九章 その3
「……っ、…?」
堅く閉ざした目を、うっすら開ける。
割れた眼鏡のせいで最悪の視界の向こう側に、萌がいた。
首の『タレイア』は押しつけられたままだが、赤い雫は一滴も付いていない。
代わりに、降っていた。
透明の雫が。
「バカじゃない…、バカじゃない!?」
「……なんでよ…」
「どうしてあたしなんかの後を追って!自殺なんて、自殺なんてしたのよ!!」
チャコールは萌から目を逸らす。
「…言ったでしょ。あなたがいなきゃ、ワタシは何も出来なかったって」
「あたしは殺された!ある意味しょうがなかったの!!けどアンタは!澄花は生きられた!!」
「………」
『グレイス』が戦意の喪失で結束を失う。
カラン、と軽い音を立て、『タレイア』が黒い地を転がる。
『アグライア』からは色が抜け、その色の元である『エウプロシュネ』は所在なく漂っていた。
「だからアンタはバカなのよ…姉のアンタばかり、妹みたいに甘えて頼って…一人で生きられも出来ないで…」
「…萌花…」
「…うっ」
そこで【狂化】の効果が途絶えた。
萌の目的が達成された事で、黒い珠は萌の手をすり抜け、持ち主の元へ戻る。
それはつまり、本来の体の状態に戻ったという事。
骨の折れた腕が、悲鳴を上げ始めたのである。
加えて、チャコールの真名の能力は未だ重力を作り出していた。
「萌花!?」
「…痛い…痛い…いたいよぉ…っ、うわああぁぁん…」
(あ、萌花の骨、確か折れてた…)
火傷だらけの手を動かし、『烙印』を撫で、真名の力を解除する。
かけられていた負荷が消えた。
「…ごめんね萌花。…ワタシが、本当に馬鹿だったよ…」
「うえっ、うっ、うっ、お姉ちゃん…」
赤く爛れた腕で、子供のように泣く妹-萌。
彼女を、姉―チャコールはあやす。
温かなその情景を、蒼良が優しい目で見つめていた。
* * *
「…はいっ、終わり。思ったより酷くなかったみたいだね」
「…ありがと」
「素直じゃないわね、萌花は」
「澄花は黙ってなさい」
傷を癒し。一息ついた蒼良、萌、チャコールは、ようやく本題に入る。
「あの、玻璃さんはどこへ行ったか知りませんか?」
「玻璃さんは…先程言おうとして、萌花に邪魔されました」
「もう良いじゃない。あの時一応言いたい事は言ったんだから」
溜め息をつき、チャコールは続きを喋る。
「そうね。彼女はルリさんと一緒に、向こうにある洞窟の方へ行ったわ。二人で石を採りに行くって」
「ルリ…あの伝説の『アルタイア』のリーダー!?」
「うそっ!?ボクサイン貰わなくちゃ!」
突然天使の二人は頓狂な声をあげる。
一人ついていけないチャコールは、蒼良に尋ねた。
「…『アルタイア』って?」
「えっとねチャコさん、『アルタイア』っていうのは、下界や地獄の監視をする組織の名前なの。
そこで昔瑠璃・アイズって人がいて、すごく色んな事や物を見付けてたから、伝説って呼ばれてたの」
顎に手を持っていき、チャコールは思案に耽る。
「なるほど…けれど、ルリさんとその「瑠璃」さんが同一人物の可能性は低いんじゃ?」
「上の世界じゃ、玻璃さんと瑠璃さんはとても仲が良くて有名だったの。一緒にいるなら、瑠璃さんは「ルリ」さんしかいないのよ!」
黒い床に座り込んでいた蒼良は立ち上がる。
「行こうよ!善は急げだよ☆」
そして小さな天使はあらぬ方向へ走って行く。
「あ、蒼良さん反対ですよ!」
「あのバカ…追うわよ澄花!」
「言われなくても」
悪魔と天使の双子の口元は、かすかに綻んでいた。
* * *
「覚えてる、シン?私達がここで魔王を倒した時の事…」
「ええ、とても。彼を出し抜き、彼奴が死んだ瞬間の貴女の恍惚とした表情は、とても美しかったですから。」
「だって嬉しかったんですもの。神でもない私が、魔王を倒したんですから。…おかしくなったあの女の行動に興が冷めましたけど」
ぼんやりと石が光る、地獄の洞窟。
そこに二人の男女がいる。
金髪は銀髪のコロコロと変わる表情に顔を綻ばせていた。
