六章 後編
深い海の底から、浮上する感覚。
ようやく慣れた白い光が目を刺す。
自室、ではなかった。
床に寝ている誰かの部屋だろう。
そこで、手の中にあるものに気がついた。
小さな、手袋に包まれた手。
紗良の手。
軽く、手の平に触れている程度だった。
その手をほんの少し握って、紗良、蒼良、萌を起こさないように部屋を出る。
外に出て、そこが紗良の部屋だと知る。しっかり扉を見て閉め、後ろを振り返ると、
静歌さんがいた。
「……!!!!」
「どこに行かれるのですか衛多さん?」
なぜだ。
さっきまで、いなかったはずだ。
「…、えと、自分の部屋に、戻ろうかと」
「すいませんが、私と神様は貴方に用があります。一緒に来てくれませんか?」
断る理由が、見つからない。
なんだか、静歌さんについていってはいけない気がした。
「どんな、用ですか?」
「少し、お話をするだけですよ。衛多さんとは一度ゆっくり喋りたかったので」
「俺の…生命力について、ですか?」
静歌さんは、深く頷く。
「そうですね。あなたは特殊ですから。
もっとよく、知りたいですね…」
俺は、手を気付かれないように後ろに持っていき、魔法陣を描いた。細心の注意を払いながら、小さいが、思いを込めて。
「俺も静歌さまや神様とは一度しっかり話をしたいと思っていたんですよ。
どうしてこんなに俺に付きまとうのか、ってね」
「あら、それは衛多さんが特異な存在だからですよ。
…ところで」
「はい?」
俺の魔法陣はもう完全に出来上がっていた。後は合図の言葉を言うだけだ。
求める力は状況の打開。
息を吸い、
「何をしても、無駄ですよ?」
パリン、とガラスが割れたような音。
嫌な予感が背を走る。
恐る恐る、後ろを見た。
無い。
あるはずの魔法陣が、無い。
それは、砕かれていた。
「な……」
前を見ると、いつの間にか彼女の手には一振りの剣。
青白く光る、両刃の、魔法で出来た剣。
「私は、神様から特別な力を授けられています。魔法陣の作成、呪文の詠唱なしでの魔法の発動です」
「…静歌さま、だけなのか?特別な力って…」
「いえ、大天使なら必ず与えられる力です。私達はその力の事を『福音』と呼んでいます」
魔法ではない、大天使だけの力。
敵わない、俺はそう思い始めた。
「…」
「尤も、その力は一人に一つだけです。私はこの力…【金糸雀】だけです」
つまり彼女は、魔法のエキスパート。
「魔法は意味がない、か。
…だったらなんで、静歌さまは以前、魔法陣を描いていたんですか?」
「当然、自分の手の内を分からせない為です。
貴方は危険な存在。多大な生命力を維持するだけでなく、それを生み出せるなど…神様を悩ませる貴方は、危険なのです」
「静歌さま…」
静歌さんは、とても美しい笑顔を俺に向け、話す。
「そろそろお喋りは終わりにしましょう。
…来て下さい」
途端、彼女の背後から無数の光輝が姿を現した。
後光のようなそれは、俺を包み、囲み、縛り付けた。
フフフと笑う彼女を俺は、恐ろしく思った。
* * *
青白い光から解放された俺は、睨みつけるように前方を見た。
重い空気が、そこにある。
「神様、彼をいかが致しましょう?」
―…そうですね…。―
何も見えない、ただ空間が横たわるだけの、この場所。
静歌さんは確かな眼差しで、ある一点を見ていた。
「…何がしたいんだ。俺は、普通に生まれて、普通に生きて、危ない目には何度もあったけど…
こんなに責められるような事は一度もしていない」
―…危ない、目?―
「昔から、色々と死にそうな目にあってきて、その度に何とか助かって来たんだ。
…神様、あなたは神様なのに知らないのか…?」
その時、厳しい声がかかる。
「衛多・バンクス。先程からのその無礼な態度は何ですか」
いきなり、静歌さんの持つ空気が重くなった。
「静歌さま?」
俺は思わず聞いてしまった。
まるで人が違かった。
普段の彼女の、あの柔らかな雰囲気が感じられなかったからだ。
俺の疑問を知ったかのように、神様が答えた。
―それが彼女、静歌・キャロル、
いや、『神の恋人』マリア・ブレスです。―
「『神の恋人』?…マリア・ブレス…?」
その語が出た途端、あの怖い気を持った静歌さんはなぜかなりを潜めてしまった。
長い銀髪が、顔を隠している。
―永遠に神に愛される存在、それが『神の恋人』です、衛多・バンクス。
下界にいる時は神の加護を受け、この場所にいる時は神様の寵愛を受ける者の事です。
…前世でも来世でも、どんなに悪魔として『堕落』しても、ずっと…。―
「そんな事、大嘘ですけどね…」
「…?」
小さく、静歌さんは呟いた。
それに構わず神様は続ける。
―マリアはそれの、ある禁を犯しています。
…神以外の者を、愛してしまったのです。―
「え?それがどうして…
…神、以外?」
クスクスと、笑い声がした。
―『神の恋人』は、神以外を愛する事が出来ません。
…そして、私は神ではありません。―
言った直後、眩い光が辺りを包んだ。
黄金色のそれはあまりに眩しく、俺は目を閉じた。
