九章 その2
闇の中、私達は歩く。
聞こえる声は靴だけ。
前を歩く黒い背中は、ただ黙々と歩を進める。
(…気まずいなあ)
重苦しい空気に、目が足元を向く。
「…ねえ」
呼びかけてみる。
返事はない。
(…きっとまだ怒ってるんだなあ)
溜め息が口から零れる。
「…、嫌か」
「え?」
「俺といるの、やっぱり嫌か?」
予想外の言葉。
慌てて返答する。
「え、違うよ。気まずいなって、思って…」
「…、あの時は、悪かった」
振り返らず、彼は謝罪した。
「…謝らないでよ。…あれは私がいけない」
「俺が「違う」
彼の言葉を止め、私は言う。
「…衛多くんの事何も考えないで、あんな事言っちゃったから、私がいけないの。
悪魔だからって、衛多くんの手を掴んで引き留められなかった私が…。全部、私のせいだから…」
「…なあ」
衛多くんはそこでようやく振り返った。
「何?」
「なんで、そんなに自分を追い詰めるんだ?」
彼は辛そうな顔で問うた。
「…分からない。性格かな」
「違うな。それしか。自分を卑下する事でしか、自分を守れないみたいだ」
「…!?」
衛多くんは続ける。
「いつも一人で重荷を背負って、助けようとする手を払って、笑って、無理してる。…そんな感じがするんだよ。
そんなに二人が信用できないか?」
「そんな訳ないよ!みんな、みんな信じられるよ」
「じゃあなんで、今泣いているんだよ?」
…言ってる意味が分からなかった。
衛多くんは左手を伸ばす。
その指に銀の線は無かった。
それが私の目元をこする。
こすった指は確かに濡れていた。
(…私、泣いてたんだ)
気が付くと、自分の状態がようやく分かってきた。
視界はぼやけ、息は上手く出来ない。
思い返してみれば声も上ずっていた。
頭の中がごちゃごちゃしていて、冷静な思考が出来ない。
何をすれば良いか分からないそんな時だった。
* * *
ボロボロと、彼女は泣いていた。
決めたのに。
「彼女を泣かせない」と。
けれど彼女は、紗良は今俺の目の前で涙を流している。
そんなのは見たくなかった。
泣き声を聞きたくなかった。
雪の中、あの日のように、俺は手を伸ばす。
それで怒られても良かった。
泣く彼女だけは、見たくなかった。
紗良を、自らの腕で、包み込んだ。
「………!」
息を呑む声。
笑い声も、声にならない声も、俺の中で響いて溶ける。
愛おしく。
「…泣くなよ…」
「…………」
無言の回答。
柔らかい彼女の栗色の髪を撫でながら、俺は問う。
「…悪魔なんかに命令されたくないか?」
「違う!…違うよ…」
「じゃあ、俺なんかに命令されたくないか?」
大きく首を振り、うなだれた天使は言う。
「違う。」
「……」
「待って、ごめんね。…ごめんね衛多くん」
俺はその言葉に引っかかった。
「何で謝るんだよ」
「泣き止むの、時間かかりそうだから」
可愛らしい彼女の返事に嘆息し、俺は出来るだけ優しく返した。
「…待つよ。」
「ありがとう…」
しばらく、俺は紗良の頭を撫でながら彼女が泣き止むのを待った。
「…よしっ!元気になったよ♪」
パッと、紗良は俺から離れて笑った。
「じゃあ行くか」
「うん♪」
それは建前。本音は、「もう離れるのか?」
けど、それは言ってはいけない。
我慢をしなきゃ――…
「…やっぱり駄目だ」
「え?」
衝撃。
飛び込んだのは、紗良。
「衛多くん…」
「ん?」
「…離れたくないよ…」
「…ごめん、俺もだ」
もう、抑え付ける事は出来ない。
短い時間に溜まりに溜まった想いは、これ以上隠す事は出来そうになかった。
「紗良…好きだ」
「うん…」
「紗良は?」
逡巡。
後に、少し息を吸い込む音。
「私「…バンクスさん?」
「「!!」」
俺達は一瞬で距離を取った。
ポカンとした顔で、俺達を見ているのは。探していた天使、玻璃・ニーダだった。
俺達は一体どんな顔をしていたのだろうか。
玻璃さんはクスクスと、笑ったのだった。
* * *
その頃。
萌と蒼良は、当てもなく玻璃を探していた。
「…あたし達が地獄の事知ってる訳無いじゃないのよー!!」
「キレないでよ萌。…あ、そこの人に聞いてみよう!」
蒼良は元気よくその悪魔に近付く。
「…アイツ自分の立場分かってないわよね」
「すいません!あの、玻璃さんを知りませんか?」
「玻璃…玻璃・ニーダさんですね?彼女なら…」
そこで、萌は目をしばたかせた。
「「…?」」
悪魔も蒼良の後ろに来た萌を見た。
驚いた表情で、萌は彼女を見た。
黒縁眼鏡、一つに結ばれた三つ編みの悪魔、
チャコールを。
「スミカ…なんでアンタがここに?」
「…萌花、それはこっちの台詞よ」
