file09 『ドンクの子供』
そんな、女に私は訊いた。
「どうして、いつも謝るの?」と。
女は涙でぬらした、顔のままこう答えた。
「それはこんな、家にあなたを産んでしまったからよ」
幼い私には女の言っている、意味が理解できなかった。私は続けて訊いた。
「どうして、ぼくを産んだの?」
すると、女はビクリと体を震わせた。
寒いのだろうか、怖いのだろうか、悲しいのだろうか、女のふるえは納まることなく続いた。
私はそんな、女をいつも見ていた。いつも、いつも、見ていた。いつも震えている、女の姿しか、私は憶えていない。私はそんな、女が嫌いだった。
バートンとキクマがキプスの家を離れたころには、太陽の光が傾きかけ、昼を過ぎた時間だった。バートンはもう一度改めて、腕時計で時間を確かめた。短い針がⅢの数字を指している。
妻から送られたは時計は、正確で一分たりとも狂っていない。決して値段が張るわけではないだろうが、使い勝手がよく、何より丈夫なところが気に入っている。
「昼飯食ってないな」
キクマが出っ張った腹をさすりながら、いった。
驚くほど、太っているわけではないが、痩せているわけでもない。痩せているか、と訊かれれば、誰もが言いよどむほどにはキクマは小太りだ。
これでも若いころは痩せていたのだろうが、中年太り、というやつだろう。こんな、マフィアのボスのような風体でも、歳にはかなわないのだ。
いや、考えてみれば、マフィアのボスはみんな太っているのではないか、太っていないボスなど貫禄がないから。
それを思えば、キクマは痩せているより、太っている方がキクマ警部なのかもしれない。痩せているキクマの想像がつかなかった。
と、考えてから、言われてみれば、朝から何も食べていないないことを振り返った。意識しだすと、自分が空腹なのだと分かった。キクマも同じなのだろう。
しかし、この村に食堂などあるとは思えない。
すると、バートンの腹がなった。体の芯から、鈍い痛みがバートンの腹を締めつける。二人は空腹の腹を抱えながら、村を歩き続けた。
*
村をひたすら歩いていると、レトロ調の家の前に子供が座り込んでいるのが見えた。足を組み膝を曲げ、三角の形で座っている。
顔を膝に押し付けるようにしているせいで、顔までは見えない。服は白い下地にオーバーオールを着ていて、ゆったりとした感じだ。髪の毛は長く、多分、女の子なのだろう、とバートンは勝手に予想する。
近づくにつれ子供の背中が、しゃくりあげるように上下しているのが分かった。さらに、近寄ってみると、子供は泣いていることが明確になる。バートンは子供に近づき、しゃべりかけた。
「君、どうしたんだい? お母さんに叱られたのか」
子供はビクリ、と小動物のように体を震わせて、顔をゆっくりと上げた。目は真っ赤に純血して、腫れあがっている。顔は赤く、涙で長い髪が頬に貼り付き、濡れていた。
そうとう泣いたのだろう。顔はむくみ。もう涙は出ていないが、涙が伝った頬にはさっきまで顔をくっつけていた、オーバーオールの糸くずが線をなしてついていた。
年のころは一桁だいだろう。女の子は大きく息を吸い、しゃっくりのように息を飲んだ。そして、首を大きく振って見せる。
「じゃあ、どうしたんだい、そんなに泣いて」
バートンは優しく、女の子に訊き返した。子供の扱いには慣れている。バートンは我が子の顔を思い浮かべて、思った。すると、女の子の目に再び涙が浮いた。大粒になった涙は自然に流れ落ち、キラリと光る。
「お、お父ざんが……お父ざんが……」
過呼吸がひどく、言葉にならない。しかし、必死に女の子はバートンに何かを伝えようとする。バートンは急かさず、女の子が落ち着くまで待った。
