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画竜点睛

作者: 試作439

画竜点睛=完成に絶対必要な最後の仕上げ

「ごぶっ、か……辛い! 痛い!」

 口に入れた魚と豆の煮物が舌を痺れさせる。えもいえぬ凶悪な刺激に、ウタゴは目を白黒させながら叫び声をあげた。

 はっふ、はっふと、溺れている魚のように口を動かし、手元にある木製のカップを口に傾けるウタゴ。直後にそれを、顔の真横に噴き出した。

「ぶっふ、こっちも辛い! このスープも変だよ。なんだよこれ、おかひいよ」

 目じりからは涙が垂れ、唇がみるみる赤く染まっていく。

 鼻をすすりながら浅黒い顔を上げたウタゴは、調理場の陰に隠れるみっつの小さな頭を見つけた。

 半分だけこちらを覗くそれぞれの目元はいやらしい。

 頼んだ料理にいたずらをされたと、ウタゴは瞬時に察した。

「こら、またおまえらの仕業だな、テマ、トルール、ノッコ」

 ウタゴが声をかけると、海岸食堂に住まうじゃじゃ馬三姉妹は、白く健康な歯を見せながら全身を現した。髪の色こそ違いがあれど、目鼻立ちはそっくりだ。ウタゴはどこか遠くの土産物店で売られていた、人形の頭をはずすと中から一回り小さくそっくりな人形が現れるおもちゃを思い出した。それが三つ、横にすらりと並んだかのようだ。

「実に無様だったわねウタゴ。涙と鼻水で顔を濡らす様は泥のように醜くかったわよ」

 三姉妹の長女である金髪のテマが、九歳らしからぬ酷薄な目でウタゴをねぶりつくす。椅子に座っているウタゴと目の高さはさほど変わらない。だがウタゴは高い位置から見下ろされているかのような圧力を感じた。

「なるほど。さすがは国内一の辛さと言われる香辛料B・ブレインブレイク。害獣避けにも使われるだけのことはある。すさまじい効果だ」

 瓶底眼鏡をキラリと光らせつつ、次女である赤髪のトルールがウタゴを観察する。トルールは七歳とは思えないほどに好奇心旺盛で実験好きだ。今夜、トルールの絵日記には、ウタゴの苦しむ姿が書き加えられるはずである。

「……ウタゴ、顔おもろ」

 末妹のノッコは、肩をふるわせながら口元を押さえている。黒髪のノッコは五歳。最近は帽子が落ちても笑い出す。辛さに身悶えるウタゴの姿は、ノッコの笑いのツボを適度に押したらしい。

「おまえらねえ、俺は仮にもお客さんだぞ。この店にとっては貴重な収入源だ。客に出す料理にいたずらなんかして良いと思ってるのか」

 テーブル脇に備え付けてある別のカップに水を注ぎ、口と喉を洗い流したウタゴは、あきれながら三姉妹に声をかけた。ところが三姉妹は、どこふく風といった態度を崩そうとしない。

「仕方がないじゃありませんの。つい先日、珍しい香辛料を手に入れてしまったのだから」

「聞けば小さじ一杯で死人も飛び上がるほどの辛さだというではないか」

「……誰かで試さないと、お客さんに出せない」

「俺がそのお客だ!」

 ウタゴが叫ぶと、三姉妹は頭痛がするといったポーズでため息を返してきた。

「これはおかしなことを。ウタゴはウタゴですわ。あたくし達を癒す人形ね。決してお客様ではなくてよ」

「そうそう。我々にとってのモルモット、じゃなかった、マスコット。自覚が無かったのかい?」

「……おもちゃ」

「おまえらねえ……。ああもういいよ。この辛味にも慣れてきた。っつーかブレインブレイクって酷い名前だな。本当に口に入れて良いものなのかよ」

 ウタゴは辛い食べ物を苦手にしている。だが、そのことを三姉妹には伝えていない。浅黒い肌をしているので、香辛料をばかすか入れた食べ物に慣れていると勝手に思われたのかもしれない。

 味以外にはおかしな所の無い海岸食堂のありふれた海鮮料理を、少しずつ口に運び消化していく。皿の上の料理が胃や喉で暴れ踊り、額から汗を噴出させる。

 そんなウタゴを、三人はニヤニヤと笑いながら見つめている。

 子供ならニコニコしろよ。なぜそこまでゲスい顔できるんだ。

「こら、チビどもー。あんまりウタゴ君をいじめるんやないでー」

 海岸食堂のおかみが調理場の奥から三姉妹を叱った。

 ところが三人はどこふく風といったすまし顔だ。

 村に唯一の宿泊宿を経営するかたわら、宿の一部を食事処として開放している働き者のおかみも、三姉妹の奔放ぶりには手を焼いている。

 ウタゴは三姉妹を威嚇しながら食べる速度を早めた。三人はウタゴの目の前から離れようとしない。それどころか隙を探している雰囲気を放っている。

 一瞬でも目を逸らしたら、香辛料を更に加えてくると思う。隙を見せてはならない。ウタゴは左手でお椀を守った。


 テマ。トルール。ノッコ。

 三人に親はいない。

 四年前、軍で働いていた彼女らの両親は、事故により夫婦揃って亡くなったそうだ。当時は年長のテマですら五歳。頭の良いトルールは両親の面影を記憶に残しているかもしれないが、ノッコは間違いなく覚えていないだろう。三姉妹はその後、遠縁にある海岸食堂のおかみに引き取られた。

 この国はとても裕福だ。飢えとは無縁で疫病も少なく、国民への手当ても厚い。両親を失った三人には、莫大な遺産と恒久的な恩給が約束されている。

 海岸食堂と宿の経営で成功を収めているおかみ共々、金銭的には不自由の無い生活を送っているように見える。

 だがやはり寂しさもあるのだろう。三人はかまってほしいのだ。

 村にいる男の中でもウタゴはかなり若い。さらに、三姉妹よりも遅れてこの地に移住してきた後輩だ。いたずらを繰り返すのは好意の裏返しと、ウタゴが思っていたのも今は昔。


「ウタゴ、何か体に異常を感じませんの?」

「んあ? なんのことだ」

「件の香辛料は、摂取すると夜に元気の無い男性に活力をもたらすはずなのだが」

 そこで、ウタゴはスプーンの上下を止めた。同時に、自身の体から叫び出したいパトスが膨れ上がっていることに気付く。

「おまえらっ、昼間だってのになんてものをっ!」

 顔を赤らめながら料理の代金をテーブルに叩きつけると、ウタゴは香辛料の効能が切れるまで村の広場を走り続けた。

 すっかり威厳を失っている青年が、三姉妹にからかわれる日々。

 そんな振り回される日常が、村では当然の光景だった。

          



 ウタゴが村に移住してきたのは二年前の冬。ちょうど秋の漁が終わりにさしかかった頃のこと。

 きっかけは、曲芸飛行士として脂が乗っていた時期に聞いた、おかしな飛行場があるという村の噂話であった。

 なんでも、海に対して滑走路を斜めに作ってしまったのだとか。海風を考慮しなかった結果、離着陸に高い技術の必要な飛行場になってしまったらしい。

 腕が鳴った。いつかは俺もそこで力を発揮してみたいとウタゴは考えた。しかしながら、ウタゴが村を訪れたのは、飛行機には乗りたくないと決意した後、放浪の旅をしている時であった。

 国の中で最も西岸にあるこの村は、人口が千に満たない。巨大な崖と果てのない海に挟まれた陸の孤島は、鰻の寝床のように狭くて長い。村中どこからでも西の海に沈む夕日を堪能できる。そんな場所だった。

 高低差の激しいこの国では、海産物に価値が出る。高所の盆地にある都市部では、貝殻すらも芸術品として扱われた。中型の青魚や浜で採れる星の形をした石ころ。価値の低そうな品々が高地の町では飛ぶように高く売れる。村はことのほか豊かで潤っていた。

 人や時間がゆっくりしているのに裕福で余裕のある感じ。田舎の退屈さや不便さを抜きにしても居心地がよく、ウタゴは村を気に入った。

 とはいえ、その時のウタゴは移住しようとまでは考えてなかった。村に住むとなると、おそらく漁師の技術を身に付ける必要がある。漁にはコツや勘が必要だろう。長く続ける自信が無い。当時のウタゴは生きる気迫が足りなかったのだ。

 そんなウタゴの気持ちが移住に傾いたきっかけは、チャク管理者を募集する張り紙を見つけた時だった。

 巨大で温厚な六足の家畜チャクは、交易で成り立つこの村には必要不可欠な存在だ。 

 村を正午近くまで太陽から遮る大陸の断層。その高低差は数千メートルに及び、隣の町に行くには何キロもつづら折りの悪路を上らなければならない。車での移動は難しく、人力で荷車を引きながら行き来できる距離でもない。そこでチャクの出番になる。温厚な家畜を使った移動は、この地域で数百年前から続いている文化だった。

