血潮
第2弾となるシリアスな、短編です。
深い話で、読書時間およそ一時間なので、
お時間ある方、ご覧下さい~!
「やれやれ、ようやく盆が終わった。少し休もうか、まったくこの暑さはなんだね」
葬儀屋の清掃員は作業着のポケットからしわくちゃのハンカチを取り出し、つたってくる汗を拭った。数日間続く猛暑は老体に堪える。一番辛い作業はガラス拭き。日差しの照り返しで、どこを拭いているのかわからなくなってくる。繰り返し同じ箇所を拭いている気がしてくる。
「誰も見ているものはいないね、ここらで少し休もうか」
独り言を言い、女は木の木陰のうまい具合に死角になっているその場所は、毎回使う場所。辺りはブロックが置かれており、ちんまりと尻を乗せる。一応勤務中。誰かに咎められないかきょろきょろしていると、一人の痩せた老人の姿が目にとまる。じっと一点を見つめ、佇んでいるこの老人は昨日もそうしていた。倒れやしまいか心配になる。
腕時計は、10時を差していた。急いで事務所に入り冷蔵庫を開ける。事務のパート社員は今日も仕事が無さそうだ。いつものこと。
「ちょっと暑いから休憩するよ」
「はーい、お疲れさまー」とこちらを見ずに携帯をいじっている。
冷蔵庫から冷たいおしぼりを二つ掴み、麦茶を紙コップに注ぎ入れ外に出た。老人に近付き、手渡す。
「や、これは気をつかわして申し訳ない」
「いえいえ。熱中症になって倒れたら、また葬儀屋が儲かりまして、私の仕事が増えるといけませんから」
冗談めいた言い方をしてみた。老人はおしぼりで手を拭き、まるで盃を受け取るような動作で麦茶をゆっくり飲んだ。やあ、暑いですねー、などと言い合いお互いにおしぼりで汗を拭き取る想像をしていた。取り繕うように、女も手を拭く。
「何か忘れものでも?」
「いや…忘れられない思いがあるだけですよ」
頭を下げ、去ろうとした老人から、紙コップを受け取るとその老人の後ろ姿を見送った。
翌週の日曜日、葬儀場の店長はセミナーという催しを行った。前もってチラシは社員が配るよう手渡されていて、女は馬鹿馬鹿しいと100部数のチラシ全部を家のごみ箱に捨てた。葬儀場は客集めではない。いくら潰れそうでも、自分の働き場がなくなったとしても、だ。女は激しく憤りを感じていた。つまらない店長にも昨今の葬儀についても。
「様々な地域に配ってくれ。できれば、ここから遠いほうから」
「わかりました」
澄まして出社したはいいが、客が全く来ていない。もう、開場まで30分といったところだ。どうせ、自分以外の社員もチラシを捨てたんだろうよ、と辺りを見渡すと先週のあの麦茶の老人が一人待合室の椅子に座っている。目が合い、老人は頭を下げた。分厚い眼鏡をかけ、筆入れを膝の上に置き、じっと開場するのを待っている。女は嬉しい気持ちを隠せず笑顔で会釈したが、老人には笑顔はなかった。改めて礼が欲しいわけではなかったのだが、何か言葉を交わしたかった。緊張しているのか、体調がわるいのか固い表情だ。会場内では、緊急の会場作りに大わらわだった。店長は、どういう訳だか、自分の休暇と勘違いしており、早出のパート社員が連絡を取り、開場20分前にようなく到着したのだ。
「店長、祭壇はどこにしまいます?」
「あー、倉庫の隅っこに置いてくれ」
「椅子はどこに?」さらに質問が続くと面倒くさそうに、
「自分で考えてくれ。こっちも忙しいんだから」
勝手なこと言ってるよ、とトイレ掃除をしながら、ちらちら女は眺めている。
臨時のセミナー会場が一応それなりに作られた。店長はマイクのテストに余念がない。
会場づくりは、社員でも時給の高いパートの仕事で、アシスタント・ディレクターと呼ばれる人しかできない。けれど・・私なら祭壇をあんな場所に追いやることはしない。そう思いながら再びトイレの清掃に入った。髪の毛一つ落ちてはならないので、這いつくばるように床を磨いていた。
仕事も早々に終え、女は老人が会場の少し離れて立ち止まっているのを見かけ話しかけた。
「あの、おこがましいですが、この会場の話を聞いても意味はありませんよ。ただの人集めでしてね、度々やるんです。ほら、開場の裏手を見てくださいよ」
女は老人を手招きし、こっそりと祭壇を直に置いている場所に案内した。
「あんな風に置かれて、仏さんは救われないと思いませんか。ここは、ただの流行りの葬儀場でしてね、昔からある葬儀とはかけ離れた単なる倉庫。そう、思いませんか?」
「お礼を申し上げなければいけませんね。私は無意味な話を聞くのをやめにします。今は、ただ辛いんですよ。どうしても、来てしまうんです。でも、今日で通うのをやめにしますね。あなたに言われて、少し目が覚めた気分ですよ。麦茶、美味しかった」
「お気持ち察します」
短く話をするうちに、女も少し事情を聞こうと思った。
「娘さんは、葬儀ここでしたか」
「ええ。孫の法事もここでしてね。その手立てをしたのが娘だったんです。その娘が亡くなって・・嫌なもんですな、都会とは。葬儀も儲けにするんですかね」
女は、これ以上の話を聞くのをやめた。
「ここは、もう来ないほうがいいと。そう思いますよ」
「あなたは? まだここで働くのですか?」