蒼良は訳が分からずあたふたと両者を見比べる。
「え?え?…知り合い?」
「小さな天使さん、…萌花は私の双子の妹なの」
「余計な事言わないでよスミカ。お人好しが」
眉間に皺を多数作って、萌は「スミカ」と呼ぶチャコールを睨んだ。
「天の邪鬼なあなたに言われたくはないわ」
「も、萌…ここは感動の再会じゃないの?」
「それは出来ないのよ蒼良。生前からあたし達は仲が悪かったの。
それにスミカは悪魔。天使として、見過ごせない相手でもあるの」
口だけが笑う顔は、蒼良からチャコールに向かう。
「そういえば、なんでアンタは悪魔になってるのよ?」
「…そっか。あなたは知らないのよね。良いわ、話してあげる」
眼鏡の奥の鋭い目は、現在から過去を見た。
* * *
かつて、石蕗 萌花という少女が通り魔として人々に殺された。
傷付いた亡骸は、数時間後に家に帰って来た。
両親は泣いた。三才になったばかりの萌花の妹も泣いた。
ただ一人、萌花の双子の姉、澄花だけが泣かなかった。
顔を合わせればすぐに喧嘩、けれどお互いをとても大事にしていた姉妹だった。
その片割れが、殺された。
失意の中で、澄花はある考えに辿り着いた。
仮に、澄花が殺されていても、萌花は同じ事をしていただろう。
犯人を殺そうと考えたのだ。
だが、犯人は捕まってしまった。呆気なく。
澄花の怒りの矛先が消えた。
行き場のない怒りは自分に向かった。
片割れの恨みを晴らせなかった、自分が憎かった。
何も出来なかった自分を嘲った。
駄目な姉だと自分を嘆いて、左の脇腹を裂いた。
涙と血を流して、石蕗 澄花は息絶えた。
* * *
「…はっ、バカじゃない!なんであたしが死んで、アイツが捕まって、アンタまでが死ななきゃいけなかったのよ!」
バカじゃない、と言いながら萌は腹を押さえて笑う。
「…そうよ馬鹿よ。学校から服から何もかも同じが嫌だった癖に、片割れがいないと何も出来なくなる馬鹿な姉よ!
…良いわ」
「何がよ?」
問われたチャコールは、左手の刺青『烙印』を撫でる。
「生意気な妹を躾けてあげようじゃない」
『烙印』から現れた三日月形のブーメランごと、萌を指す。
「だったらあたしはアンタの意味不明な言動を、修正しなくちゃね」
空間に手を突っ込み、金の円月輪を萌は掴む。
「あの…玻璃さんはどうなるんだよぅ…」
おろおろと、蒼良は小さく呟いた。
* * *
萌とチャコール、二人の力は互角だった。
初めてなのに、最初からお互いの力量を知っているかのように、彼女等は戦っていた。
萌は『タレイア』を飛ばし、『エウプロシュネ』で惑わし、守り、『アグライア』で捕縛しようとする。
対するチャコールは、ブーメランに時折炎を宿らせ飛ばすだけで、全ての攻撃と防御にそれを使った。たったそれだけなのに、手際は鮮やかであった。
戦いは長く続き、見守る蒼良はこれがずっと終わらないのか、と思っていた。
その時だった。
「…ははっ!どう、あたしの『エウプロシュネ』は!?
あたしの『アスファルトに染み込んだ血』と、『人のどす黒い感情』から生み出したのよ!」
「…すごいイメージね。ワタシのは、ただ名字と名前の意味からだけよ。天使のあなたみたいに色々な事は出来ないわ」
「それは可哀相にね!!」
そう言い萌は『エウプロシュネ』を走らせた。
【隠密】の力が黒い砂粒を隠し、敵を確実に仕留めにかかる。
勝った、萌がそう思った瞬間、
チャコールがブーメランを空に放った。そして『烙印』を撫でる。
途端、
ズン!!!
と音と共に、見えない圧力が来た。
「!?」
萌はその圧力に足が耐えられず、膝を着く。
一人立ち尽くすチャコールの背後で、鉄球に姿を変えていた『エウロプシュネ』が落ちた。
暗い床が重さにひび割れる。
「…ワタシの名字は侘月。仮名はブーメランを、真名はブーメランから発する光の重力。
月の前に侘びるのよ」
「洒落た名前じゃない、澄花。けどそれじゃああたしを倒せない」
「…名前もあるのよ、萌花。ワタシは侘月・チャコール。…『チャコール』の意味、知ってる?」
数瞬の間の後、萌はその目を驚愕で見開く。
「…!」
「そう、『炭』。相手を消し炭にする炎の力は、名前からなのよ」
言って、足取り軽くチャコールは萌の元へ歩く。刺青をなぞり、赤い炎をその手に灯した。
「さあ、消えて。姉の思いを分かってくれない妹は、ワタシの前から」
真っ赤な左手を、チャコールは振り下ろす。
だが、
「待ちなさいよ、澄花」
「!」
チャコールの動きが止まった。本人が意図した訳ではない。
「動けない…なんで?」
「忘れた?あたしの武器の力。【隠密】よ?