 元々チャクは、国家が保有している使役動物だ。ウタゴがチャクに騎乗して移動する必要は無い。求められていたのはチャクを管理する飼育員だ。これならば俺でもできると、ウタゴは村での定住を決意した。

 飛行機や船に乗るよりも地に足をつけて生きたいと願っていたウタゴにとっては、出会うべくして出会った天職であった。

 チャクにエサを与え、海岸食堂で食事をして、いたずら好きな三姉妹にからかわれる毎日。ウタゴは今の平凡な生活がとても気に入っていた。


「やっ。元気でっかウタゴはん」

「おはようございます。お早い到着ですね」

 ウタゴは隣町から山際を降りて村に来たチャク乗りの男に声をかけた。すると男は笑い声をあげた。

「もうすぐ昼やで。まだ時間の感覚に慣れてないようやな」

 男に言われて、ウタゴは自身の額を叩きつつ、はにかみ笑いを浮かべた。

 東にある巨大な断層の影響で日照時間の短いこの村は、朝が遅く夜も遅い。薄暗く見えても、昼に近い時間であることが多いのだ。

 飛行機に乗っていた頃の朝が早い生活とのずれは、二年経っても慣れないな。荷車から村に運ばれてきた物資を下ろしながらウタゴは思った。

「海岸食堂で一緒に昼飯でもどうですか」

「いや。今日は鳥害対策の罠作りで忙しいんや。嫁に作ってもらった弁当があるから、帰りのチャクの上で食うことにするよ」

「さすがに往復で何時間もチャクに乗りっぱなしは尻が痛くなるでしょう。本当に休んでいかなくて良いんですか?」

「ああ。最近はドラーが子供のチャクに怪我を負わせる被害が増えてるんでな。ドラーが増えるとグライダーを町に連れてくるかもしれへん。早めに対策しておきたいんや」

「グライダーですか。たしかにそうなったら大事ですね」

 高低差の激しいこの地域は、鳥の楽園と呼ばれている。魚を食べる野鳥が多いのだが、それらを狙う肉食の鳥も住み着いている。その中でも特に凶暴で手がつけられないのがドラーと呼ばれる中型の肉食鳥だ。襲う対象には見境が無く、農作物やチャクの子供といった家畜も被害に遭う。だが、ドラーは群れにならない限り人にとっての危険は少ない。本当に恐いのは、ドラーの天敵であるグライダーと呼ばれる大型の鳥だ。羽根を広げると小型飛行機の片翼ほどもあり、縄張り意識がとても強い。ドラーが増えすぎるとグライダーが過敏になるのだ。凶暴化したグライダーは手がつけられない。それは、山道を往復するチャク乗りには恐い存在であった。

 こういった生態ピラミッドについては、ウタゴが村に住み始めた後に知ったことだった。ウタゴはグライダーの話を聞いた時、曲芸飛行士の頃に聞いた危険な飛行場の噂話には、鳥についての説明が抜けていたのかもしれないと察した。海風に対して斜めに作ってしまった滑走路だけではなくて、鳥が多いことも、飛行機にとっては十分に脅威なのだ。

 そう。鳥ほど危険なものは無い。

 鳥は操縦者の命すらも奪い去る……。

 血にまみれた長い黒髪と、飛び散る白い羽根。

 ウタゴは目を閉じて深く息を吸い込み、まぶたの裏に流れた光景を心の奥底に閉じ込めた。

「村から町への荷物でしたら、既に荷車に積んであります。いつでも行けますよ」

「おや、一人で大変だったやろ。ウタゴ君は本当に段取りがよくて助かるわあ」

 町から村へと降りてきたチャクはウタゴが預かり、村から町への荷物を積んだ別の荷車を、村で管理している休養十分なチャクに繋げる。町から降りてきたチャク乗りの男は、ウタゴの用意したチャクに騎乗すると、すぐに町へと出発した。

 チャク乗りと別れたウタゴは、町から村へと下る坂で歩き疲れたチャクに水と食べ物を与えた。チャク小屋の糞や毛の掃除は既に終えてある。これで一日の仕事はほぼ無くなった。

 ウタゴは背伸びをして腰を伸ばすと、チャク小屋の先にある飛行場の格納庫を見つめた。

「さてと。ここからはお楽しみの時間だ」


 村に住むことが決まり、チャク小屋管理の仕事に就いた時、すぐ隣にある半ば放置された飛行場の管理業務も自主的に請け負った。

 報酬は無いに等しい。だが、備品を持ち出さないのならば、場内のあらゆる物に手を加えることは自由。村から出された条件に、ウタゴは一も二もなく頷いた。

 断層の風化により降りかかる塵の影響で、この村全体はやや砂っぽく、滑走路にも砂埃が溜まりやすい。飛行機の発動機が故障しやすい環境だった。

 飛行場が作られた時、村が購入した小型の木製プロペラ機は、数度の飛行で不具合が生じたらしい。立地環境の厳しさもあいまって、故障した機体は格納庫の奥に放置されることとなった。

 だが、ウタゴはそれを修理できる知識と部品を保持していた。

 ウタゴが訳あって私的に買い取っていた飛行機の部品と、村にある壊れたプロペラ機。それらを組み合わせることにより、一機のプロペラ機として新たに生まれ変わらせる。

 チャク管理という時間を持て余す仕事の片手間に続けている日課であった。

 先日、ついにそれが完成した。

 最近のウタゴは、木製の小型プロペラ機『ヴァレット号』を何時間も見つめながら過去の思い出に浸り続けるという、人生に満足した高齢者のように穏やかな日々を過ごしていた。


「って、あひゃあああっ、俺のヴァレット号がああっ!」

 格納庫に入ったウタゴの目に飛び込んだ、ヴァレット号の姿。

 木製の機体の横に描かれた白い弾丸ヴァレットが、昨日までの特徴だった。だが、いま目の前にあるヴァレット号の横には、弾丸ではなくて魚のホネが描かれていた。まるでみすぼらしい海賊のようだ。

 機体の横には腰に手を当て、やり遂げた感を隠さないテマと、瓶底眼鏡を光らせながら染料の合成を楽しんでいるトルール。

 テマは絵を得意にしていて、村の防波堤に一晩でタコの群れを描きあげたこともある。そして、トルールは飛行場にある溶剤で塗装を落とす知識を持っている。

 トルールが弾丸の絵を剥がし、その上にテマが絵を描いたと、ウタゴはすぐに理解した。

「あらウタゴ。ごきげんあそばせ。いかがでしょう、あたくしの華麗なる美は」

「なっ、なにが華麗なる美だ。なんで前のかっこいい絵を消したんだよっ」

 ウタゴが悲しげに抗議すると、テマは雷に打たれたかのようによろめいた。パイプオルガンのレクイエムが似合いそうな、衝撃を受けた表情だ。

 テマのオーバーな動きはすなわち、ウタゴから絵を褒められると思い込んでいたことを意味していた。

「今の平和な時代に、銃弾なんて物騒な絵柄は合わないだろう。我々の心遣いが理解できないとは、なんて狭量なのだ君は」

 トルールが幼子をあやすかのように、ウタゴに声をかけてきた。

 あれ? なんで俺が怒られてるの? と、一瞬混乱するウタゴ。

「いやいや。たしかにテマの絵は写実的でとても上手だ。だからって魚のホネで重ね描きはないだろう。描きたいものを描きすぎだ。ちょっと悪者っぽいデザインになっちゃってるじゃないか」

「仕方ないでしょう。弾丸の白い染料が完全には落ちなかったのですもの。前の絵の痕跡を上手に隠すにはこれくらいしか描けなかったのですわ」

「そうだぞ。ウタゴは資材の不足を反省したほうが良い」

 テマとトルールはとても不満げだ。腰に手をあて、軽く首を振りながら、目を細めてウタゴを見つめてくる。

「おまえらなんだそのふてくされっぷり!」

「どうせ村からは飛行機を好きにして良いって言われてるんでしょう? 固いことは言いっこなしですわ」

「そうそう。ウタゴの物は我々のもの。我々のものは我々のもの」

 押し問答を繰り返すうちに、ウタゴは諦めた。

 たしかに、飛行機は故障していたので、誰が何をしてもかまわないことになっていた。現にウタゴも好き放題に手を加えている。二人の言い分も的を射てる上に、口喧嘩では決して勝てないと学んでいた。

 ヴァレット号改めフィッシュボーン号……。

 少し考えて、名前までも改名する必要は無いとウタゴは気づいた。

 俺だけはヴァレット号と呼び続けてやろうと、ウタゴは魚のホネに誓う。

「それはそうと、もう一人のいたずら娘はどこいった。見えないな」

「あら、そういえばそうですわね。絵を描くことに夢中で気付きませんでしたわ」

 三人でノッコを探していると、格納庫の外に小さな影が立った。

「……見つけた!」

 ノッコの顔は興奮して赤らんでいる。

 その胸には、とても目つきの悪い虹色の鳥が一匹。

「おお珍しい、カカコワではないか」

 トルールが大声をあげてノッコに近づく。ノッコはカカコワを抱きしめながら軽く後ずさった。実験好きのトルールに何かをされると疑ったらしい。だが、トルールが頭を撫でる様子を見て安心したようだ。ノッコの顔から緊張が取れた。

