間章
二月十四日。
私達天使の一番忙しい日。
この日、天使は魔法を駆使してたくさんの人間を幸せにするのだ。
ただ、人間に姿を見せてはならない。
皆、人に見えないように自らに魔法をかけてから人々を幸せにしに行く。
その準備をしている時、蒼良はなぜか暗い顔をしていた。
「どうしたの、蒼良?そんな顔してたら人を幸せになんか出来ないわよ?」
「あ、お義姉ちゃん…あのね「紗良!聞いたわよ?」
萌が私に声をかけて来た。なぜかニヤニヤしている。
「去年、アンタが一番人を幸せにしたんだって?」
「…まあ」
それを聞いた瞬間、萌の顔からにやつきが消え、眉間に皺が出来る。
「『キューピッド』はアンタだったのね!覚悟しなさい!」
「…うん」
『キューピッド』とは、その年で一番人々を幸せにした天使に贈られる称号だ。
それはつまり、天使の中で魔法が一番得意な事を意味する。
「あの謎の能力を持った静歌さまより得意だなんて…」
「静歌さまはいつも参加していないんだって。留守番してるらしいよ」
「へぇ…とりあえず早く行きましょうよ。グズグズしてたら『キューピッド』になれないわよ!」
萌は素早く魔法陣を描き、下界に降りてしまった。
「私は別にどうでも良いんだけど…、あ、蒼良、話があったんじゃなかった?」
萌との会話の間、ずっと口を閉ざしていた蒼良に話を振る。
「あ…なんでもないよ☆お義姉ちゃんに負けないように頑張るね!」
だが蒼良はそれだけを言って魔法陣を描いて行ってしまった。
(…なんだろう?)
その事に気付くのは、数時間先の事だった。
* * *
久しぶりの下界は、とても寒かった。
空は重く、暗く、今にも雨や雪が降りそうだった。
(二月かぁ…)
吐いた息が凍りつく。
二月は一番辛い季節だった。
遥か昔を思い出しそうになり、忘れる為に人を見る。
(今の私には、関係ない…)
けれど、早く暖かくなって欲しかった。
寒空を駆ける中、ある住宅街にさしかかった。
かつて、『堕落』した天使が生きていた場所だった。
その家はどこにでもある普通の民家で、特に何がどうという事もない。
だが私はその中が気になった。
天使の自室だった二階のとある部屋に、魔法を使って入り込む。
「…うわっ」
中は既に物置となっていた。
埃が厚みを帯び、年月を感じさせた。
彼の部屋だったという面影は、どこにもない。
否、私が彼の存在を消したのだから、もう彼が存在したという証は無い。
私は階下の彼の母親が気になって、階段を滑るように飛んで降りた。
彼の母親だった筈の人は、居間でテレビを見ていた。
(……―――)
思いながら、私は魔法陣を描く。
願った事は彼女達の幸せ。
しかし、発動した直後に気付いた。
(…あれ?これ違う、…セアルチだ!)
セアルチ、それは探査の魔法。
自分が知りたい事全てを知れる魔法。
そして脳内に閃く情報は、
『現在、妊娠二ヶ月。当人は未だ発覚せず』
「……」
何故、そんな事が気になったのだろうか、私は全く分からなかった。
魔法陣を描いた時に考えた事を思い出してみた。
(……衛多くんの、存在?)
彼の存在が消えた事による変化。
そんな感じの、とてもぼんやりとしたものだった。
(…私が知って何になるの。…さっさと仕事しないと)
もう一度、彼女に魔法をかけて私は衛多くんの家を去った。
(…生まれてくる赤ちゃんに、悲しい運命が訪れませんように…)
願った事は酷くささやかで。
けれど彼の元に訪れなかったとても小さな幸せ。
表へと出て、私の耳に入ってくるものがあった。
ここから三百メートルくらい離れた地点。
囁くように、だがはっきりとした声が聞こえた。
その声は少女の声。
私はすぐにそこへ飛び、彼女のいる場所―昔人助けをしたマンションに降り立つ。
四階。小さな手を組んで一心に祈る少女が空を見ていた。
大きく丸い目は、鉛色の空をさらに暗く映していた。
姿を見せられない私は、準備の際にかけていた魔法―心の声を聞く魔法だ―に耳を澄ませた。
〈お兄ちゃんたちに会いたいな…お姉ちゃんたちに会いたいな…〉
お兄ちゃんは衛多くん、お姉ちゃんは恐らく私だろう。
だが私はそこで疑問を覚えた。
(どうして、覚えてるの?)