「…目を、抉り出しましたからね。彼が死んでもずっと一緒だとでも言いたいんでしょうか…。」
「私は無理です、あんな事。死んだら人の本質は変わらないけれど、何もかもを忘れ、外見も性格も変わり、他人を愛してしまう…耐えられませんわ」
「だから貴女は転生しないのですね?」
深く頷く女は、紅い眼を悲しみで満たす。
「…はい。下界は辛いですから。それに比べて、貴方がいる世界はとても優しい。それに、私には下界へ行く理由がありませんから」
「…それは、どういう事ですか?」
「…『神の恋人』である私が、恋を決してしない筈の私が…、貴方を愛してしまっているからです」
沈黙。
その時、ふいに女が屈んだ。
「あ、ありました。探し物」
「…片割れですね。見つかりましたか。」
「はい」
嬉しそうに微笑む女―静歌は、胸元の十字架『ユダ』に、探し求めていた小さな石を嵌め込んだ。
くすんだ色をしていたその石は、嵌った瞬間七色の光輝を放つ。
「『ユダ』に、核である『パウロ』が戻り、『イースター』が始まる…、行きましょう、シン。楽しい祭りを始めに…」
「あまりはしゃいではいけませんよ。貴女の事です、また見境無く人々を殺してしまうでしょうから」
「まあ、殺人ではありませんわ。…神の代理人である天使による、制裁です」
そう言って笑う彼女は、穢れを知らない乙女にしか見えなかった。
* * *
「…という訳なんです。玻璃さん、帰りましょう」
「………」
俺と紗良は探していた天使、玻璃さんと偶然会い、紗良はその場で説得を開始した。
心に訴えかけてくる彼女の話は、使命とやらに長く赴いてきた事を感じさせ、俺は彼女が只幸せに日々を過ごした訳ではない事を悟る。
恐らく、生きている時を含めて、彼女の人生は嬉しい事より辛い事の方が多かったのだろう。
交渉の方は上手くいっていなかった。
俺が玻璃さんでも同じ事を言うだろう。
ようやく会えた想い人を残して、元居た世界に帰れと言われたら。
「嫌だ」と、拒否の意を。
「玻璃さん、帰りましょう?」
「………」
そこに。
「おや、どうしたんだいナイト君?」
「…あ」
説得の最中、ルリさんがやって来た。方向からして、洞窟から出て来たらしい。
「二人で石を採りに行って、中々帰って来ないから今探してたんだけど…何かあったのかい?」
「あの、玻璃さんを説得しているんです。…上の世界に帰ってくれるように…」
説明をしたのは紗良だ。
それを聞いたルリさんは、その精悍な顔を厳しくする。
「なんだって!?何故彼女はあの世界に帰らなければならない!?彼女がここに来て何をしたんだ!?」
「瑠璃…っ!」
俯いていた玻璃さんは、ルリさんが来たのを見て彼に駆け寄り、抱き付く。
怯えた表情の玻璃さんは、ルリさんに懇願した。
「瑠璃、私、もうどこにも行きたくない。あなたと離れ離れなんてもう嫌なの…っ!!」
「玻璃…」
互いを抱き締める二人を見て、紗良が眉根を寄せる。
「困ったなぁ…、一度『堕落』した悪魔が、天使に『昇華』するのは大変だし…」
「ルリさんの事、知ってたのか?」
「まぁね。元天使で、玻璃さんの為に贈り物をしようと考えて、『堕落』したのは有名な話だもん」
そこで俺は、「贈り物」で思い出す。
俺が持っている武器『エトワール』は、玻璃さんの物だという事に。
「あの、玻璃さ「玻璃さん避けなさい!!」
飛んできた声は、洞窟の方から。
紅い眼は、遠く離れていても禍々しく光っているのが分かる。
鬼気迫る顔でやって来た大天使は、紗良にも命令を下す。
「何をやっているの貴女は!!早く玻璃さんから悪魔を遠ざけなさい!!」
紗良は一瞬戸惑いを見せ、俺の服の袖を引っ張った。
助けを求めているのが、自分の事のように理解出来る。
だが。
「まあ、なんて汚らわしい!!洗い流しなさい、今すぐ!!」
紗良本人ではなく、静歌の【金糸雀】で、浄化の魔法が紗良の指先にかかる。
更に静歌はルリさんを睨んだ。背中から白い光が迸り、それはルリさんを弾いた。
「瑠璃!!」
「…るり…瑠璃・アイズ?彼が?