 カカコワとはこの地域における最弱の鳥で絶滅危惧種だ。鳥ではあるが、翼は退化してて空を飛べない。動きも遅く、天敵のドラーに襲われやすいのだ。

 ちなみに最大で子供の上半身ほどにしか成長しない。目つきは悪いが鳴き声が美しくおとなしいので、裕福な家庭のペットとして人気だった。

「ぴゅいん、ぴゅいいいん」

「わあ、鳴いた!」

「なんて美声なのでしょう」

 三姉妹はかわるがわるカカコワを撫で回す。かなり太めのカカコワは心を許しているのか、羽根を広げてなすがままにされている。愛想を振りまいているのかもしれないが、目つきはとても悪い。若い娘にマッサージを強要している悪党にみえなくもない。

「ノッコ、こいつどこで見つけてきたんだ?」

「……あっち」

 ウタゴが尋ねると、ノッコはチャク小屋を指差した。

「ふうむ。ひょっとすると、町から来た荷車の荷台に隠れていたのかもしれないなあ。人懐っこいし太っている。誰かが飼っている奴かもしれない」

「あら。カカコワは野性でも十分に愛嬌ある姿ですのよ。ウタゴはご存知無いのかしら」

「そうそう。それに最近はドラーが増えているらしいからね。自力で逃げてきた可能性も高い」

 ウタゴは町で飼っていた者がいないか確認する必要があると思ったが、テマとトルールは不満げだ。

「……うちで飼うの」

「ぴゅいんぴゅいん」

 ノッコが腕に力を加えると、抱えられてるカカコワはやや苦しそうに鳴いた。

          



「まあええやん。商売繁盛に一役買ってくれるなら、カカコワの一羽二羽飼うくらいどってことないわ」

 と、その日の夜、海岸食堂のおかみは夕飯をたいらげているウタゴに言った。

「もぐもぐ。ごちそうさん。そもそもあの三姉妹のほうが、カカコワよりも飼育が面倒ですもんね」

「かっかっか。三人の耳に入ったら酷い目にあうのはウタゴ君やで。口は災いの元」

 おかみが自身の唇の前に両手のひとさし指を交差させた。

 食堂に他の客はいない。自炊する者の多い村であり、毎日通うのは独身のウタゴくらいだ。観光シーズンでなければ宿に泊まる客も少ない。おかみは商売繁盛という言葉を口にしたが、本音は三姉妹にねだられて押し切られたのであろう。

 三姉妹の情操教育にも丁度いい。カカコワを飼うことにより、三人も大人になってくれれば良いのだが。そんなおかみの心の声が、ウタゴには聞こえた気がした。

「おばさま、お腹がすきましたわ!」

 すぱーんと大きな音をたてながら、海岸食堂のドアを開けたテマ。テマの行動は常に豪快で上から目線だ。登場も退場もやかましい。その後ろにはトルールとノッコもいる。ノッコの胸には太くて目つきの悪い虹色の鳥がいた。

「あら、こんばんわウタゴ。その様子だと既に聞いてきてくれたようですわね」

「ああ。町で飼われていたカカコワじゃあなかったようだ」

「ほんとっ? じゃあ……」

「ここで飼うことに問題は無いな」

 ウタゴは昼のうちに村で唯一の電話を使い、町の人間に尋ねておいた。結果、町でカカコワを飼っている者はいないと確認できた。ということは、カカコワは偶然村に迷い込んだものであると考えて良いだろう。ウタゴの言葉を聞いたトルールとノッコの笑みがどんどん大きくなっていく。

「三人できちんと面倒をみること。宿の中を走りまわらせたりしないこと。それさえ守れば問題ないでー」

 おかみが認めて、村に新しい移住者が誕生した。

 最も新しい移住者は二年前にやってきた俺だから、初めてできた後輩だ。だが直後に、俺はこの先もカカコワより下に扱われ続けるんだろうなとウタゴは思った。

「飼うなら名前が必要やな」

 おかみが言うと、三人の目がくわっと光った。

「アントワネット」

「02号」

「……カワちゃん」

 三人が口にしたカカコワの名前は、見事に好みがバラバラであった。

 というかトルールよ。ペットの名前に番号をつけるな。実験動物か。

 ってまさか、ひょっとして01号は俺のことだろうか?

 ウタゴは頭に浮かんだ疑問をトルールに尋ねたかったが、頷かれたら自分が傷つくので聞かないことにした。

「ネーミングのセンスは全員だめだめやなあ。しゃあない。ウタゴ君が名前つけてええよ」

「え、俺がですか?」

 おかみが言うと、三姉妹はウタゴを睨みつけてきた。三人とも自分がつけた名前を言ってくれると信じている目だ。

 三つの名前のどれを選んでも角が立つ。ウタゴは適当に考えることにした。

 目つきの悪いカカコワと目をあわせて数秒後。

「うむ。おまえの名前はノリタロウだ」

 自分でも良い名前だと思いつつ、ウタゴは言った。だが、ウタゴの命名に対して、三姉妹どころかおかみまでもが、あからさまにため息をついた。

「ウタゴ君、それはあかん。男の子みたいな名前やんけ」

「……、え、てことはそいつって」

「その子はメスだよ。しかも妊娠してる。動いてるお腹と丸い体を見たらわかるやろー」

 今の今まで気付かなかった。ウタゴはカカコワに触ってないし、丸い体は肥満だと思いこんでいたのだ。

 さらに続けておかみから説明を受ける。

 カカコワは翼があるので鳥と認識されるが、他の鳥のように産卵をしない。哺乳類のように大人の姿と似た形で生まれてくる。カカコワを哺乳類と定義する国もあるが、今のこの国では鳥類として扱われているらしい。

 ウタゴが見ただけでは妊娠どころかオスとメスの区別すらつけられない。目つきの悪さだけで、無意識にオスだと決め付けていた。もしかしたら、村に長く住んでいる者にとっては簡単に見抜ける事だったのかもしれないと、ウタゴは知識の不足を恥じた。

 ただ、おかみが口に出した妊娠という言葉。

 その単語は、ウタゴが蓋をしていた悪夢のような記憶を刺激した。

 カカコワの名前を巡って議論の続く中、ウタゴの意識は過去へと引き込まれていく。

          



 ウタゴがシレンと出会ったのは、曲芸飛行士として一年が経った頃だった。

 ウタゴよりも背が高く、常に鋭い目つきをしている、徴税官のように厳粛な印象の色白美人。それがウタゴの後輩飛行士、シレンだった。

 シレンは明らかに、曲芸飛行士としての資質が低かった。空での反応が一拍子遅く、物覚えも悪い。頭は良いのだが、臆病すぎる気質のせいで、一度説明を聞いただけでは技を成功させられないのだ。

 空のダンサーと呼ばれる曲芸飛行士は人気の職業。実入りが良いかわりに入り口は狭い。そのころの曲芸飛行士は整備や気象の予測も加えた、幅広い知識を持つ者が重視されていたとウタゴは考える。実技よりも筆記。シレンは明らかに、総合力で空を飛ぶ資格を得た者だった。

 曲芸飛行士の仕事は国中から依頼が届く。イベントによりけりだが、二人から五人程度の編隊飛行で空に彩りを加えるのが主な仕事である。空に虹を描いたり、ハートマークを浮かべたり。

 ウタゴはシレンのパートナーとして、経験を積ませる形で飛び続けた。ウタゴの支援を受けて飛ぶシレンは、ゆっくりとウタゴの技術を吸収していった。


 ある日のこと、とある地方でショーを終えた後に、興行主からなぜあなたがたは曲芸飛行士の道を望んだのかと尋ねられた。

 ウタゴは素直に空が好きだったからと答えた。ところがシレンは、飛行士にはなりたくなかったと口にしたのだ。

 シレンの家は名家であり裕福らしかった。兄弟が多く、そのうちの一人が曲芸飛行士に憧れていた。ところが父親により、夢を捨てて政治の道に進むことを強制されたそうだ。末の娘で政略結婚の話が持ち上がっていたシレンは、兄の無念を晴らしたいという思いと父親への意趣返しにより、強引に曲芸飛行士を目指したのだそうだ。

 実は高所恐怖症で、今でも高い所は嫌いなのです。シレンはいつものように尖った目つきのままウタゴに言った。感情の機微が分かりにくいシレンと心を通わせるのに一年の時間を要した。