光が弱まった頃、俺は固く閉じた瞼を開いた。
そこには、美青年がいた。
中性的な顔立ち、輝く金の髪、深い青の目、絹のような光沢を持つ長い衣。
「神と」思ってしまう程、神様でなかった神様は、美しかった。
「今日は、衛多・バンクス。私は原初の天使、シン・クリストです。」
「…こんにちは…」
俺の言葉を聞いたシンさんはにこりと笑い、言葉を紡いだ。
とても綺麗な笑みだった。
「先程の話ですが…、貴方の力である生命力は、その多くの死と向かい合ってきた為に、貴方自身を守る故に創造、増加したのでしょう。
全ての原因は貴方のその、運命にあるのでしょう。」
運命。
そう言ってしまえば全てに合点がいく。
だが俺はそんな言葉で終わらせてほしくなかった。
「…俺の生命力は、人並みになりますか?」
諦めが悪い、そう思えた。
けれど、希望がわずかでもあるならそれにかけたかった。
「ええ。」
意外にも、答えはあっさりとしていた。
続きは当然ながらあったが。
「ですが、難しい問題です。
生命力はあなたのその肉体が変わるまでそのままでしょう。
なので…。」
「…なので?」
「生まれ変わるしか道はありません。
そうなると全てを失いますが…」
それはつまり、記憶も何もかも全部失うということ。
俺の答えは決まっていた。
「それは、嫌です。
だったらまだ、天使として働いて、人の命を奪った方がいい」
失うのは、もう嫌だった。
「とても大切なもの」がやっと分かったから、失わずに衛りたいから。
彼女の笑顔を、衛りたいから。
「今の貴方は下界から忘れられたようなものです。戻ろうと思えば…」
「それは転生なんでしょう?
…だったら忘れられたままでいい。」
「…そうですか。」
神様の、いや、シンさんの言葉は酷くあっさりしていて、
「…ならば、排除します。」
簡潔だった。
「…え?」
「貴方は本来ここにはいられない。
生命力を人並みに戻して、有無を言わさず転生して帰ってもらう筈が、特異な体質で更に転生をしたくないと言う。
かといって『堕落』はさせられない、する術がない、出来ない。
なら私達の手で貴方を消す外ありません。」
シンさんは早口でまくしたてた。
理解が追いつかない。
「は?意味分かんないですよ。
どうして消されなくちゃいけないんですか?」
「今言ったでしょう。
それに、私達とこの世界の決まりだからなのですよ。」
静歌さんは、シンさんがそう言うと音もなく動いた。
俺はそれに気付き、身構える。
彼女は俺の額に指を一本当てた。
「…なん、だ」
虚勢を張る俺に、静歌さんは笑いかけ、情けのつもりか、呟いた。
「ヒプノタイズ」
俺の意識は瞬間、闇に堕ちた。
* * *
意識の急激な上昇。
(いけない、寝ちゃってた)
慌てて横の衛多くんを見た。
いない。
(逃げられた!)
私は飛び起き、蒼良と萌を起こした。
「ふぁ…、なに?おねえちゃん…」
「人が寝てるってのに…一体何よ?」
「衛多くんが、逃げたの!!」
その時、ノックの音がした。
酷くはっきりと聞こえた。
「…どうぞ」
扉を開けて入って来たのは、静歌さまだった。
「静歌さま!
…すいません、衛多・バンクスを逃がしてしまいました」
「大丈夫です。私が紗良さんの部屋から出て来た彼を捕まえましたから」
良かった。彼は逃げていない。
「ありがとうございます」
湧き上がった感謝の思いをそのまま口にする。
「ただ彼は、神様に反抗する素振りを見せました。
一度は神様も彼を許そうとしましたが、反省の色がないので、今は眠らせて夢の中で反省をさせています」
夢の中での、反省。
どういったものかは分からなかったが、神様のした事だ、正しい事なのだろう。
「そうですか。
彼に会う事はできますか?」
「出来ません。目覚めた後、また彼は暴走するかもしれません。
危険なのであまり外を歩き回らないようにして下さい。」
危険なら、静歌さまの意見に従った方がいいだろう。
大天使の言う事はいつだって正しいのだから。神様と同じぐらいに。
「はい、分かりました」
静歌さまは頷き、殆ど音を立てずに扉を閉めた。
「…お義姉ちゃん」
蒼良が話しかけてきた。強い口調で。
さすが私の義妹。
分かっている。
「えぇ。もちろん衛多くんを探す。
萌は?」
蒼良は聞かなくても分かっている。私に声をかけたのがその証拠だ。
萌は一度大きく嘆息をした。
「退屈だから、付き合ってあげるわよ」
「ありがとう」
「お礼なんて良いから、早く探しに行きましょ。
衛多が起きたら、神様達、何をするか分からないし」
そうだ。もしかしたら暴れたらしい衛多くんを無理やり転生してしまうかもしれない。
それは嫌だ。何故だかわからないけれど。
「うん。
…行こう」
私達は扉を開け、彼を探しに自室を飛び出した。
いくら神様や大天使達が正しい事を言っても、正しい事なんて本当はどこにもないのだから。
私は、私が正しいと信じた事をする。
結局、最後に決めるのは他ならぬ自分なのだから。
だがその行動が、後悔を生み出すなど、誰が予想出来ただろうか…?