普通、天使に連れて行かれた人間や、連れて行く側の天使は存在が忘れられる。
突然の失踪への対抗策だ。
だが、目の前の幼い女の子は覚えている。
(聞かなきゃ、直接)
私は一階へと飛び降り、少女からは陰になる場所で魔法を使う。
「チェンジ」
私は人間の姿をとった。
この魔法は便利だ。季節の事を考えてくれる。
桜色のフリルのミニワンピースに黒のニーハイソックス、そして焦げ茶のブーツ。
上にはさらに黒い七分袖のカーディガンを羽織っていて、袖は絞ってある。
センスも良いこの魔法を使った私は、少女に見えるように歩いた。
するとすぐに声がかかった。
「おねーちゃん!!」
振り向くと、先程彼女がいた地点には既に彼女はいなかった。
移動する彼女の頭部が見えて、私は彼女が移動しているという事を伺えた。
やがて少女は私の目の前に立った。
相変わらずの長い三つ編みが慣性によって揺れた。
「お姉ちゃん、どこにいってたの!?」
「…ごめん、ちょっと忙しくて…」
「お兄ちゃんも見ないし…、みーちゃ、じゃなかった。わたしさみしかったよ…」
しばらく見ないうちに大人になったみーちゃんは、泣きそうな顔をした。
「泣かないで。ごめんね、みーちゃん…」
私は半べそをかく小さな女の子の頭を撫でる。
撫でながら、私は先程の疑問を口にした。
「ねぇ、みーちゃん。なんで私達の事、覚えてるの?」
「え?なんで?お姉ちゃんたちのこと、わすれたりなんかしないよ?」
さも当然と言うような顔をしながら、みーちゃんは続ける。
「クリスマスのまえぐらい、みー…わたしは、だんだんお姉ちゃんたちのこと、わすれちゃいそうになったよ。
がんばって思いだそうとしても、すぐわすれちゃいそうになったよ。けどね、毎日毎日、がんばって思いだしたら、わすれなかったの!」
(そんな…ありえない)
彼の存在は、そんなにも特別なのか。
親でさえ、彼の事は忘れたというのに。
「ね、お姉ちゃんだけのヒミツだよ。わたしはね、いつもこうなってほしいなって思うことがほんとになるんだよ。
だから今日も、お姉ちゃんにあえたんだよ」
私はそこで思い付く。
みーちゃんも、衛多くんと同じような人間なのではないか、と。
(…まさか。だったらもう既に神様の元よ、みーちゃんは)
考えを消し、私はみーちゃんから離れる。
「そろそろ行くね、みーちゃん」
「…うん、分かった。またね、お姉ちゃん!」
「またね」
私はみーちゃんの目に映らなくなるまで、歩いた。
途中の曲がり角で天使に戻り、再度曇天の下界を翔ぶ。
みーちゃんはずっと、私の去った方向を見ていた。
* * *
二月十四日。
下界では、人が司祭の命日に贈り物をする日。
それも、特定の人物に。
とりあえず、俺には関係のない日。
地獄でも同じだと思っていたが…
「瑠璃…これ」
「玻璃…良いのかい?」
「えぇ。頑張って作りました」
ルリさんの家に遊びに行った時の事。
二人の世界なるものを俺は目撃した。
「昨日は新月だから、君は外に出られないんじゃ…」
「踊飛さんが物を生み出す力の人を紹介して下さったんです」
ルリさんは玻璃さんに礼を言った。
何だろう、この空気は。
「…これ、もう食べた?」
「はい、味見で。…どうかしました?」
「…その、………」
聞こえなかった。
声が小さいのもあったが、俺自身が聞きたくなかったのも少しある。
その言葉に腹を立て、絶交を宣言する玻璃さん。
許してくれと慌てるルリさん。
とりあえず、ここでは関係ない、なんて事はなさそうだ。
どうやらこの地獄にも、『バレンタインデー』はあるらしい。
(…なんであんな歯の浮くような会話が出来るんだ、あの人達は)
聞いてた俺が照れくさく、話していた当のルリさん達は平然としている。
こんなにも、変わるものなのか。
性格も、言動も、立場さえも。
俺は知らず、思っていた。
(…羨ましい)
ぼうっと、二人の様子を見ていた時だった。
「あの…、ナイトさん」
「なにやってんのナイト?こんな所で」