 そして更に一年が経過して互いを深く理解したころ。

 二人は恋人同士になっていた。

 空だけではなく地上でもパートナーになったウタゴとシレン。二人の飛行は、地味で堅実だった。

 ゆっくりと円を描く横転や、スキップのような細かいダンス。それらは主に、ウタゴがシレンに合わせて飛ぶ。そしてクライマックスではウタゴが単機で宙返りや垂直捻りといった高度な技を行う。最初から大技を繰り出さずに、歌劇のようにめりはりをつけた曲芸ショー。シレンの未熟さをごまかすために組んだプログラムなのだが、皮肉にも以前よりショーの評判は上がった。

 だが。

 曲芸飛行士になりウタゴが六年目、シレンは五年目。交際を始めて三年目を迎えた時、事故が起きた。


 その日は、シレンの友人から直々に小さなショーを依頼された。なんでも幼馴染の学友が結婚することになったのだとか。ウタゴとシレンは、結婚式の空に橋を描く役を引き受けた。

 いつもはウタゴが飛行前の空の状況にチェックを入れるのだが、その日だけは意気込んでいるシレンに任せた。それが不運の始まりだった。

 式場の外には新郎新婦が立ち、一部の子供たちが鳥にエサをあたえていた。前を飛ぶシレンは、明らかに気負っていた。いつもより高速で旋回を始めたシレンの目の前に、突然大きめの鳥が飛来し、頭部に衝突した。バードストライクだ。

 当時の飛行機事故としての事例は少数であり、シレンの手順も間違ってはいない。しいて言うなら、シレンに前を行かせた俺の責任。ウタゴは唇を噛み締めながら悔やんだ。

 頭を打ったシレンは、意識が朦朧とした様子のまま飛び続けてショーを離脱し、不時着気味に滑走路に着陸した。シレンらしくない乱暴な着陸により、機体は半壊した。だが、操縦席は無傷だ。

 無線により事故を先に知っていた救命員がシレンを運び出す。それが、ウタゴがシレンを最後に見た姿であった。


 半壊したシレンの機体の撤去が終わり、ウタゴが続いて着陸した時には、シレンは病院に運ばれていた。シレンの家族があらゆる面会を拒絶したことにより、ウタゴに詳しい病状が伝えられないまま、翌日にはシレンの死去を教えられた。頭部の怪我は、ウタゴの予想以上に重症だったのだ。

 数日後、別の医師からの手紙がシレンのいた部屋に届いた。ウタゴは遺族に渡すことなく封を開け、中を見たことを後悔した。シレンは妊娠していたのだ。こっそりと病院に行き、検査を受けていたらしい。

 もしかしたら、妊娠のために体調が悪かったのかもしれない。少なくとも、飛行に良い影響は全く無い。

 シレンの変化にもっと早く気付いてあげられたなら、事故を防げたかもしれない。

 ウタゴは自身を責めた。そして、飛行機に乗る気力を失った。

 曲芸飛行士を辞めて受け取った退職手当は、シレンの事故機体の買取りに充てた。着陸時の失敗により、シレンの機体は主翼や脚部にダメージを負っていた。修理をすれば再び飛べなくもないが、死者の出た事故機に乗ろうとする者はいない。廃棄されるくらいなら、自分の元に置いておきたいと考えて、知り合いの飛行士の敷地に保管を頼んだ。

 そして放浪の旅に出たウタゴは、危険な滑走路として有名だった村に立ち寄り、チャク管理の仕事と半ば放置されていたプロペラ機に出会った。

 砂により駆動部だけが故障しているヴァレット号と、駆動部以外に問題があるシレンの事故機。ウタゴは二機をひとつにまとめて復活させようと考えた。シレンの機体を分解して、無事な部品を村に運びこみ、今に至っている。


 シレンとシレンのお腹の中にいた子を失い、生きる気力が枯れていたウタゴは、ヴァレット号を組み立てながら村で三姉妹に振り回され続ける。そんな毎日を過ごすうちに、前向きな気持ちが回復しつつあった。

 そして二年の後。シレンの機体はヴァレット号として復活を遂げたのだった。直後にテマの手によりイタズラを施されたのだが、そこは愛嬌。

 この機体を飛ばしてみたい。時の経過により心の傷が癒えかけているウタゴにも、曲芸飛行士としての熱が灯り始めていた。

          



 結局、妊娠したカカコワの名前はカワに決まった。カカコワを見つけたノッコの意見が通ったのだ。

 それからの数日、ウタゴの周囲は平和だった。

 毎日のようにいたずらに訪れる三姉妹がカワをかわいがることに夢中で、ウタゴに寄り付かなかったためだ。

 チャクの世話とヴァレット号の手入れを交互に繰り返す日々。故障した部品の交換は既に終えているので若干手持ち無沙汰なのだが、ウタゴはヴァレット号の側にいるだけで満足だった。格納庫にいるだけで、シレンと語り明かしているような夢心地になる。それだけで自然と笑顔になれた。


 そんな甘い午後のひととき。ウタゴがこもっていた飛行場の格納庫に、珍しくおかみが立ち寄った。

「かっかっか。これがあのヴァレット号ねえ。木製の胴体に白い弾丸ってのも合ってなかった気がするけど、今度のはなんやろう、行き過ぎて滑稽になっちゃったねえ」

「テマが考えなしに描いちまったんだから仕方ないさ。折を見てもっとかっこいい絵に描きなおしてもらうよ」

 おかみは笑いを堪えつつテマのいたずら画に顔を寄せて、ウタゴの組み上げた新生ヴァレット号の機体をぽんぽんと叩く。

「んで、こいつはもう直ったの?」

「そのはずだ。燃料を入れて軽く動かしてみたが、計器や駆動部に問題は無かった。まあ活きたプロペラ機なんてこの村には必要の無いものだが、保管しておくくらいはいいだろう?」

「かまへんわ。ウタゴ君の好きにすればええ。村としては、ほったらかされたまま荒れるだけの飛行場をタダ同然で手入れしてくれてるんやから、何も文句は言えへん。チャク管理さえしっかりやってくれてたら困ることも無いしなあ」

 その言葉を聞き、ウタゴは胸をなでおろした。

 村の人間には、シレンの機体から取り外して運び入れた部品については内緒にしてある。今、目の前にあるヴァレット号は、村の物であると同時に、シレンが乗っていた飛行機の生まれ変わった姿でもあった。

 もうしばらく、昔の思い出に浸る毎日を楽しみ続けていたい。ウタゴはヴァレット号を見つめて目を閉じた。

 その時。

 格納庫のガレージが、大きな音とともに開かれた。

 開け方で分かる。テマがやってきたのだろう。相変わらず行動が騒々しい。

「マフーシャおばさまいるっ? 大変ですの。助けてください!」

 テマは慌てていた。おかみの名を叫びながら美しい金髪を逆立てている。いつものふてぶてしい態度とは違い、テマらしくない焦り方だ。

 おかみも緊張した面持ちで、テマと向き合った。

「どうした? 三人で留守番してたはずやろ。ボヤでも起こしたんかい?」

「違うのだよ、おばさん。カワの元気が急に無くなった。出産が近いようなのだが、見てくれないか?」

 テマの後から格納庫に入ってきたトルールが、テマの言葉を冷静に補足する。トルールの後ろには、カワを抱えた不安そうなノッコの姿があった。

「……たしかに様子がおかしいね。ウタゴ君、テーブル借りるでー」

 コンパスや地図を脇によけて、カワの様子を手早く診察していくおかみ。三姉妹はすぐ横で、ぴゅいぴゅいと弱々しい声で鳴くカワを優しく励ましている。

 ウタゴが手を貸せることは無い。一歩下がったところから、固唾を呑んで見守り続ける。

「これは、まずい。逆子や」

 逆子。

 頭から生まれるはずの子供の体が逆になり、下半身が子宮口につかえている状態だ。

 ウタゴはおかみ達の緊迫した雰囲気から、人の出産の対処と同じように、下手な処置では命に関わる緊急事態だということを読み取った。

「……マフーシャ、なんとかして」

 ノッコが目を潤ませながらおかみに頼みこむ。

 だがおかみは、カワの下腹部を撫で回しながら首を振った。

「カカコワの帝王切開は、腕の良い獣医師でないと無理や。この村では薬が足りん。きちんと設備を整えた施設じゃなきゃどうにもならんわ。この村でできることといったら、カワちゃんのお腹を裂いて子供を助けるくらいしか……」

「……そんなのやだあ」

 おかみが真剣な声で言うと、ノッコはカワの頭に自分の頭を重ねて顔を歪めた。

「ぴゅいいん、ぴゅいいん」

 カワはとても苦しそうだ。チャクと同じくらい人間に従順なカカコワは、飼い主の心を読むことが得意だ。この場の雰囲気から、自分の運命を察し始めたのかもしれない。

 ウタゴはいたたまれない気持ちになった。三姉妹の落ち込んだ顔と、ぐったりした虹色の丸い鳥。

 カカコワの目つきの悪さと、記憶にあるシレンの常に鋭い目つきがちょっとだけ重なった。

 このまま見殺しにはしたくない。考えるウタゴの頭に、一つの案が浮かんだ。

「おかみさん、たしか崖の上にある町には、チャク向けの病院があったはず。そこの設備なら、カカコワの帝王切開も可能なんじゃないのか?」

「うん? ああ。たしかにあったねえ、そんな施設が。でもこの村からチャクを乗り継いで上っていっても一週間はかかる……」

 おかみは言いながら、目を見開いて顔をあげた。同時に三姉妹も、おかみの視線の先を追う。

 そこには、魚のホネが描かれたヴァレット号があった。

          