「その祭壇や大事な仏具を粗末にするのを見届けてから、一言言って辞めるつもりです。それまで、できることといえば綺麗に掃除をすることぐらいですから」
「あなたのお名前を聞きたい。是非、うちにいらして下さい」
女はしばらくして答えた。
「私はただの清掃員ですから。ありがたい言葉をかけることもできませんし。生きていればどこかで逢えますとも。娘さんと、お孫さんのご冥福をお祈りしていますから」
老人は残念がっていたが、またどこかで逢える気がして、眼鏡をかけ女の顔をじっとみつめてから深々と頭を下げそこをあとにした。
八月の蒸し暑い日。まだ真柴可南子が生きていたときを振り返る。祖父の命日になり父の正志は一人神妙な表情を浮かべ、近所のお寺から頼み込んで手に入れた経本を、声高らかに、まるで高僧を気取ったような声を出し唱えていたと母の春子から聞いた。春子はその出来事を可南子に話したくて仕方がなかった様子だ。
「いつものカフェに行かない?」
誘われたのは、祖父の命日の翌日のこと。
「よし、これで親父の法事は終わり。また来年なー、って言ってね。本当に大きな声だったの。近所の人が聞いたらどうしようかってハラハラしたわ。お爺さんの遺影すらないのにね。でも、紫水晶の数珠を取り出してごそごそやってたわ。真剣なんだろうけど、滑稽でしょ」
まくし立てて、笑いながらアメリカンをずずっと音を立てて飲んでいる。暑いのによくもホットを飲めるなぁと感心しながら話を聞いていた。
「そうねー、お爺さんは案外喜んでいると思うよ」
店の中が昼時になったので、ざわざわとしてきた。話す声も多少大きくしなければいけない。
長く待った末、やっとクリームソーダがテーブルの上に置かれた。ウェイターは、
「ごゆっくり」
そう言って伝票を置いた。本当は早く飲んで帰ってくれ、と言わんばかりのいびつなクリームの形で、既に先端のうねりからしずくが一滴滴り、慌ててスプーンで拭う。ふと後ろを振り返ると、待合席には涼を求める客が増えている。店側としては、回転率をあげたいところだろうがそこまでは知らない。自分達も客なのだ。春子の話は長い。ゆっくりになるだろう。
「お爺さんは、確かにいい法事をしてもらったね、あんな遠い里まで行かなくてもいいし、それに・・叔父さんがお坊さんを呼んで、お経をよんでもらうよりかはいい法事だったと、そう思うよ」
さりげなく可南子は思ったとおり話した。春子は黙ってしまった。
少しの沈黙が、カフェの賑やかな声しか聞こえなくなる。娘なら分かるという、同意のようなものを期待していたのだろう。父の滑稽さを楽しんで共有したいのだ。
亡くなった祖父からの虐待に耐え切れず、嫁ぎ先から逃げ出した春子だ。今、長男の父と一緒にいるということは、父が後から追いかけたのか、故郷から遠く離れた地で、三つ上の兄、純一と可南子が生まれた。跡継ぎは父の弟である叔父が跡を継いだ。そう聞いていた。
「ね、お母さん。どうして京都で結婚せんかったの? 集団就職も、15歳から22歳までなんて、一番楽しいときじゃないの」
「呼び戻された」
春子は少し暗い表情で、半分になったアメリカンをスプーンで手持無沙汰のようにかき回している。何か言葉を探しているのだろう。
以前聞いた父方の意外な祖先のルーツ。それも最近になって知った。代々続くその田舎地方の長。祖父は日清・日露戦争に出兵し、無事に生還してきた。(どちらも日本が勝ったのか)それ以上の出兵はなく、国から報酬をもらっていたのか第二次世界大戦の貧しい暮らしを余儀なくされていた、村民をよそ目に豊かな暮らしをしていたという。これも、春子の話だ。脚色はしているだろうと想像するも、大体そんな話だった。
村長は祖父の父の代で終わっていたが、気位だけは高くみな癇癪持ちだった。
高くそびえたつ村を見渡せる家の構えは、家だけでなくなにか人を見下しているような佇まい。田んぼだって、畑だってそれは高い場所に位置していて、水に困っていたという。
そこまで知り、村民が苦労して水を運んだのだろうと想像した。それ以上知りたくなかった。ただ人は毎日生活するだけで、どうしても村長一族の家を見上げなければならない。恨みも当然かっていたのだろう。その罰がいつか子孫である自分達末裔にふりかかってきそうで、怖いのだ。
一度だけ、7歳の時父の本家で墓参りに帰省した。たしか祖父の喜寿の祝いだったと思う。竹藪の急斜面を20分程上った先に一族の墓はあった。
「お母さん、このお米、みんなのお墓に配るんだね?」
「そうだよ。みんな同じにまくの。お母さんはお花を供ね、可南子はお米ね」
平たい石や、もっと小さな石がある。これがお墓なのかと信じられなかった。母は同じように花を供える。この花はね、りんどうよ綺麗な紫の色ねなどと言い置いていく。
「お母さん、この石ころがお墓なの? 小さな石だからお米は少しがいいね」
その瞬間母に初めてぶたれた。わけが分からなかった。
「ごめんなさい。あの大きなお墓の人が少しでいいって言うから」
言い訳だろうと思ったのだろう。もう一度反対の頬をぶった。
「二度とそんなこと言わないの。可南子が聞こえているのは、ただの言霊。今だけ聞こえるご先祖様の声。大丈夫よ、今邪気を払ったから。みんなおんなじにしなさい、いいね?」
