七章 前編
地獄の最奥、最も暗い場所に、同じ色を持った霧がどこかから飛んで来た。
霧はその中にいる、一人の人物の元へ辿り着くと、一斉にその者の耳へと飛ぶ。
「…待って下さい…、皆で一斉に喋らないで下さい」
流れるような黒髪が動く。それを、刺青の入った手が止める。
「そこの貴方…、え?自分の名前はスヌル?分かりました、スヌルが代表して喋りなさい」
霧を形作る蝿、それを見る目は紫色だ。
「…ええ…、そうですか、ありがとう。分かりました、では私から会いに行きます」
黒衣を靡かせ、動き出す。
だがそれを止めようとする蝿達。
「大丈夫です…、スヌルの報告通りなら」
数百、数億はいる蝿の群れを愛おしく見ながら、彼女は口を動かす。
「なんだかその少年…、あの人に似てるようですから」
* * *
長い時間歩き続け、俺は一つの黒いドアの群れを見つけた。
(あの場所と構造が似てるんだな)
そう思いながら歩いていたら、そのドアから青年が出てきた。
「今日こそはあいつに…、お前、天使か!?何しに来た!?」
彼が俺を見つけそう言った瞬間、一帯にあったドアから人が一斉に出て来た。
「天使ですって!?」
「俺達を殺しに来たのか!?」
「どうして!?私達が何をしたっていうの!?」
突然の事態に、理解が追い付いていなかった。
「え、えっと、あの…」
悪魔と呼ばれる、黒衣に身を包む者達は、俺を憎しみの目で見る。
俺はろくに人か否かを判別できないのに、環境に慣れている彼等にはよく見えているのだろう。
的確に、俺をその暗い瞳で見遣る。
「消えろ、天使め!」
そう言って、俺を最初に見止めた青年は自身の左手甲の刺青をなぞった。
鈍く、暗い灰色の光を放ったそれは、
「来い!!」
青年の髪と同色の、黒い長剣を現した。
それに乗じて、周りの悪魔達が俺を羽交い締めにした。
同時、短剣が地に落とされる。
俺は死んでいるのに、死を覚悟した。
「ディム…、お止めなさい」
声が響いたのはその時だった。
儚げだが、芯の通った落ち着いた声。
見るとそこには、妙齢の麗人がいた。
「イリス様…」
「イリス様、ここは危険です、お離れを…」
ディムと呼ばれた青年や、俺の周りにいる人々が口々にその人の名を呼ぶ。
青年は持っていた黒剣を刺青に突き刺すようにしまう。
「その方は既に天使ではありません…、『淪落』したのでしょう。妾の蝿達がそう教えてくれました。…そうですよね?」
「『淪落』…?」
俺は問われたが、逆に質問で返してしまう。だが、その人は微笑んで質問に答えてくれた。
「『淪落』は…、こちらで言う『堕落』と考えていただければわかると思います。
まるで悪魔が悪いかのような言い方は、心苦しいですから」
「そうなんですか…、ありがとうございます」
真っ黒いワンピース。白い肌や足元など全く見えない。
見えるとすれば顔と手ぐらいで、それもまるでカーテンかのように長い紫がかった黒髪で上三分の一は見えない。
黒以外の色と言えば瞳の紫と肌の白だけだった。
その瞳の色を笑みで隠して、イリスと呼ばれたその人は俺に告げた。
「ようこそお越し下さいました…、この地獄へ。妾は踊飛・イリスです。
『淪落』された貴方と、少しお話をしに来ました」
* * *
「暗いですね…」
俺はイリスさんと一緒に、彼女の居住空間にいた。
洞窟のようなそこは、俺がさっきまでいた悪魔の居住空間より暗かった。
イリスさんの白い肌がよけいに際立つそこで、俺は真っ黒い椅子に座って喋る。
「そうですか…、まあ、昔はここにも月があり、中々明るい所でしたが、妾はこのぐらいの方が落ち着きます」
「地獄の人は、皆そんなものなんですか?」
「いえ…、昔の方が良かった等、言う人もいますよ」
イリスさんは髪を揺らして笑う。
そこで、はっとしたような顔をし、俺に問うてきた。
「申し訳ありません…、お名前を聞かせて下さい。これからはここの住人なのです、名前ぐらいは聞かないと」
「あ、そうですね。
俺の名前は堤 衛多です。天使の時は衛多・バンクスと呼ばれていました」
「漢字は…、何でしょうか?」
なぜ漢字を聞くのだろう。
気になったが、俺は正直に教える。
「堤防の『堤』に、『多』いに、防衛の『衛』です」
「良い名前ですね…、ではここでの名前は、套生・ナイトでお願いします」
「ナ…!?
