case71 サイくんの決意
そのとき裏手の方から踵を踏み鳴らすような音が聴こえたと思うと、厨房の出入り口が開いた。キクナとサイはその人物の方に向き直った。
「いや~、いい話を聞かせてもらったぜ」
といって巨漢の男が全身をあらわした。キクナは一瞬ビクッとした。その男があまりに大柄で、豪胆なしゃべり方をするからだ。
服の露出部からのぞく肌は黒く、黒人であることがわかった。こんな人マリリア教会にいたかな?
「ほらよ。俺も黒ん坊って言われてきたから、坊主とお嬢さんの気持ちがよ~くわかるんだよ」
男は腕を組んで、うんうん、とうなずいた。
「坊主、お嬢さんの言う通りだぜ。得体が知れないから恐れられるんだ。だから坊主のことをみんなに知ってもらえれば、中国人だって気味わるがられるこたぁ~え。
俺はおしゃべりで明るい方だから、みんな結構愛想よくせっしてくれるがな」
キクナは男の圧に気おされ、「はあ~……」としか答えられなかった。
そこで男はふと思い出したように、「ところでよ。おやじさんはどこに行ったんだ?」と訊いた。
「おやじさん? っていうと……?」
「おやじさんだよ。ユーゴのおやじ」
ユーゴって誰だろう? キクナは該当する人物を思い描いてみたけど、そんな名前の人聞いたことがない。
「ごめんなさい……わたし昨日ここに来たばかりで、まだみんなの名前を知らないんです」
するとそうなのか、という風に男は眼を細めた。
「シスター見習いなのか?」
「あ、いえ、ちょっと用事がありまして、ここに訪ねてきたんです。次に来るバスで帰る予定です。――あなたは?」
「あ、俺か、俺はビックっていう名の、しがない運搬業者さ」
「ああ、そうだったんですか」
「おうよ。食料と衣類を持ってきたんだけど、おやじがいないんじゃしゃあねえな。シスターのねえちゃんにわたすしかねえ。シスターのねえちゃんはどこにいるんだ?」
「シスターヨハンナとスザンナは街に出ていきました。シスターベタニアなら、教会のどこかにいると思いますけど」
曖昧に答えながら、キクナは肩をすくめた。
「そうか。まあ、厨房の裏口に積み上げていれば、気付いてくれるだろう」
仕方ないな、というようにビックはお手上げと手をあげて、肩をすくめた。
「もしよければ、シスターベタニアを捜してきましょうか?」
「あ、いいのか?」
「はい、たぶん学舎で子供たちに、勉強を教えていると思いますから」
「それじゃあ頼むよ」
キクナは庭を通り、外廊下を伝って学舎に向かった。学舎のとびらを開けると、本を片手にブラックボードの前に立ち、熱弁しているベタニアがいた。
ベタニアはとびらの方に向き、キクナを見た。
授業を受けていた低学年の子供たちも、一斉にキクナを見た。
「どうされました?」
ベタニアは小首をかしげた。
「あ、えっと、ビックっていう人が来てるんです。コックさんは買い出しに出てて、今誰もいないから」
ああ、という風にシスターベタニアはうなずき、「わかりました。今向かいます」と持っていた本を閉じ、教壇の上に置いた。
「あなた達、すぐに戻ってきますから、おとなしく待っていてください」
子供たちはソワソワといたずらっぽく、「は~い!」と元気に返事をした。
ベタニアを連れ食堂に戻る。食堂に戻ってくると、サイとビックは話に花を咲かせていた。坊主も苦労が多いな、とか、おっちゃんも今まで大変だったね、とか、いつの間にか意気投合している。
「ビックさん」
話に夢中になりすぎて、ビックはベタニアが来たことに気付かなかった。
キクナがビックの名前を呼んではじめて、「お、おお、すまねえ、つい話し込んじまった」と人懐っこい笑みを浮かべた。
「ビックさんいつもありがとうございます」
ベタニアは手のひらを膝上で合わせ、綺麗に頭を下げた。ベールが重力に沿って、流れ落ち今まで見えなかった亜麻色の髪が見えた。
「そこまでかしこまらなくて、いいって……」
ビックは困惑気味に両手をあたふたさせながら、「頭を上げてくれ」といった。
シスターベタニアはゆっくりと、何も焦ることではないのですよ、という風に顔を上げた。
「それじゃあ、ここにサインしてくれ」
とビックは懐をまさぐり、紙とペンを取り出す。
「サインを受け取らないと、親方に叱られるんだよな。悪いけど頼むわ」
「わかりました」
そういってベタニアはペンと紙を受け取り、長テーブルの上で書いた。とても綺麗な字だと思った。
「サンキュー」
ビックは紙を受け取り、「それじゃあ、俺は失礼させてもらうよ」と再び裏口から出ていったのだ。
ビックがいなくなってから、ベタニアはサイに向き直った。
「サイくん、みんなとはうまくいってますか?」
サイの瞳を見つめながら、やさしく訊いた。
サイはベタニアから眼をそらした。
「ゆっくりで良いのです。焦らずとも」
ベタニアは優しく眼を細めた。
「いま子供たちに勉強を教えていますが、サイくんも一緒にきてやりますか?」
サイは眼をそらしたまま、首を振った。
ベタニアは少し悲しい目をして、「そうですか、気が向いたらいつでも来なさい」と学舎に戻って行った。
そこでふとキクナは引っ掛かりを覚えた。しばらく歯に物が挟まったときのようなじれったい気持ちになり、思い出した。
「あ!」
キクナは声をあげた。忘れていた……。聖歌隊の子供たちと約束した時間をとうに過ぎてしまっているのだ。
キクナが急に叫んだので、サイは眼を白黒させながら、「ど、どうしたの……?」と怯え切っていた。
「あ……ごめんなさい……。急に叫んじゃって。実はね。聖歌隊の子供たちが讃美歌を聴かせてくれるって、いってたの。その約束の時間を忘れちゃってて」
苦笑いを浮かべながらキクナは笑うしかなかった。
「サイくんも一緒に聴きに行く?」
サイは戸惑いの色を浮かべた。どうしようか、迷っている目だ。
無理やり連れて行くことはよくないよな~、と思いながらも、こういう子には何か変わるきっかけを与えてあげないと、ダメだよね、という気もした。
少しくらい強引に連れ出した方がいいのだろうか? いや、でも強引に連れ出すことは反発を招くだけだし……と心中していると、サイの瞳に決意の色が浮かぶのを見た。
「ぼ、ぼくも聴きに行くよ」
サイくんにしたら、とても勇気のいったことだろう。
キクナはサイを抱きしめたい気持ちにかられた。こういうのを母性本能というのだろうな、と思った――。