オンオン泣きながら一人竹藪を降りて行った。あのとき、確かに言葉を聞いてしまった。・・もう、帰りなさいと。
墓はあちこちにあり、戒名すら何もないのだ。あとになり祖父が亡くなった際、初めて立派な石塔が建てられた。それで祖父は満足だったのだろうか。亡くなる前、山頂にある墓まで這いつくばり祖母の墓を空けたらしい。そこでこときれた祖父の最期だった。90は超えていた。祖父は祖母を愛していたのだろうか、気になってしまう。
「お祖母さんは、逃げられなかったのよ。50になる前に亡くなったわ」
一呼吸して、春子は首を傾けて笑った。
「息子ばかり可愛がってたんだろうよ。なんでも一番目を構いたがる、その息子は」
「お父さんか」
「そう」
「そのお爺さんに役に立つ、村長の孫嫁探しがおかあさんに矛先が向かったみたいね」
「最悪」
「まぁ、最悪だなんて・・最悪なんだろうね。お爺さんのときはね、3人のお嫁さん、逃げたのよ。で、4番目のお嫁さんがお祖母さん。お父さんの母親。4人子供を産んだけれどね、一番最後の女の赤ちゃん産んですぐに赤ちゃん死んだ」
「まさか、殺されたとか?」
「それはないだろうけど・・ショックだったんでしょ。早々に亡くなった」
今日は黙って話を聞くことに専念しようと決めた。
「お祖母さんが亡くなったでしょ、だからお母さんが京都からお見合いだって呼び戻された。いきなりよ、お見合いからたった2週間で入籍。お母さんの気持ちなんてお構いなしよ。あぁ、選択の余地なんてなんにも。そう。新婚生活は、掃除洗濯は勿論、畑や牛の世話。それはいいの。でもね・・」
少し眉間にシワを寄せながら話し出した。
「お爺さんのいじめ。客人のもてなしがなっとらん、そう言ってお客の前で、はよ出さんか! 一口飲んでは、こんな茶出せるもんか、入れ直せ、って急須をひっくりかえすの。・・世話係のための結婚だったみたい。辛くてね、毎日泣いてた。お父さんなんてどうでもいいや、って飛び出したの」
そう言って、春子はお喋りにザワザワさせている女学生達に視線をやった。
「京都時代は楽しかった? 彼氏とかはいたの?」
途端に顔をほころばさせ、
「それはもう。それは思い出がいっぱいよ。お父さんなんかに言うものかって。渡月橋にダンスホール・・」
うるさいカフェの中、遠い目をしている。色々な恋をしたのだろう。
「お母さん、こう見えてモテたの」
「今もモテているじゃない、お父さんに」
「あれは論外」
「あれって・・それはないでしょう」
窓際の席から、空がどんより曇ってきたのに気付く。
「お母さん、洗濯物入れないと」
「そうだった」
慌ただしく会計を終え、軽自動車のエンジンをかけ母を家まで送り終えた。途端に大粒の雨がフロントガラスに叩き付ける。
「またね」短く小走りで母は洗濯物を取り入れている。その姿を見つめ、ギアをドライブに入れた。
そうして話の続きは持ち越しとなった。
助かった・・母には気付かれてはいない。胸の辺りを左手でぎゅっと押さえる。可南子は胸の病を患っている。誰も知らないこと。痛みが激しくマンションまで一時間も運転できる自信はなかった。雨は土砂降りになってきている。冷房をメモリいっぱいに調節し、運転に集中する。カーラジオからの声が何も聞こえてこないほどの痛みだ。帰ったところで誰もいるわけではない。ただ、唯一痛み止めがあるからだ。母の前では絶対に飲まないと決めている。町医者でもらう痛み止めだけの服用。大病院へはもう行きたくない。長期間入院させられるからだ。入院費を惜しんでいるわけではない。これ以上の治療は、無駄だと分かってしまってからは、自分のできる限りのことをして、生きてゆくと決めたからだ。
そうそう何度も実家に行ける自信はなかった。悟られたくはない。
先月、母の首筋が妙に腫れ上がっているように思え、病院に連れて行った。
「お前は心配性ね」
などと笑っていたのに結局、受診して検査を受けたらリンパが腫れて摘出手術が必要になると知るや否や、子供のように怖がる。そんな母に自分の病など伝えたところでどうするのだ、と思うのだ。
「私の言うことを聞いて。病院までいつでも付き合うから」
力強く言ってしまう。自分はもっとまずいことになっているのに、だ。なんとなく最後の親孝行のような気がしていたからだ。
「可南子はしっかり者で助かるわ。それに比べ純一のほうは・・何やってるんだかわからん生活送っている」
無意識に兄と比べている春子は、村長一家のように第一子だけを可愛がることなく平等に愛情を注いで育ててきた。それが今になって子供を差別していることに気付いていない。
結局春子は一週間の入院と、レーザーで軽く腫瘍を取った。いく針か縫ったの、と自慢げに言う。そんな母をみて良かったと思いながらも、胸の痛みを堪える。
「また、来るから。無理はしないで」
そう言うのがやっとだった。弱い冷房がかかっているにもかかわらず、へんな汗をかいている。この病院は市内では一番大きな病院。倒れるのだけは避けたいのだ。
トイレの車椅子が入れるところまでなんとか手すりを掴み、よぼよぼと歩き扉を閉める。バッグから急いで痛み止めを取り出し、三粒口に放り込んだ。水は、この際いい。じっと唾液が出てくるのを待つ。
