……」
ニックは苦笑いを浮かべた。
「思ったのは思ったんだな」とため息をつき、「まあいいよ。字が汚いのは本当のことだから。たしかにおれの字は暗号みたいで、読めないよな……」
ニックは嘆きながら、自分のノートに書かれた文字を見た。
ため息がでるほど、読めない……。自分ではかろうじて、読めるのだが、他人が見たら暗号と見まがうほどには読めなかった。
「そんなことないぜ……読めるには読めるさ!」
慌ててカノンが言葉を継いだ。
「じゃあ、このページになんて書いてあるか読んでみろよ」
そういってノートを持ち上げ、カノンに見せた。
カノンの顔がじょじょに曇って行くのがわかる。心の中でため息をつくニック。
「いいよ。無理しなくても。何度も書き取りをしていくうちに上手くなるんだから」
「ああ、そうだぜ。練習すれば、上手くなるさ」
そこでまたカノンが調子に乗って、「だけど、その暗号みたいな字でもいいとオレは思うけどな」とつぶやいた。
ノートにアルファベットを書きながら、ニックは横目にカノンを見た。
「どうしていいと思うんだよ?」
カノンはにたりと笑って、「もし、大事なことが書かれたノートを落としたとしても、誰も読めない。それどころか、呪いの呪文だと思って、誰も拾わないさ」と言って見せるのだ。
は~、とニックはまたしてもため息をついて、「へいへい、そうですか」と張り合う元気もなくしていた。
こうして、朝のやわらかな光がテーブルに降り注ぎ、雑音のない静かな部屋の中で、子供たちは勉強にはげむのだった――。