case73 プヴィールとビック
カランカランととびらの開く音がした。
マスターは犬のように音に反応し、「いらっしゃい」といった。そのマスターは本当に犬、それも頬はダルんとたれ下がり、仏頂面のブルドックのような顔をしているのだ。
酒の臭いと、男たちの酸っぱい体臭がないまぜになり異質な空気を生み出している。プヴィールは一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに気持ちを取り直し店内をくまなく見渡した。
するとカウンターテーブルに見覚えのある、後ろ姿を見つけた。がっしりとした背中は巨岩を思わせるほどに、びくともしない。
なんの酒かは知らないが、グラスに入った琥珀色の液体をチビチビ舐めている。哀愁漂う背中だと思った。
プヴィールはやっと見つけた安堵感から、顔をほころばせその哀愁漂う背中に歩み寄った。男の肩をポンポンと、たたく。男はみじんも驚くことなく、冬眠中の熊のようにゆっくりと振り返った。
少し酔いの回ったダルん、とした寝ぼけまなこでプヴィールを見返す男。やっぱり、捜していた黒人男だ。
プヴィールは嬉しくなって、「よう! 元気にしてたか」と興奮気味な声をだした。
一瞬黒人男は〈こいつ誰だ?〉というような顔をしたが、しばらく考えるようにプヴィールの顔を見つめて、あっと思い出した。
「ああ、いつもの兄ちゃんかよ。ひさしぶりだな。まあ、となりに座りなよ。一緒に飲もうぜ」
そういって黒人男はとなりに置いていた革ジャンを、取り去りポンポンと席のほこりを払った。
「ああ、ありがとう」
プヴィールは黒人男が作ってくれた、カウンター席に腰を下した。ギギギーという耳障りな音を発したが、体勢が安定するとすぐに止んだ。
「で、こんな真っ昼間から、酒場なんかきてどうしたよ。なんかあったのか?」
「あ、いや、そういうんじゃないんだ」
プヴィールが口ごもりながらいったとき、「お客さん注文なんにする?」とブルドック顔のマスターが注文を訊いた。
「水で頼むよ」
マスターはあっけに取られた顔をした。
「本当に水でいいのかい?」
「ああ、まだ仕事中だから、水でいいよ。あ、それとちょっとつまめる物をもらおうかな」
「あいよ」
注文を訊くや否や、マスターは速やかに水をくみ、背後の棚を開いてピーナッツやアーモンドなどがミックスされた、ナッツ類の缶を開けて皿に盛った。
注文を聞いてわずか二十秒ほどの早業だった。
「あいよ」
滑らすようにして、マスターはナッツの入った皿と、水をテーブルに置いた。無言でプヴィールは水と皿を受け取った。
「仕事中なのかよ?」
「ああ、そうだよ」
そう言いながら、プヴィールはナッツをつまんだ。アーモンドをかみ砕くと、香ばしい香りが鼻から抜けた。
「仕事中にこんなところに来ていいのかよ? ばれたら叱られるぞ」
「ここに来るのも仕事の内なんだよ」
そうつぶやいて、今度はカシューナッツをつまんだ。アーモンドよりも柔らかく、甘い。
「はは! ここに来るもの仕事って、どんな仕事だよ。真面目そうな顔して兄ちゃん案外ワルだね~」
おかしそうに黒人男はケタケタ笑った。本当に仕事なんだけどな、横目に黒人男を見ながら心の中でつぶやいた。そう、プヴィールが酒場にやって来たのは、本当に仕事でだ。
ズタズタ殺人事件の事情を訊くため、何かしら知っているであろう、黒人男を署に連れ帰るのが今回プヴィールに言い渡された使命だった。
どう話を切り出そうか、プヴィールはピーナッツ、アーモンド、カシューナッツを順番につまみながら考える。
「あんたも食べるかい?」
ナッツの入った皿を黒人男のもとに滑らせた。お! と驚いた顔を一瞬みせたが、すぐにほころばせ、人懐っこい笑みを浮かべた。
「おう、ありがとよ」
二人はポリポリ、リスのようにナッツを無言で咀嚼した。ナッツで乾いた口内を、水で潤してからプヴィールは切り出す。