どれぐらいかがみ込んでいただろうか、痛みが若干和らいできた。その間、何度も扉をたたく音に申し訳なく思うものの、どうしようもなかった。何とか話せるくらいに回復したものの尋常でない痛みは、自分自身が一番よく解る。とても運転して帰れそうもない。またよぼよぼと歩き、何十分もかけ病院の受付まできて、
「自動車できているのですが、駐車させて頂くってこと、できます?」
「あ、はい。一晩でしたら。また明日にこちら窓口にお申し出ください。お大事に」
「ありがとう、お願いします」
玄関先にはタクシーが停まっている。迷いもなく乗り込む。
「行き先は?」
「西尾町の1丁目、サンマルクという4階建てのマンションまで。目印に向かい側にコンビニがあります」
「了解」
後部座席のシートベルトの着用は義務付けられているのを思い出した。ごそごそしていると、
「お客さん、顔真っ青ですよ。なーに、横になっても構いはしませんから。楽にしてください。安全運転でいきますから」
「すみません」
遠くの景色を眺めることなく、横になりぐったりしていた。痛み止めの副作用だ。少し飲みすぎたようで痛いのに、眠気がくる。いちうもの倍は飲んだ。弾力のあるシートは振動も感じさせない。しばらくうとうとしていると、
「お客さん、着きましたよ」
振り返る運転手は、もうメーターを切っていた。
「5千5百円ね、細かいのは省いたよ」
「ありがとう」
慌てて財布から一万円を取り出した。おつりをもらい、急いで財布に押し込む。
「お大事にね」
病院で待機しているタクシードライバーはああも親切なのか、感嘆せずにいられない。
このマンションは、名ばかりでエレベーターすらなく、階段を必死に上らなければならない。何とかたどり着き、鍵を開けるとソファに身を投げ出した。
ガンが進行しているに違いない。けれど、自分にはまだやらないといけないことがある。遺産分与の為の書類だ。遺言状、今でいうエンディング・ノートを完璧にしなければならないのだ。その作業が終わるまでは、抗がん剤治療を始めてはならない。今晩もノートに記す。考えることは山ほどある。もつだろうか? 両親が最近、葬儀場の掛け金をキャンセルしたと知って、不安になる。けれど、今日はもう気力を失せていた。ベッドにずりずりと移動するといつの間にか眠りについた。
翌朝になり、痛みが嘘のようになくなったので、うーんと伸びをした。病院へ車を取りにいかないと足がない。母の顔もみたい。
携帯電話でタクシーを呼ぶ。呼び出し音が長いのにイライラする。
「はい、西尾タクシーです」
「配車をお願いします。一丁目のマンションサンマルクまで30分後で」
「了解しました。では、10分前には表で出ていて下さい」
炎天下の中、10分も立っていられない。判りそうなものなのに。
「着いたらこの番号に掛けてもらえませんか」
電話番号を伝えると、同じ口調で、
「了解しました。では、運転手に伝えます」。
倒れてはいけない。それだけは回避しなければ。そう何度も自分自身を叱咤する。
昨日と違い、きちんとシートベルトをしめた。病院まで30分程。母に確かめておきたいことがある。墓の話だ。
病室の春子はけろっとしていて、
「また来たの。マメね」
嬉しさを隠し切れない様子だ。要は暇を持て余していたのだろう。
「えっ? 葬儀と墓について? 可南子。私は簡単には死なんよ。それにあれだ。死んでからの事ばかり考えてどうする。どうでもよくなったのよ。それだけ」
澄ました顔で答えるではないか。
「じゃあ、敢えて聞くよ。お父さんの本家でいいの?」」
「それは、何が何でもやめて」
「それ以外はどうでもいいの? 無縁仏でも?」
「それも寂しいねえ」
ん、もうーと二人で笑ってばかりで話にならない。
「可南子」
「ん?」
一呼吸して言った。
「お父さんとは、何とか少しでもいいから離しておいて。それだけ」
これで大分記述できる。家についたら細かくかけるだろう。
可南子は子供ができない身体だった。同級生たちは、離婚して実家に子連れで戻ってきていると、ちらほら噂で聞く。あまり聞きたくない話だ。みな、この情報をくれるのは母からなのは、細やかな配慮をできない性格なので仕方がない。けれど、羨ましいとも楽しそうとも言うのは本音なのだ。
兄には一人の息子がいる。血族を絶やすことはないだろうけど、今となっては心残りになる子供もいないので、かえって良かったと思うことにしている。
「一番村長の血を受け継いだのはあんたね」
「え? 何? 聞こえなかった」
リンゴを剥くのに夢中になっていた。ちょっとした空想も含めて。
「あんたね、血がカァーって上ったとき、なんていう口癖があるか気付いてないでしょ。怒る相手に向かって<きさま>って言うの。そう怒鳴られたら、みんな怖いから逃げるでしょ。可南子の離婚はそれだわ。夫になる人なる人みんなにきさま、を言ったのよ
確かに。三人共逃げていった。血筋ね・・それでは自分の血が憎い。置手紙とともに印鑑を押された離婚届。同じ過ちを三回も。バカみたいに私の中を流れる血潮。怒鳴った後くらい後悔する。したいのだ。修復できない程激しい感情が生まれ自分自身持て余している。