 カワとお腹に宿る命を救うために全員が動き始めて一刻が経過した。

 暖機運転と計器のチェックを進めるウタゴの隣では、おかみがノッコの胸にカワを固定している。カワだけを二人乗りの機体の後部に乗せるわけにもいかない。誰が乗るかでわずかに揉めたが、結局はどうしてもカワに付き添うと言って引かないノッコが乗ることで落ち着いた。

 カワを抱えながらおかみの手を借りて、防寒着を重ね着するノッコ。やがて準備は整った。

「用意できたな。急ぐぞノッコ」

「わったった、待てウタゴ。間に合って良かった」

 その時、慌しく滑走路の清掃に向かったおかみと入れ替わりに、トルールが駆け寄ってきた。トルールはウタゴを操縦席から降ろし、上着を引っぱり強引に屈めさせると、ウタゴの耳に機械をあてた。続けてノッコには皮袋を渡しながら何事かを耳打ちして、そのまま背中を見せた。

「おいトルール、これ一体なんだ」

「ボクの作ったハンズフリーの無線機さ。それで手を使わずに会話ができる。じゃあボクはあっちに行ってるよ」

 トルールはウタゴに返事をしながら隣の管制塔を指差し、ばたばたと走り出て行った。

「慌しいやつだな……。ところでノッコ、その皮袋はなんだ。弁当でも作ってもらったのか?」

「……そんなとこ」

 ウタゴの冗談をそっけなく流して、ノッコは皮袋をわきの下に挟みながら小型機の後部によじ登った。

「まあいいさ。荷物は足の間にでも挟んで、落とさないようにしておけよ」

 ウタゴはノッコの体をベルトで固定すると、自身も運転席に移った。


 およそ二年のブランクを挟んだ操縦。それも曲芸飛行の時に使っていた機体とは勝手が違う、小型の木製プロペラ機だ。

 ウタゴはやや緊張しながら、新生ヴァレット号を滑走路へと走らせた。

 離陸した後は海に沿って飛び、大きくゆっくりと旋回しながら上昇し、崖を超えて町に行く。予定では一時間とかからない。

「あっという間に寒くなるはずだ。暑くてもしばらく我慢しろよ」

「……わかった」

 村と大陸断層上の町は高低差が激しい。プロペラ機には風防が無いので、風が直接顔を叩く。

 飛行時間が短いとはいえ、妊娠しているカワに無駄な負担はかけたくない。飛行機の上下動と寒さへの対策は神経質に感じるほどで丁度いい。

『こちら管制塔。ウタゴ、聞こえるか』

 その時ウタゴの耳に、トルールが渡してきた無線機の奥から声が届いた。

「ああ。聞こえるぞトルール。なんで七歳でこんなもの発明できるんだ」

『なあに。ちょっとした好奇心があれば誰でも作れるものさ。ああ、それと言い忘れてた。赤いボタンを三秒以上押し続けてはならないよ』

「あ? 押すとどうなるんだ?」

『過電流で鼓膜が焼ける』

「おまえほんとそういうの止めろ」

『気にするな。押し続けなければ問題は無い。そんなことより滑走路のチェックが終わったようだよ。テマの姿は見えるかな』

「そんなことって……まあいい。ああ。はっきり見える。俺は目に自信があるんでね」

 太陽がかなり傾いており、もうすぐ夕方にさしかかる時間だ。管制塔には瓶底眼鏡を赤く光らせるトルール。滑走路の先には清掃車で砂埃を取り除くおかみと、旗を高く掲げるテマの姿が見えた。

 旗の形から、海風がやや強いことがわかった。飛行機は風上に向かったほうが安定する。

 予定を変更して、離陸と同時に機体を海側に傾けつつ、太陽に向かって飛び続けながら旋回するタイミングを計ることにする。眩しくて視野も狭くなるので気を抜けないフライトになりそうだ。

「やれやれ。噂通り、問題の尽きない滑走路だな……」

 ウタゴはゴーグルをかけながら空を見上げた。東側には何千メートルも続く断層と雑多な鳥が住む崖。目指すはその上にある町だ。

「ノッコ、覚悟はいいか?」

「……はやくいけ」

 ノッコは後部座席で覚悟を決めた目をしている。ウタゴはおもわず白い歯を見せて笑ったが、胸に抱えられている苦しそうなカワの顔を見て、両手で頬を叩き唇を引き締めた。

「よし。テイクオフ!」


 滑走路に出て加速しながら、ヴァレット号の操縦桿を手前に引く。おかみやテマに軽く手を振る。それと同時に、車輪が離れて巨大な魚のホネが空に浮いた。

「ノッコ、恐くないか?」

「……余裕。カワちゃんもまだ大丈夫だって」

「ぴゅいんぴゅ」

「そうか。まあカカコワも一応は鳥だからな。本能で高い場所でも落ち着いていられるのかもしれん。ただ、急に変化する気圧は母体にも悪い。大きく迂回しながら上昇を続けるぞ」

 離陸に成功して、夕日に向かうヴァレット号。晴天なので目が眩む。

 ウタゴは駆動部の音を聞きながら、燃料の質が悪いと感じた。曲芸飛行の時に使うオクタン価の高い燃料の、たくましく力強い感触に遠く及ばない。加速を必要としない飛行だから、それほど問題は無いと思うが……。

『ウタゴ、地鳴きがすごい。おそらくドラーの警戒声だ。気をつけろ』

 と思っていたら、無線機からトルールの緊迫した声が聞こえてきた。

 振り返り崖に目を凝らすと、どこに隠れていたのか、ドラーの群れが次々と飛び立ち、黒い塊を作り始めていた。渦を巻きながらヴァレット号に迫りつつある。

 地上で出会った一匹のドラー程度なら素手で追い払える。だがここは空の上であり、そのうえ大群だ。

 ウタゴの脳裏に、シレンの最後の姿が浮かぶ。鳥を頭部に受けて、羽と血しぶきで顔を朱に染めるシレン。

 だめだ。ウタゴは頭を振り操縦に集中しようとする。

 今守るべき存在は自分の駆る機体の後ろにいる。大丈夫、あの時とは違うと、ウタゴは自身の心に言い聞かせる。

「少し加速して引き離すぞ。Gがかかるから耳が痛かったら手でふさぐんだ」

 振り返り大声でノッコに言うと、ノッコはカワの両耳を自身の手でふさいだ。ノッコはしっかりしている。この様子なら大丈夫だろうと考え、ウタゴは正面を向き、プロペラの回転を上げた。

 ところが、速度はウタゴが狙ったように上がらない。

 機体には問題が無い。やはり燃料に問題がある。ウタゴは歯軋りをしながら考えた。

 このまま海に向かって飛び続け、大回りに方向転換しながら上を目指す予定だったのだが、ドラーはしつこい。追い回され続けたあげく、方向を変えて戻って来る時にヴァレット号が群れとぶつかる危険がある。

「ウタゴ、あそこ」

 その時、ノッコが大声をあげた。後ろを振り向きノッコの視線の先を見ると、そこにはこの地域の空において最も出会いたくはない相手が止まっていた。グライダーだ。

 グライダーはドラーのように群れでは狩りをしない。ただ、巣に近づく者に対しては容赦なく襲い掛かる。おまけに勇敢で、相手が自分より巨体であろうと全く怯まない。ドラーの天敵であり、この地域における空中の覇者であった。

 その崖にはグライダーの巣が点在していた。それに気付いた時、ウタゴはノッコが言わんとしていることの意味を知った。

「本気か?」

 ウタゴが振り返りノッコに尋ねると、ノッコは返事をすることなく防寒着でカワと自身を包み込み、繭のように丸くなった。

「わかった。そのまま頭を低くして耳をふさいでろ」


 ウタゴは旋回を早めて、陸側に舵をきった。さらにドラーの群れの密度を高めるために、わざとジグザグに空を飛び時間を稼ぐ。群れがヴァレット号に追いつき、塊の色がみるみる濃くなり始めた。

『なにをしてるんだい? ウタゴ』

「トルール、おまえはツイてる。曲芸飛行士の技を生で見られるんだからな」

『それはどういうこと……、まずいぞ、そのままでは崖にぶつかる!』

「しっかり見てな!」

 ウタゴは旋回しながら上昇を続けて、十分にドラーの群れを引きつけた。

「ロールフォール!」

 そのまま右に機体をひねりこみながら急降下をして、グライダーの巣がある崖の間近を斜めに切り裂き刺激した。

 巣には子供のグライダーがおり、そばで子育てをしている母グライダーが首をあげて怒りの声をあげた。

 巨大な翼を広げて、数体のグライダーが空に身を躍らせる。そこにウタゴの後を追いかけるドラーの群れがぶつかった。

 グライダーの怒りの矛先は、途端にドラーの群れに切り替わる。爪やくちばしでドラーを片っ端から切り裂いていくグライダー。ウタゴの飛行機を追いかけまわしていたドラーの群れは、唐突な天敵の出現により大パニックになった。

