case62 タダイ神父は
あの日以来、セレナとチャップは今までにないほどぎくしゃくしていた。チャップが話しかけても、「あ、そう……」だとか、「そうね……」としか答えなかった。
自分から話しかけることはない。
カノンは、いつも以上におちゃらけてみせるのだがそのことによって好転するということはなかった。
いつも元気なこの二人が不機嫌になってしまうと、皆はどうしてよいのかわからず、どんよりとした空気になった。二人の仲が戻るでもなく、ラッキーと約束した一週間がやってきた。
あれほど反対していたセレナは、おとなしくいうことに従い、ラッキーの屋敷についてきてくれた。アノンもこの日は靴磨きの仕事を休み、同伴している。
屋敷に招き入れられると、いつものように執事が出迎え豪華絢爛な応接間に通された。屋敷にはじめて来るアノンは、目をずんぐりさせて屋敷内を物珍しそうに見渡した。
壺や絵画、彫刻の善し悪しなど何一つわからないはずだが、まるで熟練の鑑定家のように隅々まで眺めまわすアノンに、「壊すなよ。壊したら地球がひっくり返ったって、弁償できないぞ」とカノンが注意を入れるシーンはピリピリ張りつめていた空気がほぐれるようで、微笑ましかった。
応接間のソファーにしばらく座って、ラッキーがあらわれるのを待った。アノンはこんな高価なソファーに座ることなどはじめてで、座り心地悪そうに、何度も座り直しを繰り返した。
窓から差し込む光に影が差し、のっぽの振り子時計がチクタクチクタクする音を聴いていると、突然〈どーんどーん〉という音が鳴った。
時計が鳴るのを待っていたかのように、間もなくラッキーが応接間に姿をあらわした。サッとセレナはラッキーを睨みつけたが、すぐに視線を落とした。
「待たせてしまって悪かったね。ちょっと用事が入っちゃって」
そう言い訳なのか、説明なのか判断のつかないことを言いながら、ラッキーは彼らの正面のソファーに座った。
「いえ、そんなに待っていません」
チャップはそういったが、一時間は待っていたのだ。
「そう、それは良かった」
悪びれる様子はなくそういって、ラッキーはテーブルに備え付けの呼び鈴を鳴らした。
しばらくして絢爛なとびらが開き、いつもの無表情な女中が姿をあらわした。
「子供たちにおいしいものを頼む」
「かしこましました」
無駄をすべて省いた動きで頭を下げて、女中はとびらに消えた。
それから五分も経たないうちに、ワゴンを引いた女中が再びあらわれた。まるで、はじめから用意を済ませていたかのように早かった。
彼らが屋敷に来てから、一時間近くが経っているのだ。
それまでに用意を済ませていて然るべきなのだが。女中はいつものようにケーキを並べる。今回はケーキの山頂に栗のようなものが載せられた、ケーキだった。
その栗のケーキをすべて並べ終えると、女中は無言のまま去って行った。アノンは今までに見たことがないケーキを目の当たりにして、目を白黒させている。
皆の顔をうかがいながら、「本当に食べていいの……?」とアノンは疑わし気に誰ともなく訊いた。
「ああ、いくらでも食べてくれていいよ。もっと欲しければ、用意させよう」
アノンの問いに答えたのはラッキーだった。
「みんな食べないの?」
皆が手をつけないのを見て、アノンは気づかわし気味にいう。
みんなが口をつけないのに、自分一人が食べられない、と思ったのだろう。アノンとはそういう気づかいのできる子供だ。
「食べるさ」
カノンはそういってフォークを取り、「みんなも食べようぜ」と皆の顔を一人ひとり覗き込みいった。
しかしセレナだけはケーキに口をつけようとしなかった。
これにはアノンも不思議そうに、「セレナ姉ちゃんは食べないの?」とか細い声で訊いた。
セレナが食べないとアノンも食べないだろうことはわかった。
アノンはセレナを本当に姉のように慕っている、何をするにもセレナと一緒じゃないと嫌だと聞かないのだ。
そのことを知っているセレナは、「食べるわよ」とあれだけ強情を張っていた彼女はアノンを気遣いケーキに口をつけた。
アノンはケーキをぺろりと完食した。物足りなさそうな顔をしているアノンを見て取ると、ラッキーは呼び鈴を鳴らし女中を呼んでケーキを頼んだ。
「本当にいいの…‥?」
アノンがそう申し訳気味にいうと、「ああ。気を遣わなくていいんだよ」
と人懐っこい微笑みを浮かべてラッキーはいった。
セレナはこのラッキーのどこが気に食わないというのだろうか。セレナにはセレナにしかわからない、ラッキーの深淵に潜むオーラのようなものが見えているのだろうか。
「それじゃあ、本題なんだが」
ラッキーは足を組みなおしながら、言葉をついた。
皆の顔が引き締まった。「はい」とチャップは代表して答えた。
「突然のことで驚くと思うが、心の準備はいいね」
皆は固唾を飲んだ。
「はい、一週間もいただければ、心の準備はできてます」
そしてラッキーは想像もしていなかったことを告げた。
「君たちを引き取りたい、という人がいるんだよ」
皆は聞き取れない異国語を聞くような顔で、ラッキーを見つめた。ラッキーは聞き取れなかった、と思ったのかもう一度いった。
「君たちを引き取りたいという人がいるんだ」
さっきよりもハッキリといった。
「俺らをですか……?」
あっけに取られたようにチャップは自分を指さして、信じられないというように訊いた。ラッキーは、「ああ」とだけ答えた。
「その人を呼ぼう」
そういってラッキーは、呼び鈴をチリンチリンと二回鳴らした。
しばらくすると、とびらが開いて、女中に案内されるようにして、ゆったりとした黒い服を着た男の人が応接間にあらわれた。
優しそうな顔をした五十代後半ほどの男の人だった。
頭には黒いニット帽のような帽子をかぶっていて、首には十字架のペンダントが下げられていた。
「神父さんだよ」
皆が食い入るような視線を送る中、神父と呼ばれたその男はゆっくりとこの世の時間がスローで流れているのではないか、と勘違いするほど、落ち着きのある歩きで部屋の中央に躍り出た。
「子供たち。はじめまして、私はタダイと申します」
神父は丁寧に右手をぴたりと胸につけ、軽く頭を下げながら微笑んだ。
その微笑みには神聖な、慈悲の温かみが感じられた――。