九章 その5
人形のままの紗良が嫌で、思わず叫んでしまっていた。
だが意味はあったようだ。
紗良は魔法の呪縛から解き放たれ、弾丸のように走り始めた。
笑みが顔に浮かぶ。紗良も小さく笑った。
紗良は真っ直ぐにイリスさんの元へ走り、その茨の蔓を無に還した。
泡のように呆気なく消える蔓の中から満身創痍のイリスさんが姿を現す。
「紗良…やはりお前も地に堕ちていたか!!!」
マリアはそれを見て憤慨し、『福音』の力で無詠唱の魔法を放つ。
二人の元へ向かうは、白い津波。
さすがにそれの制御は大変なのか、向けた手を下ろさなかった。
その時、
「あっ!」
メシアが声を上げた。
ずっと、蛇に包まれていた、大天使の子が。
その目には光が戻っている。
「…あの人の後ろ…、放っても…」
見ると、マリアの後方から、人がこちらに向かって来ている。
それは、悪魔。
いつか、俺が初めて地獄に来た時、俺に刃を向けた奴。
名を、確か。
「弦技…ディム…」
彼がマリアを殺しに、走って来ていた。
メシアが頭を押さえ、また呟く。
「…あの人…おかあさん…助けなきゃ…けど…天使は…」
「メシア!!」
「!!」
俺はメシアに呼びかけ、正気を取り戻させる。
「…なに、ナイト」
「今、お前はどうしたいんだ?」
「…っ」
メシアは揺れている。
「俺は、どっちでも良い。けど、お前は後悔しない方を選べよ」
「…うん」
しばし俯き、
メシアは走る。蛇の背に乗って。
「ステノ、おかあさんを助けるよ!」
そして黒瞳の銀蛇はその巨大な口を開ける。
「『メデューサ』!!」
メシアの号令が発され、ステノは銀の翼を広げた。
向かう先はマリアと、イリスさんと、紗良。
その美しい翼で彼女達を守るつもりなのだろう。
だが、それを見て動く人がいた。
シンさんだ。
「メシア!!何をしようというのですか!!」
俺達の会話を当然ながら聞いていなかった彼は、メシアを止める為に走った。
俺も彼の行動を警戒して、走る。
シンさんが指を鳴らすと、どこからか三羽の鳥が光を纏って現れた。
鳥は喋った。
「なになに?しんさま?」
「ボクラナニヲスレバイイノ?」
「命令早急依頼」
三羽の鳥は口々に喋り、主の命令を、待つ。
「…私の娘を止めて下さい。如何なる手段を使ってもです。…プリースト、貴女はあの翼を消しなさい。」
「りょうかい!」
舌っ足らずな喋り方をする小柄な鳥は、体長より長いトサカのような毛を靡かせ、途轍もない早さで向かって行った。
「ロゥ、貴方はマリアの後ろの悪魔を止めなさい。」
「リョーカイデス」
どこか片言な話し方の鳥は、長い嘴を行き先に向け、小さなロケットのように向かう。
「…ブッダ。貴方は私と一緒に彼女を止めます。」
「了解」
堅苦しい口調の大きな鳥は、シンさんの髪程の長さの尾をたなびかせ、共にメシアの元へ行く。
プリーストと呼ばれた鳥は、ステノの体の真上に来ると、一粒、涙らしきものを零した。
それが翼に当たった瞬間、展開していた翼は消え、ステノは腹から黒い大地に落ちた。
低空飛行だったのが幸いし、怪我などはなかったようだが、速度は格段に落ちた。
「…!!何するのよ!!」
メシアがそれに怒り、また銀蛇に号令を飛ばす。
「『エウリュアレ』!!」
ステノが小鳥に向かって毒針を飛ばした。
毒針はプリーストに当たった瞬間に液体となり、その小さな体に染み込む。
しかし鳥は苦しみもせず、ぱたぱたと旋回しながら飛んでいた。
その間、ロゥと呼ばれた鳥がひたすら走っていたディムの元へ向かった。
眼前で止まり、その姿を大きく広げる。
「な、なんだコイツ!」
ディムは手に持った大剣を振り上げ、降ろそうとした。
しかし。
「メイレイ。…トマレ。」
「!?…、…、…!!??」
ロゥの声を聞いた瞬間、ディムの動きの全てが止まった。
「ディム!?…何をしたの、シン」
怒りを滲ませ、メシアが問う。
「…プリーストの力は【治癒】。あらゆる事象を本来に戻す力。
