case75 いつ壊れるかわからない幸せな日々を
黒い雲のすき間から、赤色の空がのぞいている。
吹く風は生温かく、灰色がかっていた。
天はいったい、いつからこのような色になってしまわれたのだろう?
ニックは空を見上げながら、ゆっくりと横に視線を向けた。
そこにはこの灰色の世界には不釣り合いな、純白の教会があった。そこでニックはふと思い出した。これは夢なのだ、と。
訳のわからない“夢„を最近よく見る。純白の教会の周囲は十メートル以上あろうかと思われる嘆きの壁のようなボロボロの障壁が、一帯を囲っていた。
この世界は夢の世界なのに、肌をなでる生温かい風や、見える景色や色彩は現実的で、これは本当に夢なのだろうか? と疑ってしまうほど鮮明だった。
ニックはふらつく足で、教会の中に入った。入ってはじめに目に付くのは、磔刑に処されたイエスの姿。
イエスは人類の罪を一身に背負われた、というけれど誰かが他人の罪を背負ったからといって、本当に人間は救われるのだろうか。本当の救いとは、自分と罪とが向かい合い、お互いを認め合ってはじめて救われるものではないだろうか。
彼はそのように考える。
そのとき教会の鐘の音がカーンカーンと、聖堂内にこだました。くぐもった鐘の音を、ニックは無心に聴き入った。
教会の奥には虚ろな目をした、たくさんの子供たちがいる。子供たちは色々なことを学んでいた。
銃の扱い方――対人の倒し方――仕留め方――そんな何の役に立つのかわからない教育をみな受けている。
中でも一番成績がよかった者は、少女だ。人形のように整った顔をしていて、いつも微笑んでいる。顔は笑っているのだけど、目は刃物のような鋭さを宿し、そして冷たい。
ニックはその少女が怖くてしかたがなかった。
ここにいる子供たちはどこか、狂っていて、人間として大切な感情の一部が欠落しているのだ。大人たちも無表情で、子供たちに感情を示さない。
それはまるで、実験動物を扱うかのように、機械的で愛がない。顔に渦が巻いたように、いびつで怪物的な大人たち。
けれど一人だけ、みなに優しく接してくれる大人がいた。
それは女性で、その人だけは作り笑いなどではなく、本当の微笑みを浮かべ、本当のやさしさで子供たちに接したのだ。
その人がいるときだけは、虚ろな目をした子供たちの瞳に魂が戻ってきたかのように光が差す。みんなその女性が大好きだったのだろう。
だから女性が去ってしまったあとは、またどんよりとした陰湿な空気に逆戻りしてしまった。
だいたい毎日同じことの繰り返しだった。
朝目覚め、大人たちから与えられたカリキュラムを行い、昼になる。昼からは、対人戦の修練を行い、夜になる。
一人ひとりの子供たちを長い時間をかけて診察し、透明な液体の入った注射を打つ。その注射を打たれた後は、体がだるくなり、考えることもできないほど頭がボーっとするのだ。
そしてそのまま眠りに落ちる。毎日それの繰り返しだった――。
*
太陽の光がカーテンのすき間から差し込み、ニックの顔を差した。瞼の裏側が赤く輝き、手の平で眼を覆った。
二段ベッドの上段でカノンが、もぞもぞと動く気配を感じた。そろそろ起きる時間か。夢の中で意識が覚醒しているので、眠った気がしない……。
けれど起きないわけにもいかない。まだ眠っていたい気持ちを抑え、起床モードに頭を切り替える努力をした。二段ベッドの梯子に足がかかった。
「おい、起きろよ」
カノンは梯子に足をかけたまま、毛布にくるまるニックにいった。
「ああ、もう起きてるよ」
毛布に遮断された、くぐもった声でニックは応じた。肩をすくめて、カノンは床に着地した。
カノンが部屋から去ってから、彼には室内を見渡した。となりの二段ベッドにいるはずのミロルとチャップの姿がない。二人ともとうに起きていた。
