file08 『キプスの想い』
女は、「こんな家に産んでごめんね……」と、私にいつも謝った。泣きながら、謝った。
どうして、私に謝るのか、謝るような悪いことをしたのか。
女はいつも謝っていた。獣に謝るか、私に謝るかだ。獣に謝っていないときは私に謝るし、私に謝っていないときは獣に謝った。
いつも、いつも、「ごめんなさい……ごめんなさい……」と、泣きながら謝った。
私はそんな女が嫌いだった。嫌いだった、大嫌いだった。
私には頭を下げ続ける、女の記憶しかないから。
バートンが戻ったときにはもう、キプスもキクマもいなくなっていた。どこにいったんだ、とバートンは周辺を見渡し、姿を探すが……見当たらない。
さっきまで、いた野次馬も殆どいなくなっている。もう、ここにいても、面白みがないと思ったのだろう。
バートンは帰り支度をしている、三十代ぐらいの中肉中背の男に、「あのー、さっきまでここにいた、キプスさん、はどこへ行ったのでしょうか?」と、訊ねた。
男は、「ああ、キプスさんだろ。キプスさんなら、警察の人とどこかへ行ったぞ」となれならしく、答える。
どこかに行った? 自分を置いてどこ行ったんだ、とバートンは腹立たしく思った。
「どこに行ったか分かりますか?」
煮えたぎる苛立ちを隠して、訊ねると、「あっちだよ」と男は村の方角を指さしていった。
「ありがとうございます」
バートンは軽く頭を下げて、もう一度、村に歩き出す。僕が帰って来るまで待っていてくれよ、とバートンは内心で思うのだった。
*
村を歩いて行くと、警察のタンカーが玄関先に出ている、家があった。どこにでもある、白いタンカーだ。このタンカーにキプスを乗せて、運んできたのだろうか。
つまり、ここが、キプスの家。キクマもキプスの家に来ているかもしれない。バートンはキプスの家のとびらをノックした。長年雨風にさらされて、とびらは変色や痛みが目立つ、しかし味のあるとびらだと、バートンは思う。
しばらくすると家の中から、足音が近づいてきた。
カランカラン、と鈴の音が鳴りとびらが開くと、「なんだ?」と言い出てきたのはキクマ。
不愛想な仏頂面でバートンを見上げている。こんな仏頂面で迎えられた人はたまったものではないだろう。もっと、お客様には愛想よくするべきだ。
「何だじゃないですよ! 何で置いて行くんですか?」
バートンは不満をいう。
「お前が遅いからだろうが」
キクマはまるで、バートンが悪いみたいな態度でいった。言い返したいが、言い返せない、上司だからだ。育ての親に上司との上下関係はハッキリさせるようにと、言われている。
バートンの育ての親はとてもしっかりとした、礼儀の正しい人だった。昔は色々あり口が悪かったバートンだが、今では礼儀正しい人間に変えられた。
怒らせると鬼のように恐ろしい人だったので、バートンはおとなしく「はいはい」と従う日々。けれど、不満は抱かなかった。とても、やさしい人だったから。
バートンはむかっ腹をかみ殺して、いう。
「ここはキプスさんの家ですか?」
「そうだ」
「僕も入って良いんですか?」
とびらのすき間から、見える室内を指さしながら訪ねた。
「キプスさんに訊いてみろ」
キクマは取り合ってくれない。
そう言われ、バートンは家の奥まで聞こえる大音量で、「僕も失礼していいですか!」と問うと、奥からよく響く声が返ってきた。
「入って良いと、よ」
キクマはキプスの言葉を代弁していった。
バートンはキプスの家に入る。こちゃこちゃした物は何もなく、スッキリした印象を受ける。何の飾りっけもない部屋だった。
レンガ造りの暖炉があり、古風な雰囲気が漂う。
壁には動物の毛皮や鹿の角などが掛けられており、誰が見ても猟師の部屋だと分かる。
そして、何より存在感を放っているものがあった。
動物の骨の模型だ。暖炉側の角には鹿やイヌ科の全身骨が飾られていて、不気味な雰囲気を放っていた。
暖炉の横のロッキングチェアにキプスは深く腰掛け目をつぶり、瞑想にふけっているようだ。小さくゆらゆらと椅子が揺れているのを見ると、寝ている訳ではないと分る。
「すいません、包帯遅くなりまして……」
バートンはロッキングチェアに座っている、キプスに申し訳なくいった。キプスはバートンを横目に、黙ったままである。沈黙が三人を包んだ。
「落ち着いてからでいいので、もう少し、詳しく状況説明をしてもらえますか?」
バートンは苦笑いを浮かべてキプスに言いながら、革張りのソファーに座る。それから、数分時が流れ、見る限りこの部屋には時計がない、見えるところに置いていないだけかもしれないが、この部屋には時計がなかった。
時間から解放された、この家は他とは違う時間が流れているように、遅くも、速くも感じない、ただ、自然の移り変わりだけが時の流れを感じさせるのみだった。
「このままだったら、昔のような悲惨な悲劇が繰り返される」
キプスの第一声がそれだった。
決意を秘めた男の声。
「おっしゃる通り、このままだったら、被害者は増える一方でしょう」
バートンがいうと、「狩るべきだ」と、キプスが低く太い地鳴りのような声で言い放った。
「ええ、我々もそう思っています。――明日にでも山狩りを考えています」
キクマがいった。一体いつ、そんな話を決めていたのか? バートンはまったく聞かされていなかった。
バートンがキクマと離れた、数十分の間にか、この村に来る前から決めていたのか、つくづくぬかりない人だと実感させられる。
「私も一緒に行かせてくれませんか。あの山の地形は私が一番熟知しています」
ロッキングチェアから上体を起こして、キプスがいった。
「そのお怪我で大丈夫なんですか」
キクマが聞くと、「怪我と言っても腕だけです。道案内くらいできます。あの怪物と出会った場所を知っているのは私だけなのですから。私に案内させてください」鋭い、視線はキクマを貫かんばかりに、見開かれ、凄まじい目力を発していた。
キクマじゃなければ、すくみ上がっているだろう。
まるで恨みを晴らすことだけが彼を動かす原動力のように見える。
バートンはキクマとキプスの話に耳をかたむけながら、動物の全身骨格に視線をやっていた。
少し黄ばんだ、大きなイヌ科動物の骨。しなやかに、曲線を描く肋骨や尻尾の仙骨。太く立派な大腿骨が生きていた時、以下に立派な姿だったかを物語っていた。
「動物の骨が好きなんですね」
バートンなんの関係もない話をふる。
ピリピリした空気を緩和しようと思ったのだが、キプスはよくぞ聞いてくれた、と言いたげに、「ええ、私は猟師ですからね。仕留めた動物をああやって、骨格標本にしているんです。殺した命を忘れないために、部屋に飾っているんですよ。毛皮は色々使い道がありますから、取っているんですがね」と、饒舌に語った。
「綺麗に肉だけをそぎ落とせるものなんですね」
「ええ、色々な方法があるんですよ。土に埋めたり、鍋で煮てドロドロにして肉を柔らかくしたり、薬品を使ったり、ナイフで肉だけをそぎ落としたり」
キプスは怪我をしていない、左手の指を折りながら数えながらいった。
「いやー、こうやって見ると、何だか、異質な存在感があるものですね」
バートンは鋭い牙がギラギラと伸びている、イヌ科の骨格標本を観察した。眼球がない、骸骨は底にいくほど、黒く何もかも飲み込むブラックホールのような空間が広がっている。
趣味は勝手だが、僕には合わない趣向だな、とバートンは思った――。