何でですか!?」
俺はイリスさんの発言にうろたえる。
なぜ俺がナイトなどという、恥ずかしい名前になるのだ。
「『多』くの人々を『衛』る…、そんな名前だからですよ。もしくは誰かを多くの災難から衛る、だとか。だからナイトが適当な名前なんです」
「…俺、そんなんじゃないですから」
「え…、どうしてですか?」
地獄の最奥である彼女の部屋で、俺は理由を話す。
彼女が話を聞く様子は、地獄の長だとは思えなかった。
だがそう思えない所が、イリスさんらしくもあると、俺は思った。
「―なので、俺はとても大切なものがあるのに、今回も、その前もそれを衛れず…」
「自殺をして…、ここに来たんですね」
「はい。
…泣かせて、しまうんです」
イリスさんはそこで、笑った。
とても優しい笑顔だった。
「…好きなんですね…、その方が」
「…はい」
「今…、ナイトさんは、それを女として、と受け止めましたね?」
俺は、イリスさんと目を合わせる。
違うのか、そう、頭の中で疑問を浮かべる。
「妾は今のは…、その方を一人の人として好きなんですね、と言いました。
その方がどういう立場の人で、どういった方とか、そういったものは一切考えず、ナイトさんはその方が好きなのですね、と」
「………」
俺は何も言えなくなる。
言われてそれに気付く。
確かに、天使だから彼女が好きとか、そういったものは全くなかった。
ただ単純に、彼女が大切だと分かった。
「会えると良いですね…、その方に。
妾は会えませんから、羨ましいです」
寂しそうに、イリスさんは笑った。
俺は、この問題に立ち入ってはいけない気がした。
だから、話題を変える。
「…あの、聞きたい事があるんですけど、その手の模様は何ですか?」
「ああ、これですか…、これは『烙印』と言って、妾達悪魔の力を発現するためのものです。
妾達の力は、天使のようには使えないのですよ」
言って、白い手の甲を見せてくれた。
そこには黒く、何かの模様が描かれていた。
塗りつぶされた丸。その上部には翼。蛇の舌に似たものが丸を囲み、その下は台座のように平らだった。
「これが…、あの、この模様とあの人が使っていた剣はどんな関係があるんですか?」
「それは彼の名前が作り出したのです…、彼の名は弦技・ディム。仮名は糸を操り、真名は剣を生み出すのですよ」
「面白いですね。天使とは全く違う…」
イリスさんは頷きでそれを肯定する。
「そうですね…、天使は神や自分達が作り出す武器と、多様な魔法を使いますね。対する妾達は姓と名の力を『烙印』で具現しています」
「不便じゃないんですか?」
「いいえ…、それしか使えないという事は、その道を高められる事なのですよ」
「なるほど…」
その後も話は弾み、俺はこの地獄に関して色々な事を学んだ。
「お話中失礼致します」
そこに、ノックの音と共に少女が入ってくる。
黒縁の眼鏡に一本の三つ編み。胸を大きく露出させ、袖や足元は和の様相。蠱惑的な容姿だが、彼女自身から放たれる雰囲気でそれは殺されている。
秘書然とした彼女は、事務的に要件を述べる。
「イリス様、天使がイリス様に面会をしたいと」
「ありがとうチャコール…、少し、よろしいですか?」
「あ、はい」
イリスさんは笑みを返した後、チャコールという少女と部屋を出て行った。
チャコールは部屋を出る時、俺を見た。
小さく目を細め、すぐに彼女は去って行った。
(…なんだろ)
疑問に思ったが、彼女も恐らく俺の姿を見て、嫌悪を示したのだろう。
なにせ、まだ俺の格好は天使のそれなのだから。
彼女の事はそれで終わりにして、しばらく俺は闇の中で考えた。
俺は自分を殺してしまった事。
やはり短剣『エトワール』は俺の願いを叶えてくれたらしい。
俺の手の中にあるそれに、少しの感謝をした。
それから、今の俺は悪魔だという事。
やはり自殺をしてしまったのだ、地獄に堕ちたという事だ。
完全に天使とは真逆の存在となってしまったという事を胸に刻む。
試しに指に、魔法の光を灯してみる。
特に意識もせずに光っていた指に、やはり光は宿らなかった。
(…けど)
『エトワール』を鞘から抜いた。
滑らかな刀身は研いだ直後のようで、先程俺がこれで自分を傷付けたとは到底思えない程だった。
不思議に思いながらも俺は柄を握り締める。
(鞘の錆を取りたい…)
宝石が光る。
瑠璃色の石はぼんやりとした光を刃に宿す。
誰かに操られているかのように俺の腕は動き、刃は鞘に当てられる。
光は鞘に伝染し、それ全体に光が移った時、錆だらけの鞘にヒビが入った。
だがそれは錆だけで、錆はポロポロと剥がれ落ち、本来の鞘の色を見せる。
柄と同色の、金色だった。
暗い中での判別は難しかったが、宝石の光で色はなんとなく分かった。
あの天使の武器と対の色。ふとそう思った。
(…『天賜器』は、使えるな…何故か)
その疑問が分かる事はなく、ノックの音に思考は消される。
先程見た悪魔、チャコールだった。
「…天使が、貴方に用があるそうです」
僅かに、指輪が熱くなった気がした。
新キャラ、新たな力等、新たな設定が入りややこしくなりました、すいません^_^;
けれどできるだけ頑張って描いていきますのでこれからもよろしくお願いします。
閲覧、ありがとうございました。