ロゥの力は【天命】。命令の対象をその命令通りに動かす力です。」
「なるほどね。じゃあ、その鳥は?」
「ブッダの、力は…。」
瞬間、何が起こったのか分からなかった。
津波を目の前にしながら、尚も防御の為の魔法を詠みあげ続ける紗良も。
敵対する者を嬉しそうに眺めるマリアも。
心配そうに紗良を見ていた傷だらけのイリスさんも。
彼女達の元に向かっていた、俺も。
体を動かせない、ディムも。
遠くに吹き飛ばされ、今ようやく戻って来た玻璃さんとルリさんも。
そして、小さな少女とその供の蛇も。
誰も、何も、何もかも。
ただ、三羽の鳥と、金色の髪の大天使だけが、寂しい、悲しい顔をしていた。
シンさんは数歩、移動していた。
メシアの正面から、背後に。
少女には風穴が開いていた。
腹の真ん中、ちょうど一羽、鳥が通れる大きさに。
血が、今、
体外を流れた。
「「メシア!!!!」」
イリスさんと俺が、叫ぶ。
「…『ブロードビルド・ローラー』が一羽、【真理】、自分が最善と思う事を最上の方法で行う力、です。」
静かにシンはそう呟き、彼の恋人の元に向かう。
だが彼より早く彼女が向かい、
俯いたまま彼の頬を叩いた。
小気味良い音が響く。
「…マリア?」
「何て事をしたの!!!」
シンを一喝、彼女は言う。
「貴方、何をしたか分かっているの…?子殺しよ!?殺人よ!?何が最善よ、最上の方法よ!!最悪で、最低の事をしているじゃない!!」
「……」
マリアは涙を流しながら、真っ赤な顔をして叱る。
「あの子は!!済世は!!私達を助けようとしたの!!飛んで向かったのはあの蛇の翼で私達を守ろうとしていたからなの!!全てから私達を救おうとしていたの!!!」
「…マリア、私は…」
「言い訳なんか聞きたくないわ!!」
涙混じりの声は、嗚咽に変わる。
「助けなさいあの子を…っ、済世を、メシアを!私達の娘を!!」
そしてマリアは膝から崩れ落ちた。
ただ、嘆き続ける。
シンは彼女を抱き締め、絶望の表情で呟く。
「…私には、出来ない、救えない…、あれが、最上だから…」
それを見る三羽が彼等の元に集まり、声を発した。
しんさまどうしたの?、ナイテイルノ?、号泣停止、と。
最悪の、展開だった。
* * *
メシアは呆けた顔のまま、動かない。
虫より小さな呼吸と心音だ。
もうすぐ、彼女は死ぬ。
「…どうすれば…イリスさん…?」
「ごめんなさい…、ナイトさん。妾の真名は蠅を操る事。…意味がありません」
そう言って額を見せる。黒いカーテンのような前髪の奥には金に光る目玉が付いていた。
大事なものを見せるようにそっとそれを見せた彼女の揺れる目には、これは大事な人のものだと教えてくれた。
おそらく、彼女の亡き夫のもの。
不思議と気持ち悪いとは思えなかった。
「…この眼も同じ力です…、お役に立てず「イリスさん」
彼女を呼ぶ、凛とした声。
その主は、紗良だった。
「大丈夫です、私がやります。…衛多くん、メシアちゃんまだ生きてるよね?」
「…ギリギリな」
「なら大丈夫。…私が生かす」
そして彼女は、胸の前に手を組んだ。
目を瞑り、祈るように。
瞬間、彼女の背中から光が迸った。
強い光だった。闇に慣れきった目に、それは痛かった。
光は形を成した。
それは翼。
白く、大きな、羽。
「紗良、それって…」
「…私の『福音』、【丹頂鶴】。…綺麗でしょ?」
確かに、綺麗で、声が出なかった。
ただ首をがくがくと縦に振ると、天使はくすりと笑った。
それはとても、可愛らしかった。
「じゃ、メシアちゃん助けるね。…ねぇ衛多くん、どうして私の『福音』が鶴なのか、分かる?」
「…さあ?」
「残念。…見てて…」
紗良は翼で自分ごと、メシアを抱いた。
翼の光が少し強くなる。
温かさが空気を伝ってこちらまで来た。
数十秒、それだけで、メシアの治療は終わった。
体に開いた穴は消え、呆けていた顔は血の気が戻り、今は眠っている。
だが。
「…衛、多くん。…鶴の理由、これで分かったかな…?」