大きな紙袋を揺らして、二人の悪魔がやって来た。
「あ、イリスさん、メシア…、いやあの二人を見てたんだ」
「二人?」
言って、メシアとイリスさんは俺の見ていた方角に目を向けた。
途端、メシアの表情が厳しくなる。
「………ちょっとナイト、あの女の人誰よ」
「天使の、玻璃・ニーダさん。ルリさんの恋人」
「えぇっ!?聞いてないわよそんな事!!」
メシアは二人の元へ走って行く。
そして大声で宣言した。
「ルリはメシアのものよ!!」
広い採石場にメシアの声が響く。
しばらく沈黙が横たわった。
「…ほらルリ。だからこれあげる」
長いと思われたそれを自ら破り、彼女は真っ赤な顔をして焦げ茶色の包みを紙袋から取り出した。
…何故だろう。ルリさんへの殺意が湧いた。
包みを渡すとすぐにメシアはこちらに戻り、
「はい、ナイトにもあげる」
同色の包みを俺にくれた。
…おかしい。ルリさんなんてどうでもよくなった。
「あらあら…、その色はメシアのお気に入りの人にしかあげないのに」
「イリスさま!?」
「あら…、ごめんなさいね、メシア」
そしてイリスさんも紙袋に手を入れた。
俺には手伝い、少し遠くのルリさん達には蠅を通して。
夜空の色をした、星の代わりにラメが光る紙包みを渡された。
「どうぞ…、妾は完全に義理ですが」
「イリスさま、当然ですよ。イリスさまの本命はあのお方だけですもんね」
「そうよねメシア…、さて、ナイトさん」
イリスさんは、俺に声をかけ近付いた。
「少し…、宜しいでしょうか?」
それには、有無を言わせない強い語気があった。
* * *
「ナイトさん…、あの天使の方は、玻璃さんはどうやって此処に来たのでしょう?」
やはりと言うべきか、イリスさんは俺に玻璃さんの事を問うてきた。
さすが魔王である彼女だ、そういった事はとても鋭い。
「すいません。…俺が、『エトワール』で喚びました」
「無断…、ですよね。勝手な行動は慎んで下さいね、ナイトさん。貴方は既にこの地獄の者の一員なのですから」
「…すいませんでした」
厳しい表情をしていたイリスさんは、その言葉を聞いた途端、いつもの柔らかな表情に戻った。
「けれど彼女が此処へ来る事は時間の問題でしたから…、此処で採れる石の力で、何時かは」
「………」
「しかし此の事に気付いたら…、きっと上にいる天使達は妾達を懲らしめに来るでしょう。仲間を拉致した、という事で。その時は」
「…その時は?」
イリスさんの表情は本当によく変わる。
今は何があっても恐くない、そんな不敵な顔をしている。
「妾達は…、全力で抗いますよ。
此処最近のルリさんの顔は、此の数十年間見ていません。それに玻璃さんもとても幸せそうです。
二人の幸せは、妾達や、神であっても、邪魔をしてはいけません」
そう言うと、今度は遠くを見るような表情に変わった。
「妾は遠い昔…、最愛の人を亡くしました。愛する人を亡くす悲しみを、妾は誰にも知って欲しくないのです」
イリスさんはその長く煌びやかな髪を掻き揚げた。
一瞬表に晒された彼女の額には、閉じた目のような傷があった。
「話はそれだけです…、手数をかけました」
俺は一礼して、イリスさんの元を去った。
数歩歩いた時、か細い声が聞こえた。
「ツキ…、そうですよね?」
* * *
今年の『キューピッド』は萌になった。
私に対抗意識を燃やしていた彼女は、人を見つけては願いを叶えていったのだろう。
去年の私も一昨年の『キューピッド』に負けないように、今の萌みたいに頑張っていた。
今年は、ただ早く終わってほしかった。
「紗良!あたしの勝ちね!」
「…うん」
「…どうしたのよ?テンション低いわよ?」
なんだかとても煩わしかった。
理由は、きっと…
「…なんでもないよ」
「カップルでも見たから、だからそんなに暗いわけ?」
「……」
違う。
そうじゃない。
私は、蓋を開けてしまったんだ。
「…私と衛多くんを覚えてた子がいたの」
「ウソ!?そんな事有り得ないわ!