血液ごと善人で、温和な人と丸ごと交換できるならしてみたい。全身の血そっくり入れ替わっても構わない。
「いいか、歯を食い縛れ」
正志が殴る前の一言だ。五歳のときから始まった。何度も殴られた。真冬の空の下、下着一枚で何時間も立たされたこともある。
「こうされた理由が分かったか?」
「分からない」
「なら、もう一度歯を食い縛れ」
折檻は中学校に上がるまで延々と続いた。春子は遠くで見ているしかなかった。庇って欲しかった。高校を出たら上京しようと勉学に励んだのも、ここから逃げたかったからだ。幸い、進学校の高校に受かり、その後も順調に成績を伸ばして、東京の大学へ推薦合格できた。そのあとは好き勝手にやってきた。
学校生活に慣れ、ワンルームのアパートでの一人暮らしにも慣れた。そんなある日。
絵美という、派手な身なりをした女の子が、可南子の肩を叩いたのが始まりだった。
「ね、今晩暇?」笑いながら、絵美は下から上までじっと値踏みするように見た。
「ふーん、田舎臭いけど化けるよ、あんた」
絵美は徐にVuittonのバッグから、三十万の現金を可南子に握らせた。唐突すぎて戸惑う。
「なにこれ、困るんですけど」
「いいから、いいから」
ぐいぐい手をひっぱり、校門の外へ連れていかれた。
「私のような恰好をしてきて、三時間後に私ここで待ってるから。お金は返さなくてもいいよ。私の勝手だし。少し派手目にしてきて。服、ヒール、化粧品、それぐらいは買えると思う・・唐突だけど、あなた文学部?」
「そうですけど」
「経済学部もなかなかいいよ。数字に詳しくなるっていいよ。株の動きにもね。いい儲け話があるんだ。面白いよ」
これだけ言うと、ハイヒールをカツカツいわして絵美は去っていった。どういうわけか、お金を返すという選択肢もあるのに、派手な服を買い、派手な化粧をし、絵美のような高いヒールで香水までふりかけた。そして、三時間後また絵美が来るまで校門前で待つ。大して待たないうちに絵美はタクシーでやってきた。そのまま車を待たせている。
「いいね。これなら安心して紹介できるから。乗って、さ、早く」
言われるままタクシーに乗り込む。行き先はもう運転手に伝えているらしい。
「今夜ね、財界人の一夜の恋人の会があるの。一か月に一度催しがあるんだー。ぼろ儲けよ・・あなた、経験ある?」
「なんの? その会の?」
「違う。お・と・こ。初めて?」
なんて失礼なことを聞くのだろう。黙っていると、
「あぁ、初めてね。喜ぶわ、ああいうオジ様たちは。なお更よし」
そして、ある大きなホテルの一室に招かれた。その一室は怪しい匂いで充満している。タバコだけの匂いではない。高級そうな酒だけにうっとりしているワケでもなさそうだ。酒の量と、そこにいる人の目つきが比例していないのだ。煙が気持ち悪く、くらくらしてくる。帰るにも、ドアの入り口には見張りのような男が二人も立っていた。可南子はタバコを吸わない。けれど、これは、タバコだけではないと感づいていた。(薬物の会ね・・加えて愛人の会か)
可南子は、一番のお客様だと、知らない人に紹介され挨拶をした。すると、そのK物産の取締社長に、欲しい物は全て与えてもいいから、と言われ別にとっていた一室で可愛がられた。嫌な時間が澄み、ベッドでうずくまっていると、
「君にはマンションを与えるから。そこに引っ越すといいよ」
そう言われ、その後一億するマンションを贈られた。ここで、好き勝手にしてもいいとさえ言われたのだけれど、ある日自分名義になっているのを確認し、勝手に売却した。
(愛人なんて、糞くらえ。薬物ばらすぞ)
自分を蔑むような扱いに可南子は腹を立てていた。勿論、絵美にもだ。けれど、その結果手元には学生には考えられない資産ができてしまった。どこから情報が洩れるかわからないので、都内から離れ小さな賃貸マンションに移り、大学も辞め株の投資を始めた。取締社長は、一日で縁を切った。その後経済新聞を購読し、株式の動きのチェックは欠かさないでいた。増えすぎたお金の匂いを嗅ぎつけたような男とばかり遊んだ。大抵の男は結婚したがった。一人目の結婚の失敗から、次から次へと再婚し、最後の夫は、
「君の癇癪についていける人なんて誰もいないよ。きっとそういう育ちだったんだ。僕は努力したほうだけどね、君とは幸せになれそうもない」
育ちをバカにされた誇り高い血が騒いだ。
「よくも、言ったねきさま。さっさと出ていけ!」
自分の家だから、出てゆけがするりと口から出たのだろう。けれど、この台詞は父がよく折檻の末に使った言葉。それが、染みついてしまっているとはなんていうことだ。
慰謝料というお金が発生しなかったのは、それだけ可南子の資産に触れるのが怖かったのだろうか。男たちは本当は、お金抜きで幸せな結婚生活を夢見ていたのかもしれない。けれど、素直になることを知らなかったし、そこまでの器の男に出会えなかったのもあるのだろう。最後の夫が出て行ったときに、実家に戻った。兄純一の次男と一緒の部屋での暮らしは幸せで、子供とはこんなにも可愛いものかと毎日が楽しかった。実家に戻るのも抵抗があったのを、甥っ子の浩二の幼稚園の送り迎えや、持病の通院など母親になった気持ちでいた。無邪気に慕ってくれる。それに応えるのが喜びだった。その浩二がある日亡くなった。病気ではない。自殺だ。