「そういえば、結構顔を合わせてるけど、あんたの名前を訊いてなかったな」
「ああ、そういゃあ、そうだったな。俺も兄ちゃんの名前を知らないや」
人に名前を訊くのなら、先に名乗るのが騎士の精神。
「僕はプヴィールっていうんだ。プヴィール・ライト。プヴィールなんて変な名前だろ」
「いや、そんなことないぜ。プヴィールなんて中世騎士物語に出てきそうな名前じゃねえか。カッコイイと俺は思うよ」
お世辞だと分かっていても、名前を褒められるのは悪い気はしない。自分ではそれほど、プヴィールという名前は好きではなかったからだ。
「俺はビックっていうんだ。ビック・リフト。――ビックじゃなくて、ビッグにして欲しかったよまったくよ。ビッグは大きいのビッグな」
たしかに微妙なニュアンスの違いだけど、この男はビッグという名前の方が似合うかもしれない。男の体格がそう思わせるのだろう。
プヴィールは一度大きく息を吸って、決意を決めた。
「前にズタズタに切り裂かれた遺体の話を教えてくれただろ?」
横目でビックをうかがいながら、プヴィールは切り出した。
ビックは急になんだ、というように呆けた顔をして取り直した。
「ああ、急にどうしたんだよ。辛気臭せぇ話になるぜ」
茶化すようにいったが、プヴィールの眼を見た瞬間、ビックは表情を消して真顔になった。
「ああ、あのズタズタ死体だろ」
そういってビックはプヴィールに顔を近づけた。
「実はよ……。あの話をしてから、また、ズタズタ死体が出たんだよ……」
でかい図体からは考えられないほど、繊細な低い声でビックはつぶやいた。
「ああ、知ってるよ。実はな。僕はその事件のことで、ビックさんに訊きたいことがあって、ここに来たんだ」
ビックにつられてプヴィールもささやくように、いった。
驚きを隠せない様子でビックは、「てことは、プヴィールは刑事さんかい?」といつから呼び捨てになったかはさておき、どう答えようか考えた。
「まあ、似たようなものだな。だから、そのズタズタ死体の話を詳しく教えて欲しいんだ」
プヴィールが警察関係の人間だと気づいた途端に、ビックの顔色が曇った。プヴィールもMI5の端くれとして、それなりの観察眼を持っていた。些細なビック動揺を見逃さない。
サエモンさんが睨んだ通り、このビックという男は何かを隠している。プヴィールはそう確信した。
「前にプヴィールに話した以外は、何も知らないぜ……」
あきらかにビックの声は隠し事をしている者の声だった。人の眼を真正面から見て話すビックが、眼を合わせようとしないのだから、プヴィールじゃなくても嘘だとわかる。
「お願いだ。知ってることがあるなら、話してくれ」
真摯にいった。
ビックは苦々しい眼つきで、プヴィールを一瞥した。
「たく、わかったよ……わかった……。色々話が大きくなってきたな。ここまで話が大きくなるとは思ってなかったぜ……」
「それじゃあ、話してくれるんだな?」
しかたない、というようにビックは了承した。プヴィールは心の中でガッツポーズをした。これでサエモンさんに褒めてもらえる! と。
「他にもその話を聞かせたい人がいるから、静かな場所に移ってもいいかな?」
ビックは怪訝に顔をしかめたが、「しゃあぁねえな」と立ち上がった。
尻ポケットから、札を握りしめてカウンターの上に置いた。
「マスター、つりはいらねぇ、取っときな」
そう決めて立ち去ろうとしたとき、「ちょっと待ってくれ」とマスターが呼び止めた。
「だから、つりはいらねぇ、って言ってるだろ」
何言ってんだこいつ、という呆れた眼をしてマスターはいった。
「これじゃあ、全然足りないんだよ」
マスターのその言葉を聞いて、ビックは尻ポケットをまさぐり、ひっくり返した。しかし、塵一つでやしない。
「僕が払います」
ビックの代わりに、プヴィールがお金をだした。これくらい情報を訊けることから比べたら、安いものだ。
今度こそ本当に、その場をあとにした――。