case74 ビックの隠し事
図体のでかい黒人男はそわそわと落ち着かない様子だ。
ひっきりなしに、辺りを見回しキョロキョロと目を泳がせている。それもそのはず、小奇麗なカフェの個室にビックは連れて来られたのだった。
「なあ……俺こういうところ苦手なんだよ……。もっとべつの場所で話そうぜ。おまえさえよければ、道端だってかまわねえからよ……」
プヴィールは懐中時計を取り出して、時間をたしかめた。
もうすぐあの人が到着する時間だ。
「いえ、僕はここでかまいません」
「いや、俺がいづらいんだよ……こういうところに入ったことは一度もないんだ……。黒人がこういうところに入ると、色々言われるだろ……」
顔を曇らせながら、ビックはボソッとつぶやいた。
プヴィールはビックを見つめて、「ビックさんがびくびくすることないですよ。お客様は平等なんですから」と言い聞かせるようにいった。
「お客様は平等ねぇ……」
と遠いどころかを見ながら、ビックは応じた。
たしかに平等などないのかもしれない……。黒人は差別されるし、黄色人種は差別されるのだ。黒人だからと入れない店もあり、黄色人種だからと入れない店もある。
黒人だから付けない仕事の方が多いことも知っている……。プヴィールは歯がゆい思いを感じた。人間という種族は同じなのに、肌の色が違うだけで、上下の関係ができてしまうのか……。
黒人でも黄色人種でもない、プヴィールにはビックの本当の気持ちはわからない。どうして、この世には人種が違うだけで入れない店やできないことが、あるのだろうか? 本当にプヴィールは歯がゆくてしかたがなかった。
とびらについたブリキのベルの音で、プヴィールは物思いからさめた。来店した人物は店内を、くまなく見渡しプヴィールたちを見つけると、真っすぐに歩き出した。
「時間通りですね」
懐中時計を見ながら、プヴィールはつぶやいた。
フッっと鼻をついて、「当然です。私が約束の時間に遅れたことが一度でもありましたか」と嫌味にいった。
苦笑いしながらプヴィールは、「いえ、一度としてありません」と答えた。それを聞いて納得したように、男はプヴィールのとなりに腰を落とした。
「紹介します。この人は僕の上司で、名をサエモン・テンといいます」
プヴィールが紹介すると、サエモンは頭を下げた。
怪訝な眼でサエモンを観察して、ビックはふと思い出したようにいった。
「あ、あんた。たしか、俺が刑事のあんちゃんと話しているとき、木陰で高みの見物してた兄ちゃんじゃないか?」
指をさしながら、ビックは驚いた。
サエモンは片方の眉をピクリ、と上げた。よく憶えていたものですね、というようにだ。
「ええ、そうです」
サエモンが認めると、「だろ~!」と誇らしげに声を張り上げた。
声を張り上げてしまってから、ビックはアッと口をつぐんだ。こんな小奇麗な場所で、声を張り上げるものではなかった、という様子だ。
サエモンは手をあげた。しばらくして、女性の店員がやってきた。女性店員にコーヒーを三つ注文して、サエモンは改めてビックに向き直る。
「今回あなたを呼んだのは、ジェボーダンの獣事件のような、あの事件の話を訊きたかったからです」
ビックは顔を曇らせた。
「ジェ? なんだって?」
「ジェボーダンです。18世紀のフランス・ジェヴォーダン地方に出現した、オオカミに似た生物。1764年から1767年にかけマルジュリド山地周辺に現れ、60人から100人の人間を襲った。獣がなにであったかは、現在も議論されている。
謎の怪物です。その怪物に襲われた被害者はズタズタにされていた、という事件ですよ」
無駄のない完璧な説明をサエモンがすると、「へ~」とまったく頭に入っていない、というようにビックは相づちをうった。
「で、あなたが見たという、人を襲っていた獣の話を教えて欲しいのです」
貧乏ゆすりをしながら、ビックはいう。
「あのよ。俺が話すことなんて参考にならないぜ」
「それでもいいのです。参考になるかならないかを判断するのは、私ですから」
ビックの顔が険しくなった。
(なんだ、このきざ兄ちゃんは)と心の中で毒づいた。しばらく押し黙っていたビックは大きなため息をついて、意を決する。
「わかったよ。俺の知ってことなら何でも答えるから、訊いてくれ」
サエモンはプヴィールとアイコンタクトを取り、ビックを見た。
「では、その事件を目撃したときの話を教えてください」
「あれはぁ~」
間延びした声を出しながら、ビックは天を仰ぐ。
「あ、そうだ、そうだ。あれは配送の仕事が終わった帰り道だった。辺りは薄暗くてよ。ああいうの何てぇの?」
「黄昏時ですか」
パン、とビックは手をたたき、「そう、その黄昏時だ」と興奮気味に返した。
「それでよ。兄ちゃんたちがいた、長い草が生い茂るあの一本道の草むらで……獣のような何かがもぞもぞと動いていたんだよ……」
「どれくらい離れていたんですか?」
そこでサエモンは口をはさんだ。
ん? というようにビックあ首をかしげた。
「どれくらい離れていたって、どういうことだよ?」
「距離です。何メートル離れていたか?」
「そんなのわかんねえよ」
サエモンは手であごを触りながら、しばらく考え込んだ。
ふと顔を上げ、「黄昏時は数メートル先も見えないほどの暗さです。ここは十五メートルほどにしておきましょう」と提示した。
「まあ、それくらいだな」
「では、続けてください」
「で、辺りに肉片が転がっているから、俺は動転して――」
ビックが数語、話しただけで、またサエモンがさえぎった。話しを中断されたことが気に食わなかったのか、ビックは顔を歪ませた。
「ちょっと待ってください。あそこは長草が生えていましたよね。だったらどうして、肉片が転がっていたことがわかったのですか?」
ビックの顔色が仮面を付け替えたかのように、パッと変わった。歪んでいた顔が無表情になり、じょじょに白くなった。
やはりウイックが何かを疑っていたように、このビックという黒人は何かを隠している。サエモンはビックの顔色が変わるや否や、追撃をかけた。
「普通は長草が生い茂っていたら、地面に落ちた肉片なんて見えるはずありませんよね? まあ、あなたが犯人なら話はべつですがぁ」
「違う!」
ビックはテーブルに両手をつき、立ち上がった。
店内にいる若い女性たちは、みな驚いた顔でビックを目視した。
「お客様に迷惑です。座ってください」
サエモンは平坦で重い、命令口調でいった。
ビックは店内を見渡した。女性たちは、一斉に眼をそらした。
「俺は犯人じゃない……本当だ……」
声を潜めながら、一生懸命にビックは弁明した。
「べつにあなたを疑ってかかっているわけではありません。ちゃんと、話に筋が通っていればですが。疑われたくなかったら、本当のことを話てください」
ビックは下唇を強くかんだ、厚い唇は白っぽくなり、歯形がついた。深呼吸して、ビックは気持ちの昂りを抑える。
「は~……わかったよ……俺が犯人だと疑われたんじゃかなわないからな……」
そのとき注文を取りに来た、女性店員がトレイにコーヒーカップを三つ載せてやってきた。物珍しそうな目で、サエモンたち三人を一瞥してくる。
むさくるしい男三人が渋い顔を向かい合わせて、深刻そうに話し合っているのが珍しいのだろう。サエモンが女性店員と視線をあわせると、慌てて彼女は目をそらし、去って行った。
コーヒーから湧き出る白い蒸気が、緊張の糸を緩めた。天に消えゆく蒸気を眺めながら、ビックは語る。事の真相を――。