原因は父正志からの折檻だった。近所を流れる用水に身を投げた。なぜ、たった六歳の子供がそんなまねをしたのだろうと、誰もが不可解に思うだろう。毎日、兄の雅也を大事にされ、父の純一も母親も家を出てしまい、腹いせに祖父の正志が、
「お前も家から出てしまえ。うちは、雅也だけいればいい」
なにか浩二がいらない言葉を発したのだろう。まだ幼いのだ。浩二は思ったことをはっきりと口に出す。そんなところは、母親によく似ていた。けれど、そんなことよりも誰も探さない家族の不自然さだ。もう、外は夕暮れ時をとうに過ぎている。仕事から戻り、ことの次第を聞くも、酒に酔っぱらった正志は、
「じきに戻るだろう」とまだ酒を飲み続けているではないか。
慌てて大雨の降る公園や森や、浩二と遊んだ場所を必死に探した。喉が枯れるほど浩二の名を呼び、思いつくまま探した。一旦家に戻り、、
「きさまら、外に全員出て浩二を探しやがれ! なんで探さないんだ!」
その言葉に、ようやく春子と雅也は探し出した。てっきり正志は捜索願を出すと思っていた。
また家にもどると、
「わしは、今から警察へ行くと飲酒運転でつかまるからな。そんなまねはわざわざ大袈裟にするものではない」
など悠長に構えているではないか。
夜通し探し続けた。浩二は、朝になって、用水の金網に引っかかっている姿を近所の人が見つけた。
浩二の葬儀に、純一と別れた奥さん・・浩二の母親もきており大きなお腹をしていた。泣いてもいない。次の家庭があるのだろう。喪主は祖父になる正志であり、父親の純一はどういうわけか連絡がつかなかった。
「最愛の孫を失い、何といっていいかわかりませんが、可愛がられた孫に先立っていかれ生きがいをなくしています」
涙をぐっとこらえた可南子は、孫殺し! と叫びたかった。事情を知っているのは家族だけ。浩二はあと少しで卒園式を迎えるところだった。毎日ふたりで歌を歌いながら、自転車で通った保育園までの往復の道。無邪気な可愛らしくはにかみながら歌う声はもう聴けない。その悲しみに誰も家族は感じていないのだろうか、不思議なくらいで、葬儀が終わるとまた普通に暮らすのに耐え切れない思いだった。もう、浩二は帰ってはこないのだ。
まだ親族がいるとき、呆然としていた可南子は、白い布に包まれた箱に入っている浩二を取り上げ二人で過ごした部屋で大泣きし抱きしめた。この子は私の子。そう、いつまでも抱きしめたかった。
「おい! 何やっているんだ。自分のしていることが分かっているのか! もとにもどせ」正志が叫んでいる。
「もとにもどせるなら、浩二を返してよ。何をしたのは、きさまだろうが!」
またお骨を抱きしめた。その場がシンとなり、そうして可南子は家を出た。二度と戻るつもりはなかった。
春子には、県内で一人で暮らしているから、と短い手紙を送っていた。もう7年も連絡をしなかった。相変わらず独身で、株の動きだけを気にする毎日を送っている。もう、今となっては働くことも、喜びもなにも感じることはなかった。ふと思いついて電話をしてみた。電話機に向かうのも久々で緊張しながら震える指でダイヤルすると、春子の穏やかな声が聞こえる。
「どげぇちちょった?」
春子はたまに里の方言がでる。
「元気よ。ね、お茶しない? 顔みたい」
「いいよ・・可南子、お父さんが心配しているよ」
「そ。心配される覚えなんてないわ」
「駅前のラウンジに来れる? あそこなら電車でいけるから」
「いいよ。じゃ、すぐに用意するから」
「待ってて、私もあとから行く」
どうしても聞きたいことがあった・・浩二の七回忌はどうするのかと。初七日も、四十九日も初盆すら帰らなかった。連絡をせずに、わざと行方をくらますようにしていた。もう七年も、浩二の死から立ち直るのに年月を要していたからだ。その費やした月日はひたすら成仏を祈っていた。たった一枚の二人の写真を飾り、生きていれば今頃は何歳だ、誕生日だなどと思い出しては泣く毎日だった。それほど、浩二を愛していた。胸の痛みを感じ始めたのは心だけでなく、悪性のものは体に隅々まで広がり、転移というものは始まっていた。
ラウンジにつくと、春子が手を振っていた。何も変わった様子がない。いや、少し太ったか。
近づくと可南子の肩に手を置き、ぽんぽんと叩く。
「毎日ちゃんとしたもの食べてる? 可南子はなんだか痩せたね。いい人でもみつかった? みつかったかどうだか、いいんだけどね、元気ならそれでいい」
シワも増えたか。けれど、あっけらかんとしている話しぶりは何も変わっていないのに安心する。
「お父さん、安酒ばかり飲んでるの。そのあとは安い焼酎をね・・あいつの結婚の祝い酒までは、うまい酒飲むもんかって」
「それは心配になるわね」
「・・もう結婚はしないの?」
ひとつ呼吸をおいて、
「無理ね。もう誰にも左右されたくないわ。お父さんが美味しい酒を飲める日は延々とないわね」
春子も深くため息をついて、横になっては飲んだくれてになっている正志の話の説明をしだす。
「そう・・お父さんアルコール依存症で入院してたの。でも酒に逃げるうちはいいわね、でもそれって卑怯だわ」