 急降下から機体を水平に戻したウタゴは、その争いを遠めに確認した。ノッコもマントから顔をだしている。

 だが、グライダーが一匹だけ、ヴァレット号に向かってきた。

「くそっ。振り切れるかっ」

 ウタゴは最大速度で海に向かって飛び続ける。だが、グライダーは食い下がってきた。ヴァレット号とほぼ同じ速度でついてきて、距離が離れも縮まりもしない。

 燃料はあるので、いつかはグライダーが根負けするはずである。しかし、ウタゴ達には悠長に飛行している時間が無い。

「……ウタゴ、ちょっとの間だけまっすぐとぶ」

「あん? たぶんそれでも引き離せないぞ」

「いいから」

 ノッコから声をかけられたウタゴは、後部座席でもぞもぞと動くノッコの意図が掴めず、おもわず後ろを振り向いた。そこには、トルールから渡された皮袋の中から何かを取り出すノッコの姿があった。

 出てきたのはツボ。しかし、表面には禍々しいドクロの絵が描かれてある。どう見てもテマ画伯の絵だ。縦にヒビが入っていて、今にも二つに割れそうである。

「うぉいノッコ、そいつは一体なんだっ」

「爆撃三秒前」

 ウタゴはわけがわからず顔を引きつらせて、ノッコに従いまっすぐ飛んだ。

 直後にカウントを終えたノッコがツボを機体の後方に放り投げる。

 すると、ツボは空中で二つに割れた。その中から赤っぽい粉末が空中に散らばると、後方にいたグライダーが首を振りながら苦しみだして、そのまま海面に向かい落ちていった。

「……げきついおう」

 トイレで用を足したばかりであるかのようにスッキリした顔のノッコが親指を立てた。

「おい、今のツボの中身ってまさか……」

『やあ。万が一に備えてボクが作ったB・B・ブレインブレイク・ボムだね。役に立って良かった。急いで作ったから風圧だけで都合よくツボが割れるのか不安だったけど、うまくいったなあ』

「やっぱりあれって、例の香辛料まるごとかよ……」

 どうやらテマとトルールは、ウタゴ達が町に向かう準備をしている間に爆弾を作っていたらしい。たしかに、件の香辛料は害獣避けに使われるとトルールも言っていた。野生の鳥が人工物の香辛料を浴びては地獄の苦しみであろう。ウタゴはグライダーを気の毒に思うと同時に、改めて三姉妹の恐ろしさを認識した。

「まあいい。少し時間をくったが予定通りだ。このまま上昇を続けて、一気に山を越えるぞ」

 操縦桿をゆっくりと傾けて、海側から大回りに崖の上を目指した。二人と一匹を乗せたヴァレット号は、ぐんぐんと高度をあげていく。

『ウタゴ、聞こえますか? こちら地上のテマですわ』

「よう。旗と爆弾ありがとな。どうした」

『マフーシャおばさまが上の町役場と電話で話をしたらしいのですが、まずい問題が……』

「おい、テマ、テマ?」

 その時、テマとの通信が切れた。無線の届く範囲から外れたらしい。

 何を伝えようとしていたのだろう。ウタゴは首を捻りながら考えた。だが、山越えはもう目の前。一度下降してもう一度テマと無線を繋ぐよりは、先に進んだほうが近い。ウタゴはそのまま目的地を目指すことにした。


「寒くはないか」

「……平気。カワちゃんも頑張ってる」

「そうか。目の前の峰を越えたら町が見える。そしたら飛行場は近い。あとちょっとだ」

 だが、ウタゴは機体が上昇するにつれて空気が湿り気を帯びていることに気付いた。低地で海のそばにある村と高地の町では、天候にも差がある。空が荒れてなければいいが、というウタゴの思いは、高峰を越えた途端に砕かれた。

 峰の陰には分厚い黒雲が墨のように広がっており、下方にあるはずの町は隠れていた。上から様子を探る分には、雲の切れ間から見える地上は白く光っているように感じられる。

 雪で間違い無い。低地に長く住んでいたので、すっかり想定を忘れていた。

「これは……かなりまずいな」

 気流が荒れている影響で、町との無線が繋がりにくい。黒雲の下ならば電波が届くかもしれないが、それにはかなりの危険が伴う。雲を突き抜けた途端に地上が目の前にあり衝突、なんて事態もありえるのだ。

「仕方ない。燃料は足りているから、雲の上から下の様子をしばらく探ってみる」

「……うん」

 ノッコの声は不安そうだ。空を飛んでいた時に聞こえていたカワのぴゅいぴゅいという鳴き声も、徐々に弱まりつつある。寒さが体力を削り始めたのかもしれない。

 ウタゴはそれでも、この状況を楽観視していた。おかみが村から町に連絡を入れてくれた。着陸してすぐにカワを病院に運ぶ体制と、手術する手はずは整えられている。間違いなく助かると信じていた。

 だが、雪は想定外だった。それに村との無線が途切れる直前、テマが言いかけたことも気がかりではあった。何かトラブルがあったようだが、雪以外に何かあるのだろうか……。

 ウタゴは曲芸飛行士時代にこの町の上空を通過したことがあり、飛行場の場所もおおむね把握している。峰の形や沈みかけている太陽から届くかすかな明かりを頼りに、方角や方向を推測しつつ、飛行場の上空あたりをぐるぐると旋回する。無線の通信が繋がるのではないかと考えているからだ。

「おい、誰か返事をしてくれ。くそっ」

「……ウタゴ、下に誰もいないの?」

「いや。この町に管制官はいないが、活動している飛行場の全てには、飛行士に対して滑走路の状況を無線で報せるための情報官が常駐しているはずなんだ。雲が分厚すぎて無線が届かないだけなのさ。安心しろ」

 このまま天候が回復するのを待つわけにはいかない。ウタゴは覚悟を決めて、雲間から雲の下に出てみることに決めた。

 小型飛行機一機分の切れ目をみつけて、雲の流れと機体の方向を合わせつつ、翼を傾けて斜めに突っ込んだ。

「抜けたぞ!」

 雲の壁が薄くなると同時に勘だけで翼を水平に戻し、町の様子を見下ろした。それと同時に、ウタゴの心に焦りが膨らんだ。

 地上は大雪だった。


 豊富な鉱物資源により潤っているこの町は、夜でも車のライトや街灯が町全体を照らしている。地上はほんのり明るく、腕の良い飛行気乗りであるウタゴには十分な光源があるのだが、降雪量が多い。このままでは飛行場にも影響があるはずだとウタゴは考えた。

『こちら情報官。応答せよヴァレット号』

「む、こちらはヴァレット号。良かった、ようやく無線が通じた」

 その時、無線から野太い男の声が聞こえてきた。近くにある飛行場の情報官で間違いが無いはずだ。ウタゴには情報官の声がとても頼もしく聞こえた。

「崖下にある村のマフーシャって人から話は伝わってるだろう。至急着陸したいのだが」

『やはり話が伝わってなかったか。今は滑走路が閉鎖されている』

「当機は小型で軽量だから着陸時の制動距離も短くて済む。俺は雪での離着陸経験も多く、この手の危険な飛行に慣れている」

『違う。そういうことじゃないんだよ』

「なんだよ。既に滑走路は視界に入ってるぞ」

 ウタゴの斜め前方には飛行場らしき場所が見える。情報官は閉鎖していると言いつつも、ウタゴのために明かりを点けてくれているらしい。

 ゴーグルについた雪を手でぬぐいながら、滑走路の上空に向かった。曲芸飛行士時代には、もっと大きく推進力の高い機体で、この町の飛行場よりも小さな雪の滑走路に着陸した経験がある。雪が積もっていようとも、一度だけ除雪をしてもらえれば、すぐにでも着陸させることができるとウタゴは考えていた。だが。

「おいおい、勘弁してくれよ。あれは……事故機?」

 滑走路の中央付近。遠くからは単なる雪の吹き溜まりに見えたそこに、主翼の折れた中型機が斜めに横たわっていた。

『君にも見えたか。この大雪は昨日から続いててな。今朝方に到着したその機体が着陸に失敗して、滑走路全体をふさいでいるんだ。救助活動に手間取ったせいで、今も機体の回収は終わっていない。明日以降に撤去する予定だったんだが』

 無線でテマが伝えようとしてたのはこのことだとウタゴは悟った。おかみは町の者と電話で話したことにより、事故のことを知っていたのだ。それをテマに伝えて、無線で報せようとした。