…完全に相手の知覚の外にいる事が出来るの。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚…は関係ないか」
フッと鼻で笑った萌は言う。
「知覚できるあたしには見える。あたしの可愛い『エウプロシュネ』は、今アンタを縛ってる!」
姿を現したそれは、細く長い漆黒の鎖となって、チャコールを拘束していた。
「いつの間に…」
「アンタがグダグダ喋ってるから悪いのよ。アンタの名字の力でこの子が落ちたのは知ってるでしょ?
その後すぐにアンタに絡まるようにしたのよ」
萌はチャコールを『エウプロシュネ』で振り飛ばし、自分から遠ざけると指を鳴らした。スライムのように音を立てずに速やかに、黒い砂粒は萌の元へ這い戻った。
「…アンタが本気を出すなら、あたしも本気で行くわ。フェアに行こうじゃない」
そして、静かに彼女は言った。
「…『グレイス』」
それを合図に、『エウプロシュネ』が動き出した。『アグライア』、『タレイア』に絡まり、形を成していく。
やがて、『アグライア』は真っ黒く染まり、『タレイア』は自身を頂きに置いた杖になった。
「これがあたしの本来の武器、『グレイス』。能力は分解してる時と一緒よ」
「…けど、そんな状態で戦える訳?」
確かに、今も萌は名字の真名の力で地に伏している。
しかし、それがどうしたと言うかのように、その顔は笑っていて。
後ろを振り返らず、萌は蒼良に叫んだ。
「戦えるに決まってるわ。…蒼良!!」
「はいっ!?」
まさか呼ばれるとは思っていなかった蒼良は、頓狂な声を上げて返事をした。
「【狂化】を渡しなさい!」
「え!?ダメだよ!」
否定の声に、猫撫で声で萌は言った。
「…言う事聞かないと、どうなるか分かってるわよね、蒼良ちゃん…?」
「…はい」
「鬼ね、萌花…」
「そうでもしないと、お人好しは考えを変えないからね!」
地面を削って、黒い珠が萌の手に渡る。
それを彼女が握り締めた瞬間、黄色い瞳から正気が消えた。
据わった目で、真っ直ぐにチャコールを見つめたまま、体が動いた。
「!!」
ぎごちなく、足を笑わせながら彼女は立ち上がり、歩く。
「止まりなさい!!」
その言葉と共に、偽りの月光が輝きを増した。
だが、萌は止まらず更に、
加速した。
「何やってんの萌花!?自殺行為よ!!」
「…チャコールさん、ボクのその【狂化】はね…、本人が目的を達成するまで、止まらないんだよ…」
「そんな…!」
チャコールに迫りきっていた萌は、杖を振りかぶり、高速で降ろす。
チャコールはなんとかそれを避ける。
当たらなかった『タレイア』が、地の底の床に当たる。
その時、
バキバキィッ
「…!?」
杖は折れていない。
「…今の…」
「…骨が折れた音だね。あの状態は、加減が出来ないから…」
「…っ!!」
チャコールは恐れを覚えた。
あれに掠りでもしたら、という純粋な怖れと、やられなければ止まらず、妹が傷付くという恐れを。
だからと言って、退けなかった。
真名を使っては彼女の足が持たない。だが今止めては確実に自分がやられる。
仮名では手加減を知らない彼女にブーメランを壊され、彼女自身も腕が壊れるだろう。
「なら…!」
左手を撫で、炎を出す。自身の最大級の規模で。それを投げつける。
萌は当然防御行動に出た。『エウプロシュネ』の強さが混じった『アグライア』が、炎を防ぐ。
だがそこでチャコールの計算が狂った。
『アグライア』が炎を掴んだのだ。
「!!??」
萌は掴んだ炎をチャコールに飛ばした。
火球が黒衣の少女に迫る。
自身の炎で勢いを削ぐが、消す事は出来なかった。
圧倒的な質量の火が、チャコールにのしかかった。
「…う゛っ、あ゛ぁ…」
痛みにもがくが、戦いは終わらない。
ゆっくり、萌は歩み寄り、チャコールの上に乗る。
「萌…!」
「萌、花…、い、いやあぁ…っ!!」
降り上げた『タレイア』の刃が、チャコールの首に向かい、落ち、触れ、
そこまでだった。
先の気になる展開で終了です!
待て、次回!(笑)
閲覧、ありがとうございました。