…そういえば紗良の口からあいつの名前なんて、久し振りに聞いたわね」
「…そうだね」
彼がこの世界から消えた日から、私は衛多くんに会いたい一心で使命を果たした。
けれど、あの日から、完全に衛多くんに嫌われた日から私は、こんな風に暗かったかもしれない。
人にばれて醜態を晒すより、仮面を被って過ごした方が楽だと思ったからだ。
昔だってそうしてきた。
けれど、私よりずっと小さな女の子に、私は教えられた。
素直に思いを伝える事が、どんなに素敵かを。
「…寒い中ずっと外で、私達が近くを通りかかるのを待ってたの。私達はもう、存在していないのに…」
「…そうね。…けどアンタも一緒よ、紗良」
「…え?」
まともに見た萌は、とても温かな眼差しを私に向けていた。
「衛多の事、ずっと考えてたくせに。衛多に、傍にいてほしいくせに」
「…え?…私が?」
そうだった、だろうか。
私の中で、私がこんなになるまで、私は彼の事を思っていたのだろうか。
思い返して、導き出された答えは。
「…私」
「ん?」
「…好きだったんだね、衛多くんの事。…衛多くんが悪魔でもなんでも、私は衛多くんが、好きみたい」
「…やっとね。鈍感過ぎるわよ、アンタは」
その時、こみ上げるものがあった。
「…萌、私、衛多くんに、会いたい…。話しかけてほしい…一緒に、いたいよ…」
それは涙。
どうしてだろう、止まらない。
それを聞いた萌は、私の頭を撫でて言った。
「大天使紗良・セイクル様…、今日は何月何日ですか?」
「……二月、十四日…?」
「そうです。私達は何をする日でしたか?」
「…幸せを、送る日…」
そこで、私は気付き始めて来た。
「大天使様の御力は、何でした?」
「…禁呪の使用、他の天使の統率、…下界等の、行き来の自由…」
「地獄もですよね?紗良・セイクル様?」
萌はいつもの意地悪い笑顔を浮かべた。
私も、涙でぐちゃぐちゃの笑みを返した。
「そうだよね。私は、行けるんだよね」
「…そうよ。幸せ、送りましょうよ、アイツにも」
「うん…!」
* * *
私が得たい幸せを、ある一つの形にする。
その為に必要な、感情の抽出。
「エクストラクト」
自分の胸の中央から、淡い色の光が零れる。
私の服と同じ色をしていた。
片手にそれを乗せ、もう片方の手で描いていく。
具現の魔法を。
「カンヴァージ」
思い描く形は、一つの菓子。
甘く、ほろ苦い味を持つ、茶色。
人の思う、心の形に。
飾りでそれを包み、隠す。
「…出来た」
割れ物を扱うように、そっと持ち上げる。
今すぐにでも、届けたかった。
「紗良!」
萌と、蒼良が走って私の元に来た。私と同じように手に包みを持っている。
「…よろしくね」
「………」
黙りこくったままの蒼良を、萌が小突く。
「言いたい事があるなら、早く言いなさい」
「…衛兄ちゃんに、よろしく」
萌は溜め息をついた。
「…とりあえず、お願いね。出来ればここに連れて来てよね」
「分かった」
二人から渡された包みを持って、地獄に向かった。
だが、会えない気がした。
私が初めてここに来た時、私は嫌われてしまったから。
もう来るな、と言われたから。
「…どうしよう」
途方に暮れた私を見つけたのは、
「…どうしました?」
チャコールさんだった。
* * *
チャコールさんに案内され、イリスさんに会った。
「ありがとうございます、チャコールさん」
「いいえ。…では」
私とイリスさんが、部屋に残された。
「どうされました…、紗良さん?」
「…今日は、衛多くんにまた用があって来たんですけど…その…」
「その包みを渡せない…、ですか?」
頷く。
「…この前、二度と来るなと言われましたし…」
「そうでしたね…、なら妾が渡しましょうか?」
「…すいません、お願いします」
出来るなら、私が渡したかった。
渡して、一言でも謝りたかった。
私は三つの包みをイリスさんに渡し、礼を言い、部屋を出た。
帰り際、近くを歩く一組のカップルが目に留まった。
男は綺麗な瑠璃色の髪を持ち、女は真っ直ぐで透き通った白い髪を持っていた。
その女に、違和を感じた。
地獄にいる者は、黒や紫など、暗い色をよく着用する。
彼女の衣服は白かった。しかもどこかで見たようなデザインだった。
(そんな、まさかね)
そう、まさか天使がここにいるなど。
私はそれきり何も思わず、『天界』へ戻った。
もしもこの時、私が彼女に話しかけていたなら。
彼女が天使、玻璃・ニーダと気付いていたなら。
私は何もかもを失わずに済んだかもしれない。
馬鹿な私は、その機会を殺した。
最初で最後の、大きな機会を殺したのだ。
閲覧、ありがとうございました。