 ウタゴは滑走路を通り過ぎた後に旋回して、斜め上から事故機や滑走路の長さを再確認した。目測で慎重に着陸後の制動距離をイメージする。ヴァレット号は小型機だから速度も遅く、ブレーキ機構も問題が無いはずだ。横たわっている中型機をかわして斜めに着陸するイメージを頭の中で描いてみた。

 だが、どう頑張っても不可能に思えた。滑走路も滑りやすくなっている可能性が高い。成功するイメージが頭に全く浮かばなかった。

『私も事情は聞いている。別の動物向け施設がある町まで行くには燃料が足りないだろう。この町に着陸することも無理だ。諦めて村に戻りなさい』

「馬鹿なことを言うな!」

 ウタゴは操縦席の横を殴りつけた。情報官を怒鳴りつけても意味が無いと分かっているが、叫ばずにはいられなかった。

 ここまできて引き返すだと? 病院は着陸してすぐの所にあるのだ。もう少しでカワを無事に送り届けられる。あとちょっとで救えるというのに。

 ウタゴは燃料計を見た。たしかに情報官が言う通り、別の町まで飛ぶには燃料が足りない。一度村まで戻り給油してから再び飛ぶことは可能だが、産気づいているカワにそんな時間は無い。

 この場で情報官と話をすること自体、ウタゴはもどかしいと思った。燃料が冷たくなると、駆動機が停止する危険も高まる。

 急いで何か答えを出して、決断しなければならない。

「……ウタゴ、ダメなの?」

 防寒用のマントにくるまり、雪だるまのようになっていたノッコが、頭だけを出してウタゴに言った。話は全て聞こえていたのだろう。顔色は悪い。

 いや、実際に寒さで体調を崩しているのかもしれない。ノッコもまた戦っているのだ。情けない後ろ姿は見せられないと、ウタゴは背中に芯を通す。

「待った。もう少し考えさせてくれ」

 こんなことならば、おかみの言う通り、村でカワの腹を裂いて中の子供だけでも助けたほうが良かったか。

 カワだけではなくて、中の子供までも死なせてしまったら、ノッコはずっと自身を責め続けることになる。

 いや、ノッコだけではない。テマやトルールの心にも大きな影を落としてしまうだろう。

 ウタゴの指の先から力が抜けていく。寒さの影響ではない。自分の出すぎた真似が事態を悪化させてしまったと考える後悔の念が、ウタゴの肝を冷やしているのだ。不愉快な感触が、ウタゴの過去の記憶を刺激する。

 シレンが事故にあった時と同じ感触。死神に背骨を抜き取られるかのように、体から熱が抜けていく。

 ウタゴは、シレンが事故死した後に、シレンの妊娠を知った。

 今回もまた判断ミスにより、子を宿した存在を死なせてしまうのだろうか。

 ウタゴは振り返り、後部の座席を覗き見た。マントの隙間からはノッコが顔を出していて、ノッコの口元にはカワの頭がある。カワは目を閉じたままだ。口元にはひげのように雪を積もらせていた。吐き出される白い息から、ウタゴは目を逸らせなかった。息が消える度に命が消えていくかのように思えたからだ。

 ……違う。

 前回のときとは、違う。

 今、守るべき存在は、別の機体に乗っているわけではない。手の届く距離にいる。俺のすぐ後ろにいるのだと、ウタゴは意思の力で心に炎を灯した。

 そうだ。手元にいるのだ。助けを必要としている者は側にいる。

 ウタゴは己を鼓舞し続けた。シレンの時とは違う。シレンは俺から離れていた。今はひとつになっている。そう。ヴァレット号の心臓である駆動部は、シレンが乗っていた機体のものだ。それは、寒さで不調になること無く、今も頑張ってくれている。シレンが俺に、飛べと言っている。

 ウタゴは操縦桿を手前に引いた。すると、ヴァレット号は力強くぶるんと鳴いて加速する。

 ヴァレット号は、シレンそのものだ。シレンの魂はヴァレット号に宿り、今もウタゴやノッコ達を守ろうとしてくれている。

 それなのに、簡単に諦めていられるか。

 ウタゴは両手を交互に数度握り締めて、指先に血液を送った。それと同時に頭を必死に働かせる。何か手は無いか。思い出せ。考えろ。俺は曲芸飛行士だ。逆境は朝のスープのようなもの。鼻で歌を歌いながら、一口で飲み干してやる。

 ウタゴは考えた。考えて、考え尽くして、やがて以前に町の上空を通過した時に見かけた地上の光景を思い出した。

「あれだ!」


 ウタゴは町外れにある飛行場から旋回して、町の中心部に向かいながら機首を下げた。

『おい、ヴァレット号、一体どこに向かっているんだ』

 ウタゴは無線から届く情報官の声を無視して、地上全体に目を走らせた。機体を斜めに傾けながら飛び、記憶にあった場所を探し続ける。

「あそこだな」

『あそこって何を……おい、まさかその方角は』

「ああ。川さ」

 この町の中心部は、鉱山から流れ続ける川が通り抜けていた。鉱山の山頂には万年雪が残っており、雪解け水は一年を通して浅く真っ直ぐに伸びている。ウタゴが以前に空から見た時は、茶色の川が橋の下を縦に突っ切っていた。鉄分を多く含む水らしいので、砕石のような障害物は、町中まで流れることなく郊外で止まるはず。おそらく川底は鉱山から流れる土で泥のような状態と思われる。

 川や海の上に着水可能な小型飛行機には、車輪の代わりにフロートと呼ばれる浮き舟が固定されている。だが、例えフロート付きの小型飛行機でも、浅い川の上に着水して無事に済む者は多くない。ましてやウタゴの駆るヴァレット号は固定車輪。極限まで速度を落としながら着水しても、機体を転覆させることなく止めるのは神業に近い。

『自殺行為だ。馬鹿な真似はやめておとなしく引き返せ』

 川があったと思われる場所の上空を飛びながら、ウタゴは情報官の叫びを聞いた。たしかに正気を疑う行為だ。川の上には雪が降り積もっており、茶色の線は全く見えない。だが、頭の中に、はっきりと雪の無い光景が浮かんでいる。直線になっている川の幅は十分。左右には障害物も無く、川の上に架かる橋の高さも問題無い。

 ただ、着水に成功したとして、ヴァレット号は無事では済まないだろう。車輪は折れるかもしれないし、鉱山から流れる赤土混じりの泥水を浴びれば駆動部は蝕まれる。間違いなく、使い物にならなくなるはずだ。

 村に放置されていて、シレンの事故機から取り出した部品を移植したヴァレット号。ウタゴが二年の時をかけて甦らせた、恋人であり、この世に生まれなかったウタゴとシレンの子供のような機体。

 あまりにも不憫だ。たった一度の飛行で幕を引かせてしまうのは。

「おまえは許してくれないだろうなあ」

 ウタゴはシレンに話しかけるかのごとくヴァレット号に声をかけた。返事は無い。だが、駆動部から尻に伝わる振動が、シレンから尻を叩かれているかのように感じられた。

 しっかりして。私も協力する。

 ヴァレット号から伝わる声援が、ウタゴの計画と勇気に熱を持たせた。

 覚悟を決めて振り返る。


「ノッコ、これから雪の下にあるはずの浅い川に着水する。可能な限り速度を落とすから、失速して川底に激しくぶつかる危険性もある。たとえ無事に着水しても、その後は胴体だけで川底を滑り続ける。俺はひっくり返さないように押さえつけるだけで精一杯だろう。機体が止まるまで、決してカワを離すなよ」

 ウタゴが声をかけると、ノッコは頷いた。

「……急いで」

「了解!」

『おいおい、聞こえてたぞ。おまえはスキーヤーにでもなったつもりか馬鹿野郎』

「風速を教えてくれ!」

『山側から5ノット。ほぼ無風で雪以外のコンディションは良好だ。だがやめろ!』

「ありがとよ。すまないが集中させてくれ」

 ウタゴは情報官との無線を切り、ヴァレット号と一体化するために心を静める。

「ノッコ。雪が深いと車輪を取られる。一度全速力で川面スレスレを行って雪を吹き飛ばすぞ」

「……どんといけ」

 ノッコは既に繭のように丸まっており、外を見ていない。ウタゴに全幅の信頼を寄せているようだ。

「全速全開!」

 ヴァレット号は橋の下にもぐりこむと、降り積もる雪の上を最高速度で飛んだ。雨が降る直前に低空飛行する鳥のように、地面から数十センチの高さを小型のプロペラ機が平行に進む。並みの飛行士には不可能な飛行だ。高い技術と度胸を備えるウタゴだからこそ可能な舞いだった。