その間も腹の虫が鳴り、威厳などあったものではなかったが、腹の音を聴いて、女の子は少し落ち着いた様子だった。深呼吸を二、三回していう。
「お、父さんが……し、死んじゃったのッ」
言葉に詰まりながらも、言葉を綴る女の子。
「死んだ……? もしかして君は……ラッセルいや、ドンクさんの子供かい?」
バートンは恐る恐る、女の子に問うた。
長い下まつ毛に溜まった、涙を服の袖でぬぐって女の子はうなずいた。
「うんっ、私、はっイスカ」
イスカという少女な、制御できない声をしゃくり上げながら、答えた。バートンはこの少女がどうしようもなく、哀れに思えた。哀れに思うこと自体、失礼なことかもしれないが、こんな、幼い子供の心には重すぎる事件だ。
こんなに幼いのに、父親をあんな惨い事件で、殺されてしまったのだから。この、小さな心にどれほどの傷を負っただろうか。一生消えることのない傷を、負ったのだから。
バートンは自分の子供の顔が頭に浮かんだ。お父さんより、お母さん派の子供たちだが、仕事から帰ると玄関まで出迎えてくれる。
そんな、他愛無い一瞬が抱きしめたくなるほど、愛おしく思うのだ。
「おじさんにも、君と同じぐらいの年頃の男の子と女の子が二人いるんだよ。ふたりとも、やんちゃな年ごろで、毎日大変なんだ」
バートンはイスカの目の高さになるようにしゃがんで、微笑んで見せた。ぎこちない微笑みだっただろうか。自然な笑顔を作ることほど難しいことは、ないと思う。
顔が引きつり上手く笑顔にならない。なぜなら、バートンの心の中では沸々と怒りがこみあげてきているから。子供から親を奪った、犯人を許すわけにはいかない。
そのことを思いながら固く、固く自分に言い聞かせた。そのときだ、バートンの腹の虫が鳴った。込み上げる怒りと同調するようにバートンの腹の虫も怒っていた。
「おじさんっ、お腹がっ、空いてるの……?」
バートンは顔を赤らめ、情けない気持ちになる。穴があったら入りたい……。そして、また腹の虫が鳴る。体は正直だバートンの心など知る由もない。
バートンはうなずきながら、「ああ、今朝から何も食べてなくてね……」と、腹を抱え込みながらいった。真正面からイスカの顔を直視できない。
「っパン、ならあるよ、食べるっ……?」
イスカは立ち上がり、バートンにいった。
子供から食べ物を恵んでもらうのは気が引け、断ろうとしたときに、また腹がなった。これでは面目丸つぶれである。仕方なくイスカの言葉に甘えさせてもらうことにした。
「じゃあ、食べ物を恵んでもらおうかな……できれば二人分お願いします……」
苦笑を浮かべ、バートンはいった。イスカは家の中に入るようにうながす。親の許可もなく家に上がるのに抵抗がある。
しかし、イスカはとびらを抑えて待っている。
あらがうことはできず、バートンはラッセル家にお邪魔した。キクマ警部も入っていいとのことでバートンの後に続いて入る。
イスカは台所に消えしばらくすると、食器を鳴らす音が居間に響いた。数分後、イスカは白い蒸気の立つ皿とパンを銀メッキでコーティングされたトレイに乗せて現れた。
「テーブルについてくださいっ」
イスカはしゃくりの治りかかった声で、二人にいった。
バートンとキクマは言われるがまま、着席する。蒸気が立つ皿の中身はスープだった。少し時間がかかっていたのはスープを温めていたからだろう。スープとパンを二人の前に置く。
「ありがとう」
と、二人はイスカにお礼をいった。
続けざまにスプーンを手渡され、「召し上がれ」と、イスカはいった。
その、行動には無駄がない。いつも、料理を並べるのはイスカの仕事なのだろうか。たぶん、そうなのだろう。そう思えるほどに、イスカの動きに無駄がなかった。
二人はイスカの言葉に甘え、簡単な祈りを捧げる。
そして、スープに口を付けようとしたとき、とびらが開いた――。