case72 心の踏ん切り
つないだ手が小刻みに震え、汗ばんでいる。指先は冷たくなり、不安が伝わってくる。サイは怯えていた。よほど勇気のいったことだろう。
キクナにも昔はそうだった。ジャップと言われるのが嫌で、学校に行きたくなかった。自分と同じくらいの子供たちに会いたくなかったものだ。
大人はまだ思っていることでも正直には口に出さないから、まだ傷つかなくて済むのだが、子供は正直で口に思ったことをすぐにいう。
だから、小さいときは日系人というだけで、いじめられた。わたしがいじめられていると、お兄ちゃんが助けてくれたのだ。
〈こんど、俺の妹に手ぇだしたら、おまえをブタ箱にぶち込んでやるからな!〉
とお兄ちゃんは生まれ持っての鋭い目で、相手を睨むと睨まれた相手は、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。
そしていじめっ子を逆に泣かせてしまって、お兄ちゃんが起こられることがしばしばだった。
だからキクナはサイの気持ちがよくわかった。どれだけサイは恐怖と葛藤しているのかも、痛いくらいにわかる。自分まで胃が痛くなるほどに、キクナは左手でお腹をさすった。
「サイくん」
キクナはとなりを歩く、サイを見た。
サイはこわばった顔で、ぎこちなくキクナを見上げた。
「なに……?」
声も震えていた。
「嫌だったら、無理しなくていいんだよ。焦ることはないんだから。ゆっくり慣れていけばいいのよ」
やさしい余韻が残るように、キクナは意識していった。
こわばった首をぎこちなく、振りながら、「いや、大丈夫だよ……」と怯えながらも敵に立ち向かう、バンビのような目でサイはハッキリ答えた。
「そう」
この子は小さいときのわたしなんかより、何倍も強い子だ。とキクナは思った。
教会のとびらの前に立った。サイの鼓動が手のひらに伝わり、ふるえた。横目でサイを一瞥して、キクナは決意を決めた。聖堂のシックなとびらが開いた。
中には二十人くらいの子供たちが、ローブに身を包み集まっていた。子供たちは一斉にとびらに向き直った。
「あ、みなさん、おねえさんがきましたよ」
あのときの男の子が、キクナに気付くと手のひらを掲げみなを黙らせた。これほど集まってくれるとは、キクナも思っていなかった。
「ありがとう、みんな……わたしのためにこんなに集まってくれるとは思わなかった」
感極まり、涙が出そうになるのを何とか堪えながらキクナはいった。
「遠いところからわざわざ来てくれたのですから、おもてなしするのは当然のことですよ」
なんてできた子なのかしら。こんなにできた子がいるなんて。
そこでふと、少年は顔を伏せているサイに気が付き、小首をかしげた。
「きみは、たしかサイくんでしたね」
サイはびくりと肩を弾ませ、後下がりした。
「うん……」
がくがくとサイは怯えている。少年はサイの真正面まで歩み出た。そして、手のひらを差し出した。
「サイくんもおねいさんと一緒にいいていきなさい」
サイは差し出された手のひらを見ながら、顔をゆっくり上げた。
少年はやさしく微笑んでいた。思っていた対応と違うことにサイは驚いた。何か酷いことを言われると思っていたけど、そうではなかった。
「ぼく、中国人だよ……?」
サイは口走っていた。
少年は首をかしげ、意味がわからない、という顔で振り返り背後のみなをみた。背後の子供たちも肩をすくめ、あっけに取られた表情をしていた。
「それがどうしたんですか?」
返す言葉が見つからないようで、サイはあたふたと戸惑っている。しばらくしてから、つっかえ、つっかえ、言葉をついた。
「だって、みんなは……ぼくをチョンキーだって、いじわるするよ……?」
すると少年は驚きに顔を歪め、ゆっくり戻した。
「小さい子たちですね……まったく困ったものですね。サイくんもそんなことを気にしては駄目ですよ。小さい子はおもしろがって、そういうことを言うでしょうが。
それをいちいち真に受けて、傷つくのは馬鹿らしいです。サイくんが反応してくれるから、その子たちは余計におもしろがっていじわるをいうのですから」
そこまで指をクルクル回しながらまくしたてて、サイの目線までかがんだ。そしてサイの肩をやさしく包み込み、強い意志の宿る目で見つめる。
サイは怯えながらも、少年の眼を見つめ返す。
「だから、そういうことは気にしてはなりません。深く考えすぎてはなりません。その子たちは何気なく言ったことで、傷つくのは馬鹿らしいですよ」
そこまでいって、少年は立ち上がった。
「もし、そんな人を貶めるようなことを言う子がいれば、僕に任せてください。ちょっと懲らしめてやりますから」
そういって少年は自分の胸をポンっとたたいた。
「それでは、バスの時間も迫ってきていることですから、おねいさんに最高の別れの挨拶を!」
少年の一言を合図にしたかのように、祭壇に並んでいた子供たちが歌い出した。
〈主われを愛す〉や〈いつくしみ深き〉などの詩を子供たちは流れるように、歌う。魂を浄化するような、透き通る声が聖堂内にこだました。
パイプオルガンの音と少年少女の声が素晴らしい、ハーモニーを奏でた。何年ぶりだろう、讃美歌など聴くのは。キクナはとても懐かしい気持ちにかられた。
家族みんなで、最後に教会を訪れたのはもう八年以上前のことになるだろう。母が生きているときは、家族みんなで教会に行ったものだが、亡くなってからは、一度としてなくなった。
ふとキクマの顔や父の顔が頭に浮かんでは消えていった、昔の思い出が次から次へと湧いては消えを繰り返し、自分の頬を温かいものが伝い落ちた。
自分は泣いているんだ、キクナは気付いた。讃美歌聴いたら感極まるだろうな、とは思っていたけど、まさか本当に泣くとは思わなかった。
父はいまどうしているのだろうか。キクナは五年前飛び出した切り、一度も出会っていない、父のことを思った。父さんに会いたいな……という気持ちが黙々と湧きあがり、胸が苦しくなった。
思えば、何も言わずに勝手に飛び出して、どれだけ父を心配させただろう……。無口な人だけど、片意地な人だけど、ちゃんと説明していれば、父も無理に結婚させようとなんてきっとしなかっただろう……。
それなのに……それなのに……わたしは勝手に家を飛び出して……。考えれば考えるほど、キクナは父への罪の意識にさいなまれた。
その罪の意識を少年少女の歌声が、やさしく癒す。
近いうちに、一度父に会いに行こう! そして謝ろう。キクナはそう思った。讃美歌がすべて終わったときには、涙で顔がぐちゃぐちゃになっていた。
「みんな、ありがとう」
キクナは本当に心の底から、そう思った。心の踏ん切りをつけてくれた、子供たちに感謝した。
そして、シスターベタニアや子供たちに見送られながら、キクナは街への帰宅路についた。あの子供たちを見つけて、すべて終わったら、父に謝りに帰ろう。
泣いたからなのか、キクナの心は澄み渡る青空のように晴れ渡っていた。