…随分とここの生活に慣れてしまったのね。誰だか分からなかったわ」
「「「!!!!!!」」」
俺、紗良、玻璃さんは息を飲む。
俺だけでなく、思っただろう。
静歌・キャロルは、こんな人だったろうか、と。
誰もその場を動けなかった。
どうする事も出来ず、ただ立ち竦むしかなかった。
その時だった。
「妾の治めるこの地で…、何をしているのですか?」
鈴の鳴るような、か細い声。
強い意志を乗せたその言葉が、俺達の呪縛を解いた。
「イリスさん…」
紗良のほっとしたような響きが、静歌の怒りを煽った。
「紗良さん…貴女は、あの女の味方ですか?」
「え?そんな…」
「では、貴女の先程からの態度は何ですか?」
ふうっ、と小さな溜め息が静寂をかき消す。
優しく微笑みながら言ったイリスさんを、女神と思ったのは俺だけだろうか。
「マリア・ブレス…、あなたのその威圧的な態度なら、誰でも今の紗良さんのような態度になると思いますが」
「五月蝿い気違い!!その名を口にするなぁっ!!!」
叫ぶ静歌の顔をはっとした顔で紗良は見る。
「…マリア・ブレス…?あのマリア・ブレスなの、静歌さまが…?」
「どうした紗良?」
俺は喜んでいるような、恐怖しているような微妙な表情の紗良に問うた。
「…マリア・ブレス。『黎明の聖母』と謳われた天使。まだ天使が数少なかった頃、多くの救いと…破壊をもたらした、最高にして最凶の天使。
…伝説とかって思ってたけど、本当の事だったんだ…」
呟くように俺に説明をしながら、彼女はじっとイリスさんと銀髪の天使―マリアを見ていた。
睨み合う二人は尚も言い合いを続ける。
「貴女は…、今も昔も変わりませんね。変わった事と言えば名前くらいですか。生まれ変わったつもりなのでしょうが、何も変わっていませんよ」
「黙れ、汚らわしい雌豚が。そういえば、貴様がくり抜いた魔王の眼はどうしたのかしら?ホルマリンにでも漬けて毎日見ているの?」
「妾の…、体に埋め込みました。今も貴女を見詰めていますよ」
言って、イリスさんはそっと前髪を触る。
そこに、例の魔王の眼とやらがあるのだろうか。
「気色悪い!死んでも一緒だとでも言いたいの?理解出来ないわ!!」
「言ってなさい…、此の事は其処に居る彼等以外は全員知っています」
「じゃあ私が教えてあげようかしら。聞いてましたか紗良さん、衛多・バンクス!この魔王は旦那の目を抉って、自分の体の一部にした頭のおかしい女なのよ!!」
地獄に響く彼女の声が、俺達を震え上がらせる。
それは告げられた事実がおぞましいからなのか、彼女の声が恐怖するものだからなのか。
俺達には分からず、言葉さえも見つからなかった。
「フフフフフッ、声も出ないみた「イリスさまをいじめるな!」
幼い声と共に、銀色の蛇が高速でマリアに巻き付いた。
一メートル半程の蛇は、瞬時にマリアを拘束し、彼女の眼前で首をもたげて威嚇する。
銀の舌の中は、闇だけが広がっていた。
「ひっ!」
そして、その瞳すらも。
「この蛇…」
「そうよナイト。ステノよ」
ステノ、それはある少女の指輪の名前。
蛇がやってきた方向から姿を現したのはその持ち主。
「メシア!!」
「どう、メシアのステノは?可愛いでしょ?」
綺麗なプラチナブロンドを揺らして、小さな悪魔の女の子は笑った。
長いですね、九章。
いつか十章になりそうな気配…
次回、お楽しみに。
閲覧、ありがとうございました。