「そうね」
「そうそう、ところで浩二の七回忌のことなんだけど、もしかしたら納骨もまだなんじゃないかって」
図星だったのだ。春子は下を向いてしまい、
「簡単じゃないのよ。もう、責任逃れの親族ばかりでお母さん大変だったんだから。奥の部屋の仏間にいるよ、浩二」
「じゃあ、みんな安心して眠れないわね」
「そうなんだわ。こんなこと頼めるの、可南子ぐらいしかいないんだけど、どうにかならない?」
「・・浩二。ゆっくり眠れないわね、ちょっと考える」
「お願い」
運ばれてきたケーキにアメリカンでいろいろ話し込んだ。七年も隔ててきた年月が嘘のようだ。血の繋がった親子だ。
「今更だけど、どうして浩二はあんなにも虐待されていたんだろう?」
「それは嫡男じゃないからよ。真柴家のお家柄でしょ」
「可哀想に。いつも怒鳴られては泣いて、可南子ーって抱きついてきたわ。この差は一体なんの意味があるんだろうね? 雅也とは全く違う扱いはお家柄か。そういえば、私も長女だけど兄とは扱いが違う思いは、確かにあったわ」
春子は、真面目な顔で、
「あんたは、大人になってから非行に走ったわね。東京へ逃げた」
ふふっと笑えてくる。東京へ非行に走るという春子のたとえが面白かった。
祖父は長男の正志をやはり溺愛し、次男で跡継ぎとなったオジとは死ぬまで区別していたこととなんら変わりはない。上に従えという村長一族の家訓でもあるのだろうか・・その人達の罪深い育て方は、末裔の可南子には理解しがたかった。それは、春子も同じだという会話をしたところで、春子は、
「ちょっとトイレいってくるけど。勝手にいなくならないでね」
トイレにいくだけで、前置きをするのだ。笑って、
「逃げたりはしないし、はよ行っておいで」
言いながら、一人考えた。人格の成形の途中で問題ができてしまったのだということを。可南子自身の生い立ちは、幼いころは辛かった。ただ一つ気になることがる。
(兄はどうして子供を置いていったのだろう?)
段々と血が上ってくる。音を立てて上ってくるのを感じる。トイレから戻ってきた春子は、
「家まで送ってくれる? 車で来たんでしょ? お父さんの顔をみていく?」
タイミングが悪い時に春子は無邪気だ。今、一番父に言いたい言葉は、
「きさまは何様のつもりだ」
父に対してきさまと言いたいのだ。喧嘩をふっかけたいのだ。
段々と般若のような顔つきになっているのをみて、車から降りた春子は必死に、「穏便にね、穏便に」
そう心配そうにしている。実家につき、春子は先回りして正志を呼ぶ。
ガラガラ、と勢いよくガラス戸を引くと、春子が小さな声で、可南子が帰ってきたわと煩わしい前置きをする。耳が遠くなりつつあるのか、声があまりにも小さかったのか、聞こえてはいない。
「お父さん! 可南子があんたに会いたいって来てるよ」
更に声を張り上げているけれど、会いたいわけではない。
白髪と頭髪も薄くなって、一回り小さくなった父が玄関までやってきた。
「・・お父さん。そのまま部屋にもどり」
「おお、可南子か・・お母さん、お茶を頼む」
そのお茶を頼む当たり前の姿に、母を苦しめた祖父の姿を重ね、憤る気持ちを隠せない。
なにがお茶だ。他に言うことはないのか。
「茶ーなんていらない。浩二を拝みます」
「そ、そうだな。まずは浩二にだ。わしも線香をあげようとするか」
正志は慌てて立ち上がろうとした。腰痛を患っているのか、うっ、と小さく洩らすと手を腰にあてた。蝋燭に火をともし、線香をあげる父の後に可南子も拝む。
「下座に移って。きさまは人の人生を奪った生き恥をさらして、悔い改める毎日を送りなさい・・そしてひっそりと死になさい」
父であるにも関わらず、そう言い放ち立ち去った。正志は何も可南子に話しかけられなかった。
母には携帯番号を教えておいた。その後ちょくちょくお茶をするようになった。
もうすぐ浩二の七回忌。セレモニーホールに、法事の予約を可南子は入れた。最近は音楽も頼めるようになり、幼稚園の先生から受け取った卒園のお別れの歌を渡しておいた。小さな音楽でかけるようお願いしておいた。浩二の声は入ってはいない。
親戚を一度、全て呼んでみようかと案内状を両家の親戚、それから離れた親家族を調べ、一斉に葉書を送った。どんな感じで、七回忌を迎えられるのか知っておきたかった。突拍子もない思いつきだ。
ある程度想像していたものの、少人数の親戚誰一人集まらず、父の一族も誰一人も。母も同じく誰も。結局離れ離れになった家族が集まった。兄とは随分と長い間会っていなかった。
話し声が聞こえてくる。集まった家族は何の声だと、きょろきょろしている。
「卒園式で歌えなかったお友達に、みんなで一緒にお別れの歌を歌いましょう」
録音されたテープレコーダーから、先生らしきはきはきとした声がして、さん、はい、と掛け声とともに子供達の歌が始まる。
純一は泣きそうな顔をし、母親は難しい顔をし、春子はハンカチで目を押さえて会場から出て行った。正志が一人残った。
「可南子。お前のやりたいことはこれか。何一つ意味がないし分からない。子供の頃だったら殴ったところだ。わしは、今そんな気持ちでいる。不愉快極まりない」
