case70 将来の夢
食堂の中では、自分の鼓動と呼吸音しか聞こえなくて、絶対的に流れる時間から置いて行かれたような物悲しい気持ちになった。とても静かなのに、心は不安でざわめいている。
そんな空間に一人の男の子が取り残されている。その男の子は黙々と木を彫っていた。キクナは、「何してるの?」と男の子に訊いた。
木を彫るのに熱中していて、男の子はなかなか気付いてくれなかったけど、しばらく粘っていると、となりに立つキクナにハッと気づいてくれた。男の子は戸惑いと不安を帯びた瞳で、キクナを見た。
「あ、ごめん。驚かせちゃった。心配しなくても大丈夫、全然怪しい人間じゃないから」
と眉を凛々しくして、キクナは親指を立てた。自分から怪しくない、という人間ほど怪しい、という目をして少年はキクナを見た。
「何を彫ってたの?」
男の子が両手で包み込むように持っている、木を指さして訊いた。キクナの指先を追いながら、男の子は自分の手元をみた。
「木を彫ってるんだよ」
「うん、何を彫ってるの?」
「何だと思う?」
改めて少年の手元を見た。まだ荒削りで、大雑把にしかわからない。全体の雰囲気から言って、人の姿のように見えた。
「人かしら?」
「人だよ」
「誰を彫っているの?」
「誰だと思う?」
またか、けれどこの子は会話を楽しんでるんだな、と理解しキクナは頭を捻った。
いまはじめて出会ったばかりの男の子が、誰を彫っているのかなどわかりようがないが、キクナは自分が名探偵になった気持ちで推理してみる。
一番考えられる可能性として、友達とか、だけどわざわざ訊くくらいだから、そんなわかりやすい答えじゃないだろうな~、と深読みする。
「ごめんなさい……。わからないわ。誰なの?」
しばらく考えあぐねた結果、自分には名探偵の素質がないことを知った。べつに探偵になりたいとは思わないけど。だって、死体とか観るの絶対無理だもん、と早々に諦めて訊く。
「母さんだよ」
それを聞いてキクナは悪いことを訊いてしまった気がした。だって……ここって、あれだから……。
「あ、そうなんだ」
必死に笑顔を作ろうとしたが、どうしても引きつったような笑顔になってしまう。
そのことを悟ったのだろう、男の子は、「マリリア教会にいるのに、変だと思ったでしょ?」と首をかたむけた。
「あ、いや」
と否定しようと思ったけど、そうすれば嘘になってしまう、と思いなおし、「ええ、そう思ったわ」と認めた。
「お母さんはどうしたの?」
訊くか訊くまいか迷ったけど、気付けば口をついて出ていた。
「ぼくが三歳のときに死んじゃったんだって……。それでここに引き取られたって、シスターベタニアが教えてくれた。『決してあなたを捨てたわけじゃない』って」
「そうなのね……」
こういうとき、どう言葉をかけてあげればいいのだろうか……? こういうとき、どんな言葉をかけてあげられるのだろうか……?
こういうとき、ジョンならどう答えるのだろうか……? キクナにはよくわからなかった……。
「顔を憶えていないから、どう彫ったらいいかいつもわからないんだ……」そういって男の子は、「ごめん、こんな話答えずらいよね」と気を利かせ話題を変えてくれた。
べつにそんなことないよ! と言いたかったけど、そう言えばうそになってしまうから、キクナは口をつぐんだ。
「おねえちゃん、名前なんてえの?」
「わたしの?」
キクナは自分の鼻頭を指さした。
男の子はコクリとうなずいた。
「わたしはキクナっていうの
「キクナ」
男の子は名前を口に含むように、小さくつぶやいた。
「きみは何て名前なの?」
「ぼくは、サイって言うんだ」
「サイくんね。サイくんは友達と遊ばないの?」
するとサイの顔が曇った。また何かまずいことを訊いちゃったのかな……? と不安になったけど、思い返してもべつにおかしなことを口走っていない。
「誰もぼくとなんて、遊んでくれないよ……」
「どうして……?」
サイの顔はさらに曇り、視線を落とした。
「ぼくがチョンキーだからだよ……」
憎々し気にサイはつぶやいた。
「チョンキーってどういう意味?」
そう訊くと、「中国人ってことだよ」と教えてくれた。
「中国人だから、みんなから気味悪がられるんだ……」
キクナにはサイの気持ちが痛いくらいわかった。チョンキーとは中国人に対する差別用語なのだ。自分も幼いころからジャップと忌み嫌われたから、サイの気持ちは痛いくらいにわかる……。
「こうして一人でいたら、よけに避けられるよ。人間はね。わからないから恐怖を覚えるの。
自分から、みんなとおしゃべりしてみて、みんなに自分はこんな人間なんだって知ってもらったら、避けられることなないと思うの」
サイの顔が少し歪み、キッと睨むようにキクナをみた。
「何も知らないキクナおねえさんに何がわかるって言うんだよ! 話したって無駄だよ。あいつらは、ぼくが中国人だってだけで、忌み嫌うんだから」
キクナは首をゆっくり振った。そんなことないよ、と。
「サイくんがそんなこといって、誰とも話そうとしないからみんなは、サイくんのことがわからなくて、怖がって近寄ろうとしないんじゃないかな」
キクナはそこで深呼吸した。
「わたしもね。日系人だからジャップ、ジャップで不条理に忌み嫌われたものよ。だけど、わたしはそんなの嫌だった。
わたしの何が嫌いで、わたしを避けるのって。だから、わたしを避ける人たちに、『どうしてわたしを避けるのよ』って訊いてやったの」
サイはキクナの話に聞き入った。それは木を彫っていたときみたいに、物凄い集中力で。
「どうなったの……?」
「するとね。誰もわたしの何が嫌いで避けているのか、答えられなかったんだよ。ただわたしが極東の日本人で得体の知れない人間だからって、だけで避けられていたの」
そこでキクナは顔をほころばせ、「だから、サイくんもみんなとまずはお話してみて、自分のことを知ってもらえば、避けられることはなくなると思うよ。サイくんは何が好きなの?」と小首をかしげながら訊いた。
サイは照れ臭そうに、「ぼくは木を触るのが好きなんだ。木で色々な物を作るのが好きなんだ」とはにかみながら答えた。
「じゃあ、将来は彫刻師か家具職人だね」
「家具職人?」
「そう、木を使って色々な物を作るの。彫刻師っていうのは、サイくんが今彫っている、そういう木彫り人形を作る人のこと」
サイは両手で握りしめている、彫刻をみた。
「ぼくは家具も作りながら、彫刻も作れる人になりたい」
「そう、それなら、そのことをみんなに話すのよ。そうすればみんなはサイくんのことを得体が知れないからって、避けることはなくなるわよ。
もしそれでも避ける人がいたら、そんな人とはかかわらない方がいいの」
サイは自分が彫った母の彫刻に指を這わせ、顔をあげた。
「そうだね。ぼく頑張ってみるよ。みんなと色々な話をして、ぼくのことを知ってもらう努力をするよ。
もしそれでもぼくを避ける人がいたら、その人とはかかわらない」
サイの眼に光が宿った。食堂の止まっていた時間が動き出したように、窓から光が差し込んだ。
「それで、将来ぼくは彫刻もできる、家具職人になるよ」
キクナは心から、サイが家具職人になれるように応援したいと思った――。