言い終わった瞬間、翼は消え、
腹に風穴の開いた紗良がそこにいた。
『鶴の恩返し』。
他者を救う代わりに、自らが傷付き、やがて愛する者の前から消える。
悲しい鶴の姿がそこにあった。
そして、紗良は倒れた。
* * *
「紗良、紗良あぁっ!!」
俺は無意識に叫んでいた。
その声を聞き、静歌とシンはゆっくり、玻璃さんとルリさんは少し早足で、そしてようやくこちらに来た蒼良、萌、チャコールさんが駆け寄って来た。
「…! 紗良さん…」
「…何故、このような事を…。」
「お義姉ちゃん!…何で、どうして?」
「…酷いわね。早く回復しなきゃ」
玻璃さんが、魔法を唱える。
しかし、風穴はあまり塞がらない。
「…どうして…?」
「…私がやってみます。プリースト、お願いします。…ロゥ、悪魔にした命令を解いてきなさい。」
ロゥは真っ直ぐディムの元へ飛んで行き、プリーストはパタパタと可愛らしく飛び、紗良の腹の上に涙を零した。
だが、
「…治らない…」
ルリさんが呟く。
「まさか…誰か、探知の力がある者はいませんか?」
シンが問い、蒼良が手を挙げ【計測】を発動する。
そして出された結果は、
「…お義姉ちゃんから、生命力が計れない…」
最悪だった。
「…そんな…じゃあ紗良は…」
「套生さん。貴方の名の力は、何ですか?」
「へ?」
今までずっと黙っていたチャコールさんが、俺に問う。
「確か、仮名は…「生を套ねる」、では?」
「ナイトさん…、やって下さい」
「早く!紗良が死んでも良いの!?」
イリスさんが、萌が、俺を急かす。
頷き、震える手で『烙印』を撫でる。
青く、刺青は淡く光り、力を俺に与える。
両の手は、紗良の手を握った。
力を込める。
俺の中から何かが、流れ出て行く感覚。
前に、無理矢理に取られた時より、とても穏やかに生命力は消えていく。
どこか、心地良くも感じられた。
「…みんな、お義姉ちゃんの生命力が、増えていってる…」
それを機に、再びプリーストが涙を流す。
風穴はゆっくりと小さくなっていく。
これで良かった、かのように思えた。
「んっ…」
「紗良!?」
倒れ、意識を失っていた紗良が目を覚ました。
「紗良、大丈夫か?」
両手に力を込め、俺は彼女に聞く。
「…うん。ちょっとお腹痛い、けど…」
「もう少しだから。今治すからな!」
「無理だよ。」
耳を疑った。
彼女は語る。
「…審さんがやった攻撃は、物理的なものだけじゃなかった…」
「…どういう事ですか、シンさん」
彼は俯き、言う。
「…私の『福音』の力、【狼人間】です。その力は混乱、攻撃した者に、死んだと思わせる錯覚を見せるのです。」
「…?」
「…自分が死んだとおもっ…たら、皆、生きようと…しなくなる。そういう事なんだよ…」
途切れ途切れに、紗良はそう言う。
やがて、傷は完全に塞がった。
必死に俺は生命力を注ぐ。
俺の予測ではそろそろ助かると思っていた。
「…みんな…生命力が、お義姉ちゃんの、生命力が…」
紗良を見ていた全員が、【計測】の表面を見る。
皆、息を飲んだ。
「蒼良、どういう事よ。…生命力が全く増えてないじゃないのよ!!」
「ボクだって分かんないよ!!傷も塞がったし、お義姉ちゃんも意識がある!」
「じゃあなんで「私が、生きたくないから、かも…」
弱弱しく、彼女はそう言った。
皆に見つめられる中、ゆっくり深く息を吸いながら、彼女は話す。
「もう、楽になりたい…、色んなものに、振りまわ、されたから…」
「何でだ?紗良は、そんな目に合ってないだろう?」
「合ってたよ。…私の過去、…生前に」
小さく首を動かし俺を見た紗良は、聞く。
「聞いてくれる?…長くなる、けど…」
「聞くよ。時間なんて、俺達には関係ないんだからな」
「そうだね…。ありがと、衛多くん…」
暗い地獄の天井を見ながら、紗良はゆっくりと過去を話し始めた。
九章長いですね…
書いた作者もびっくりです(笑)
途中で後半が十章に変わるかもしれませんね。
閲覧、ありがとうございました。