* * *
夢だ。
フワフワとした、明らかに確かではない感覚。
水の中にいるような、宙に浮いているような心地の中で、俺は物語を見せられていた。
壁画みたいな、たくさんの絵が目の前を通り過ぎていく。
それは、この場所の歴史。
神が治める、人の安息の地。
争いを知らない、魂の居場所。
何不自由ない、使者の街。
穢れを見ることのない、天使の家。
きっと、これを見せられた者は、神様は、神に護られたこの場所は、とても素晴らしいと思うかもしれない。
下界には色々なものが満ち、魅力溢れる所だと思うかもしれない。
だが、俺はそれを見、知り、何故か嫌悪の念を抱いた。
何故かとても不愉快に感じた。
早くここから抜け出したかった。
足掻いても夢からは逃れられず、気持ちの悪い話は続く。
やがて、話が終焉を迎えた時、ようやく俺は目を覚ますことが出来た。
全身に脂汗をかいていた。
疲れた時のように息が荒い。
数分かけて落ち着きを取り戻し、周りを見渡した。
「ここは…」
倉庫のようだった。
一面の白の中に、たくさんの色を持った物達がある。
剣もあれば、小さなフラフープのようなものもある。
「武器庫、になるのか?」
俺は立ち上がって、探索を始めた。
一つの武器を手に取り、見回してみる。
小瓶の中に虹色の砂が入ったものだった。
瓶には紙の札がかかっていた。
「えと…、『エンチャントレス』…能力…【幻覚】…、色々あるんだな」
「幻覚」という単語で、俺は悪夢を思い出した。
洗脳されたような気がして、俺は気分が悪くなった。
倒れこむように床に座る。
ふと目を開けた時、一本の短剣を見つけた。
錆びついた、汚らしい、刃渡り十五センチ程のそれは、俺を誘うように、なぜか汚れ一つ付いていない柄を光らせていた。
まるで、誰かが、俺が手に取るのを待っているかのように。
俺はそれを手に取り、剣を抜いた。
刀身は傷一つなく、ただ青ざめた俺の顔を映していた。
小瓶に付いていたものと同じ紙の札が、能力を伝える。
「…『エトワール』…【成就】…」
能力の名前からして、願いを叶えてくれるらしい。
札の裏を見ると、扱い方が書いてあった。
「…なんだ、短剣を握って願うだけで良いのか」
随分と簡単な使用法に、俺は少し拍子抜けした。
気を取り直し、紙の札を取り外して俺は『エトワール』を握って考えた。
(このままここにいても、きっと静歌さんやシンさんに利用される。
こんな場所にいたら、俺が俺じゃなくなる…)
剣を握る手に力がこもる。
「…ここから、抜け出そう」
その途端、柄頭に嵌められていた宝石が光った。
夜の星空を宿したその宝石の光は、俺を魅了する。
気がつけば、切っ先は俺の胸の前にあった。
慌てて腕を動かそうとしたが、どうにもならなかったので、冷静になる。
ジワジワと、剣は俺に近付く。
そこで、俺はある事に気が付いた。
(もしかして…これが今俺の望んでる事?)
このまま剣が俺の体に刺されば、俺は間違いなく死ぬ。
死ぬという事はつまり、ここではないどこかへ行くという事。
つまり、願いが叶うのだ。
『エトワール』は確かに、俺の願いを叶えようとしているのだ。
それなら。
(ここから抜け出せるなら…死んでやろうじゃねえか)
転生ではなく、只の死。
神様達の思う通りになんか、なるものか。
一瞬、泣きじゃくる天使の姿が頭に浮かぶが、俺は迷わなかった。
(大丈夫、失ったりしない。
ここから、抜け出すだけだから…)
目を瞑り、覚悟を決め、手を自分の体へと引き寄せた。
遠ざける事は出来なかったのに、それはとても簡単に出来た。
ドスッ、と鈍い音がした。
痛みが胸に走る。俺は仰向けに倒れた。
天井は、やはり白い。床は、俺から出た血で赤かった。
(血なんて、あったんだ…)
熱がゆっくり消える体を感じながら、見えなくなる世界をぼんやり見つめた。
(…それにしても、行かないな。
…死ねば、帰れるのかな…)
まともに考えられなくなってきた頭で、この先を考えた。
(…早く、帰り、たい、な。…おれの、へや、に…)
それが白い世界で、最後に思った事だった。
長かった六章、いかがでしたか?
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閲覧、ありがとうございました。