case68 悪夢
雨雲のような雲からのぞく空は赤黒く、おどろおどろしい色をしている。生温かい風が、嘆きの壁のような土色の壁面に吸い込まれた。
見える景色は歪んでいて、空気までもが黒い風となり具現化していた。こんな汚い空気を吸いたくない、と生理的に思っても吸わなければ死んでしまう。
彼が立っている地面に緑はなく、見渡す限り殺風景だった。
(どうして、こんなところにおれはいるのだろう……?)
彼は呆然とその場に立ち尽くし、目に見えるものすべてに怯えた。
みんなはどこに行ったんだ……? 彼はその赤黒い世界を歩きはじめた。しかしどこにも、誰もいない。どこまで行っても終わりは見えない。
それどころか、箱庭のように四方八方を壁に囲われているせいで、壁面をそって一周してしまっていた。
彼は途方に暮れしゃがみ込んだ。膝に顔をうずめ考えた。ここはいったい、どこなのだろう? みんなはどこに行ったのだろう……? 彼はチャップ、カノン、アノン、セレナ、ミロルのことを想う。
彼が顔を上げると、そこには人が立っていた。渦を巻くように歪んだ顔の人間だった。
「あら、ここにいたのね。勝手に出歩いちゃ駄目じゃない」
そのしゃべりかたからして、男ではないようだ。性別の識別できない人間が彼に手を差し伸べた。
彼はその差し伸べられた手をつかみ、立ち上がる。冷たくもない、温かくもない、感触すらない手に導かれながら彼はある建物の中に入った。
そこは教会だった。教会の鐘がゴーンゴーンと聖堂に響き渡っていた。
「さあ、行きましょう」
人間は彼の手を引き、教会の敷居をまたいだ。彼はあらがわずに、引かれるがまま教会の闇に吸い込まれた。
薄暗く薬品のような臭いがする長い廊下を進んで行くと、頑丈そうなとびらに閉ざされた部屋の一角に行きついた。
顔が渦巻のように識別できない人間が、そのとびらを開けると彼も共に中に入った。薬品の臭いがさらにきつくなる。袖で鼻を覆いたくなるほどだ。彼は嫌悪感に顔をしかめた。
その部屋には彼と同じほどの、年頃の子供たちが沢山いた。入ってきた彼を鋭い眼つきで睨む者。放心状態で角に座っている者。泣き叫ぶ者。
そんな子供たちを彼は眺めた。ここはどこだろう? どうしてこの子たちはこんなに冷たい目をしているんだろう、と。
彼はさらに奥へ闇深く連れていかれた。薬品の臭いがもっと、呼吸できないほどに強い。廊下は薄暗く、どんよりと歪んだ空気が充満している。
廊下の奥に明かりが見えた。そこはここなんかよりも、明るく白かった。彼は引かれるがまま、その部屋に向かった。その部屋には三人いた。三人とも顔が渦巻き、白衣を着た人間だ。
白衣を着た人間たちと、彼の手を引いている人間がなにか話しをはじめた。話しが終わると、「逃げ出したんだって」と男の声で白衣を着た人間がいった。
「そんな悪い子はちゃんとしつけなきゃいけないな」
そういって白衣を着た人間が彼の左手首を乱暴につかみ、ひやりと氷のように冷たい台に寝かしつけた。彼は暴れたけれど、白衣を着た人間の力はあまりに強くて、振り払うことはできなかった。
彼は激しく足をジタバタさせ、あらがった。しかしもう一人の白衣を着た人間が彼の足をつかみ、力ずくで押さえつけた。
まったく身動きの取れない状態になった。唯一動くのは首だけだった。彼が首を持ち上げると、注射針が目に付いた。二人の白衣を着た人間が彼を押さえつけ、最後の一人が彼の腕に針を刺そうと注射針から空気を抜いた。
透明な液体が空中に楕円を描き、飛んだ。彼は叫んだ。
*
「ああああああああああああああああああ!」
ニックはバタバタと手足を振り乱し、暴れた。
「おい! ニック! おいって! 起きろ! おい!」
チャップはニックをゆすった。そこでニックの意識が浮上した。バっとニックはシーツを跳ね除け、上半身を起こす。息があがり、笛のような声が出た。
「大丈夫かよ……? すごいうなされていたぜ……」
チャップは気づかわしげに、ニックにいう。うなされていた……チャップの言葉を聞き、自分が夢を見ていたことを悟った。あの夢はいったい何だったんだ……。
思い出そうとすると頭が締め付けられるように痛くなる。怪物のような顔のない人間たち。冷たい目をした子供たち。鐘の音が鳴り仕切る、聖堂……。
ニックは自分の額を触ってみた。脂汗をかいている。心臓がまだドクドクと脈打っていた。とてつもなく恐ろしい夢だった……。
「本当に大丈夫か……? 水飲むか?」
チャップは訊いた。
口の中は乾き切り、唾液がない。しばらく舌を動かしたが、唾液がでない。もつれる口で何とかニックは言葉をついた。
「持ってきてくれ……」
「わかった」
そういってチャップは暗い廊下に消えていく。
一瞬ニックはここがどこだかわからなかった。ここは教会だ。ニック達はタダイ神父に引き取られ、彼の教会に連れて来られたのだった。あれから一週間が経とうとしていた。
どうやらまだ夜中のようで、部屋の中はランプの橙色の淡い光だけが煌々と輝いていた。
「大丈夫か? すごいうなされてたぞ」
カノンが二段ベッドの上から顔だけを降ろし、ニックを見る。
「大丈夫だよ」
と言った彼の声はかすれ、聞き取れたものではなかった。
「怖い夢でも見たのか?」
彼は考える。あれは怖い夢だったのだろうか。
だけど思い出そうとすると嫌悪感と恐怖のような感情で背筋が寒くなる。注射を刺されそうになった腕をみてみた。
左前腕に右手の平を這わす。黒いシミのようなものがぽつぽつと付いているが、これといって異変はない。
「怖い夢……ああ、怖い夢だったんだな……きっと……」
ニックは曖昧に答えた。
そのときチャップがコップに水を入れて戻ってきた。彼はコップを受け取ると、いっきに飲み干した。冷たい水が、干上がった大地に吸い込まれていくように、ニックの口を潤した。
粘ついた唾液が水に押し流され、喉に落ちる。
空になったコップをチャップに手渡した。
「ちょっと落ち着いたか?」
チャップはコップを受け取りながら訊いた。
「ああ、落ち着いたよ」
心臓はまだ脈打っているが大分、落ち着いてきた。服の袖で額に浮かんだ脂汗をふき取った。
「そうか、よかった」
安心したようにチャップは肩をすぼませ、優しく微笑んだ。
「もう大丈夫か」
「ああ、もう大丈夫だよ」
チャップがしつこく訊いてくるので、ハッキリと答えてやる。大丈夫だよ、と。
「それならいいんだ。まだ夜中だ眠ろう」
そういってチャップはランプを絞る。
橙色の炎が弱まり、室内は薄暗くなった。
「怖い夢を見たそうだけど、眠れるか?」
チャップはまた彼に問うた。本当にこいつは仲間想いだな、と彼は嬉しく思いながら、「ああ、眠れるよ」と答えた。
「そうか」
チャップが眼を細めるのを見届けて、ランプが消えた。再びベッドに横になり、シーツを肩までかぶる。
今度こそ朝まで眠れますように、とニックは願いながら眠りに落ちた――。