「しゃあない……」
その言葉をポツリとつぶやいて、ニックは起き上がった。
起き上がったその足で、ニックは食堂に向かった。まだ朝食までもうしばらく時間があるけど、子供たちはみな自分の決められた席につき、待ちわびている。
彼も自分の席へ向かう。ニック達の席は、タダイ神父の計らいで、左からチャップ、ミロル、セレナ。そして向かい側を、ニック、カノン、アノンと六人が向かい合って座れる席だ。
「お、寝坊助が来たぞ」
カノンはニヤリと歯を見せて、からかう。
彼は頭を掻きながら席につき、「もう寝ぼけてないって」といったそばからあくびが出た。
それにはみんなクスりと笑い、「まだ眠そうじゃないか」とまたもカノンがからかった。
たしかにカノンの言う通り、眠い。目がダルんとして、頭の奥に鉛でも入っているかのように、重心が定まらない。ふらつく頭をなんとか定めながら、ここまでやって来たのだ。
「ああ、眠いよ……」
そういってニックはまた大きなあくびをついた。
みなは顔を見合わせた。
「また悪夢を見たのか?」
チャップは訊く。
鮮明には憶えていないけど、いつもと同じ夢だったことはわかる。
「いや、悪夢ってわけじゃないけど……気持ちのいい夢でもないな……」
煮え切らない回答をすると、みんなの顔を歪めた。ハッキリしろよ、というように。
「どんな夢を見てるんだよ? 憶えているところだけでいいから話てくれよ」
ニックは断片的に憶えている夢を、辻褄があうようにつなぎ合わせてみた。夢というものはわけがわからない展開をみせるから、話せといわれると困ってしまう。
「まず、空には台風のときのような分厚い雲がはっているんだ」
みんなはうなずきながら、ニックの話に聞き入った。
「分厚い雲のすき間から、赤い空がのぞいているんだ。その空を見ながら視線を横にそらすと、その世界には不釣り合いなほど綺麗な純白の教会がある」
「純白の教会? ここみたいなか?」
彼は首をふって否定する。
「いや、ここではない。教会を囲うようにして、灰色の壁が広がってるんだ」
「まるで刑務所みたいだな」
カノンはからかうつもりで、口をはさんのだろうが、「ああ、刑務所みたいだ」とニックが認めてしまったから調子が狂ったようだ。
「教会に入ると鐘の音が絶対になるんだ。その音を聴きながら、奥に進んで行くと、虚ろな目をした子供たちがたくさんいる」
みんなの眼を見回しながら、ニックはささやくような声でいった。
「その子供たちは戦い方を教えられている」
「戦い方?」
セレナが顔をしかめながら口をはさんだ。
ニックはうなずいた。
「ああ、戦闘術だ。そして、研究者みたいな大人や、顔に渦巻のようになった大人が、子供たちに色々なことをするんだ」
「色々なことって?」
彼は顔を曇らせた。
「体を調べたり、注射を打ったり、色々質問してきたりだよ」
「それで? どうなるの?」
「体を調べられた後は、注射を打たれて体がだるくなっちゃうんだ。そしてすぐに眠りに落ちる。そこで目覚めるんだよ」
ニックが語り終えたちょうどそのとき、ハンドベルの透き通る音が鳴った。みなは一斉に、先頭に視線を向ける。
「それじゃあ、みなさん食事を運んでください」
シスターカリーラが透き通る声で呼びかけた。その声を聞くや否や、年少の子供たちから順に食事を運びはじめた。
「オレたちも行こうぜ」
両手をテーブルつきカノンは立ち上がった。
カノンに続きみんなも立ち上がる。
家族の笑顔をみながら、ニックは想った。幸せな日々だな、と。いつ壊れてしまうのかわからないからこそ、かけがえのない幸せな日々を精いっぱい生きよう、と――。想った――。