 ヴァレット号が通り過ぎた直後に、川を覆う雪は弾き飛ばされた。橋の上から届く街灯や車の明かりが、空中に浮かぶ雪の結晶をキラキラと瞬かせる。

 着水に十分な距離の雪を弾くと、ウタゴは一旦ヴァレット号を空に引き上げた。

「よし。成功だ」

 橋の下にうっすらと茶色い道が現れた。ウタゴの記憶にある錆びた川だ。

 あとは、川底に向かい滑るように不時着するのみ。

「ぴゅいん、ぴゅいいん」

 旋回するヴァレット号の後ろから、カワの鳴き声が響いた。乱暴な飛行が繰り返されることへの抗議に聞こえて、ウタゴは苦笑いを浮かべた。

「……カワちゃんも頑張れって言ってる」

「おっと。応援してくれてたのか。安心しろ。俺とシレンが動かすヴァレット号は絶好調だ」


 かつて守れなかった恋人と自身の子供の命。

 今、ウタゴは失った存在と一つになり、新しい命を守るために冒険する。

 せっかく生まれ変わらせたばかりなのにすまないな。ウタゴは心の中で再びヴァレット号に謝った。

 操縦桿から伝わる熱。フットペダルの震え。吹雪の音を耳から排し、駆動部の唸る鼓動と自分の呼吸を同調させる。

「信じるんだ。理想ってのは、時に現実を超える」

 速度を限界まで落としつつ、機首を浮かせ、着陸の態勢を取る。両方の目を薄くして、代わりに心の目を大きく開き、ヴァレット号全体を高い位置から観る。心眼だ。

 最善の不時着をイメージする。川底の泥に絡まれ、二秒以内に車輪が折れる。三秒後には胴体が川底を滑り、十秒以内に機体が止まる。

 ウタゴはヴァレット号に別れを告げて、浅い角度から川に触れた。

 車輪に軽い衝撃が走り、操縦席に振動と反発が伝わってくる。

 ところが。

「……なんだ?」

 二秒、三秒と、頭の中でカウントを続けるウタゴには、ヴァレット号にあるはずの衝撃が、いつまでも伝わってこなかった。

 落ち着きを促すかのように車輪がひいんと鳴く。管弦楽器のような音とカカコワの鳴き声。二つを足した中間のような美しい響きだ。

 地面の感触は硬い。浅い川に着水した感覚は全く無い。

「これは……、凍っているのか?」

 遠くまで薄く続く川面の茶色い道は、硬質な光を反射している。上空からでは分からない、地上だからこそ見える光だ。

 それは、ヴァレット号が体を預けても割れないほどに、硬く強い道であった。

 それでも、急に川面が割れて車輪を取られるかもしれない。ウタゴは操縦桿を握り締め緊張を解かない。

 しかし、ウタゴの警戒は杞憂だった。ヴァレット号が勢いを落とし、風切り音が途切れても、結氷した川は安定していた。

 普通の川ではここまで硬く凍らない。しかし、鉱山から流れる不純物を多く含んだ川だから、凍結までの凝固点が高かったのかもしれない。

 全ては偶然であり、幸運だった。

 だがヴァレット号は、幸運を祝福として俺にもたらしたと、ウタゴは解釈した。

 ゴーグルを頭に上げたウタゴは、ふっと、幻覚をみた。ウタゴの手に別の暖かな手が添えられている。シレンの手に守られている。

 幻だと分かってても、ウタゴは奇跡を信じた。

 川の上に着陸できるなんて奇跡が起きたのだから、シレンの魂がヴァレット号に宿っている奇跡があっても不思議ではない。

 ウタゴの頬を涙が伝った。口元から自然と笑みがこぼれ、暖かい気持ちに包まれる。


「……ウタゴ、後ろすごい」

 氷の上を滑り続け、機体が完全に止まった時。ノッコが上ずった声をあげた。ノッコの声につられて、ウタゴは後ろを振り返る。

 そこには、虹色の翼が広がっていた。

 ヴァレット号の弾いた雪がダイヤモンドダストになり、橋から降る光源に乱反射している。左右に散った雪の結晶が光を取り込み、ヴァレット号を追いかけている。

 美しくあでやかに、ヴァレット号はプリズムをまとっていた。

 神秘的ではかなげな光の線が、ふるふると揺れながら薄れ始める。

「シレン……」

 ウタゴは、たしかに見た。

 虹色の光が一瞬、かつての恋人のように、目つきが悪く不器用な微笑を見せて、空に溶けてゆく姿を。

          



 ヴァレット号の奇跡的な不時着から四日が経った。

「このわたくしよりも目立つとは、ウタゴのくせに生意気ですわ。まあカワちゃんを救った手柄に免じて許してさしあげましょう。感謝しなさい」

 テマとトルールはヴァレット号との通信が途切れると同時に、村のチャクを勝手に持ち出し、以降途中の町々でチャクを乗り継ぎ町までやってきたそうだ。一週間はかかる道のりを四日で踏破できたのは、荷物が無かったことと、良いチャクを借りる金に糸目をつけなかったことが大きいらしい。

 無茶なことをするものだとウタゴはあきれたが、それだけノッコやカワのことを心配していたのだろうと考え、細かく説教するのは止めた。

 ちなみに、トルールは今もチャクに繋がれた荷台の中で寝込んでいる。乗り物にひどく弱い体質らしい。

「てことです、おかみさん。三人とカワは無事です。安心してください。ヴァレット号を軽く整備した後で村に戻ります」

『そうかい。良かった良かった。チャク小屋の管理はやっとくから、ゆっくりしてきやー』

 おかみと電話での会話を終えたウタゴは、ノッコたちと合流するため、テマやトルールと共に病院へと向かった。

 ウタゴはこれから初めて、無事に出産を終えたカワや、カワの産んだ三羽のカカコワたちと対面する。ヴァレット号の不時着後、カワを病院に届けた後は、飛行場や町の役人との後始末に忙殺されたため、今日まで面会が遅れたのだ。


 ノッコは病院前の道路で待っていた。両手で目つきの悪い小さな鳥を三羽抱えている。カワの産んだ赤ちゃんカカコワであろう。

「ぴぃん。ぴぴぃん」

「きゃああっ、カワちゃんは出産して縮んでしまったのですか?」

「……テマ、分かってってボケてるよね」

 冗談を言うテマと突っ込むノッコの声を聞きつけたトルールが、チャクの荷台からのそのそと這い出てきた。髪はぼさぼさで瓶底眼鏡が傾きげっそりしている。

「トルール。乗り物酔いは大丈夫か?」

「ああ。まだ内臓全体が攪拌されているかのようだがもう大丈ぶぉろろろろ」

 胃の中は空のようだが、それでも空気を吐き出そうとしているトルール。こいつをヴァレット号の後ろに乗せてはならないと、ウタゴは心に留めた。

「おや、お兄さんは新聞に載ってる飛行機乗りさんかい?」

 病院に入ると、新聞を手にした見知らぬ老人がウタゴに声をかけてきた。

「ええ。お騒がせして申し訳ありません」

「おや、やっぱり本物かい」「なぬ、あの銀竜乗りさんか」「こりゃすごい。サインをくれないかい」「そっちはノッコちゃんだねえ」「やあ、カカコワの赤ちゃんとは珍しい」

 ウタゴと三姉妹は、あっという間に暇そうな町の老人達に囲まれた。

 崖下の村からカカコワを助けるために高峰を越えてきた一人のパイロット。その美談は、二日後には新聞で全国に伝えられていた。

 今やウタゴとノッコはちょっとした有名人だった。

「お嬢ちゃんがカカコワの飼い主らしいねえ。銀竜さんをここまで連れてきたんだとか」

「……あたしの指導のたまものなの」

 ノッコはしれっと言った。いつのまにかカワを救うための山越え計画は、ノッコ監督がウタゴをパイロットとして導いたという形で広まっていた。

 周りにいた町の人々が、三姉妹を中心に輪を作る。ウタゴは背中を向けてその場を離れ、病院の窓から河原を見下ろした。


 高台の上に立つチャク向けの動物病院。そこから見下ろせる川沿いの平地に、今もヴァレット号は駐機してある。凍った川に不時着してから三日間続いた雪は止み、視界は良い。今日の午後にはチャクを使って土手の上に引っ張りあげる予定だ。

 不時着後にしばらく天気が荒れて、ヴァレット号は横殴りの吹雪を浴び続けた。新聞記者が現れた時には、テマの描いた魚のホネの上に、雪がウロコのように張り付いていた。風の働きで形作られる波のような模様、風紋だ。

 その姿が偶然にも神秘的な銀色の竜に見えることから、新聞がヴァレット号のことを銀竜号と書き立てて、ウタゴは銀竜乗り(ドラゴンライダー)という大げさな愛称で呼ばれるようになってしまった。

 雪が溶けたら竜が魚のホネになってしまう。せっかくのロマンチックな美談を壊してしまうのもしのびない。町の人間にショックを与える前に、さっさと村へと戻り隠さなければ。

 そして早急に、金髪の小さな名匠に仕上げの一仕事をしてもらおう。銀色の竜に描き直させるべきだ。絶対に。

「それまでもうしばらく待っててくれよな」

 ウタゴが遠くのヴァレット号につぶやくと、竜の瞳が朝の日差しを受け、片側だけウインクのように光った。

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