「そうね、私のこと、わかる人なんて誰一人いないわ。そんな法事でも、浩二はきっと喜んでいるはずと思うからよ・・けどね、お父さん。もし、もしもよ。私が末期ガンだと知ったらどうする? これが、私のできる最後の供養だとしたら、こんな法事とはいっても無下にできないでしょう」
「なんだ? なんだって?」
「細かいことは、遺言がもうできているから。そして遺言状は弁護士へ。遺書は私のマンションにあるわ。明日から長期の入院に入るかもしれないから、入院はやめたわ。だから、もう・・」
「おまえ、さっきから何を言っているのかさっぱり分からないぞ。一体どうしたんだ」
「死ぬときは、ひっそりと逝きたかったの。気力も限界。疲れた・・最期ぐらい、実家で待つのもいい。もうね、進行が早くって。点滴ぐらいしかないだろうね、とにかく。もうやり終えた」
可南子はふっと気が遠くなったゆく。崩れ落ちる体を正志の老いた腕に支えられて二度と意識が戻ることはなかった。正志は、やせた可南子を自分のシミだらけの両腕に抱きかかえ、家に運び布団に寝かせた。数時間後の早朝、慌ただしくこの世を去った。
正志は、硬直した可南子の亡骸を抱きしめて、声をあげて泣いている。帰ってきている純一が、
「病院で死を確認しなければ、親父。七日以内には死亡届を市役所に出さないと」
「可南子は死んじゃいない。また起きてくるんだ。眠っているだけだ」
繰り返し言うので、みな居たたまれない気持ちにさせられる。
「そうだ! 田舎なら、火葬しなくてもいいから今から連れていく。なぁ、可南子。山の上の墓で眠るんだ。燃やせやさせまい。大丈夫だ、みんな眠っているから。わしも後から行くから」
そう繰り返し言うものだから、必死で純一が誤魔化す。
「大丈夫だ。親父、こっちでもまだ火葬をしなくてもいいはずだ」
そんなはずはないのだ。昔とは違うことを正志は知らない。春子も見ていられなかった。
家では、正志がこんな様子なので、喪主は一体だれが相応しいか集まった親族が、純一が妥当だということで落ち着いた。
冷静な純一の長男の雅也は、可南子のエンディング・ノートをじっと見ている。一枚目に箇状書きで記されたページに視線を落としている。
・最期まで延命処置は行わないこと
・通夜と葬儀場の入金は済ましている葬儀場で行う
・死化粧は業者でなく、母春子が行う
・縁者は全員知らせること
・法事は簡略してできるだけ質素にすること
・遺産で家族が揉め事をおこさないこと
・墓について、西尾霊園に土地と墓石を用意してあるので、そこで浩二と一緒に埋葬すること
箇条書きはそこで終わっていた。
「ちょっと、可南子ちゃん遺書があるんだって。見せてもらえない?」
正志の義理妹が、そのノートを呼んでいる雅也から取り上げる。
「ふーん、ガンだったのね。それにしてもお姉さんは一体何をしていたのかしら・・抗がん剤って手もあるでしょうに。今は医学が発達しているのよ。それに死ぬまで母親が気付かないなんてことってある? ねぇ、純一くん。あんたもお兄さんでしょう、しっかりしい」
「ちょっと、うちの晃の結婚式今年に控えているのよ。困ったときに死んだものね」
「すみませーん、こちらに並んでご記帳お願いします」
年の離れた従姉妹が受付をしている。周りは賑やかく、とても通夜とは思えない。
父方の親族は好き放題言っている。棺に眠る可南子はまるでその光景を楽しんでいるように、微笑みを浮かべているように見えた。
この世からはもういなくなるけれど、生前は死ぬことすら楽しみにしていた、そんな生き方にも見えるな、と近所のおじさんが可南子の顔をみて呟いた。
「どれどれ、このノートが可南子ちゃんが書いた遺書よ。拝見するわね。へー、まぁしっかり書かれていること。死ぬ用意ばかりしっかりして、生きることを考えなかったのかしら。なんだかね、ちょっと理解しがたいわ」
「ね、可南子ちゃん、本当は自殺なんじゃないか? って同級生たちが集まって騒いでいるけど、みんな聞くに聞けなくて」
まだまだ、噂話でひそひそ言い合っている。
「三回も離婚したんだって。子供も産まずに。でも春子さん、憔悴しきっちゃってて。あんな春子さん初めてみるわ。末期ガンの娘に気付かなかった馬鹿親だって自分を責めてみえて。それはもう見てられなくて」
なかなか賑やかな通夜になっていて、こう狭いお棺で眠っている可南子は、浩二と出会える時をずっと楽しみにしてきたのだ、そういうお爺さんもいた。可南子が小さなころから見守ってきた人が、じっと長い間お焼香する。浩二と可南子がボール遊びをしているのをよく公園で見てきて、真柴家の事情をよく知っていただけでなく、七年前浩二を用水で亡くなっているのを見つけた時の思いを重ね、ああ、無常だと呟きじっと拝んでいる。
葬儀が終わった。全て済み、可南子は煙になって空へと昇っていくのを見届けてからの正志は、もぬけの殻になった。何をしても何をみても感じることもなく、ぼんやりなんでもないところを歩いていたら転び、足首を捻挫した。
「もうろくしたものだな、可南子」
娘の最期を腕の中で眠らすとは思いもよらず、ただ、自分がしてきたことを一生の償いとしてゆかねばと決める。
ノートは一冊びっしり書かれており、みな全部は読むことが出来ずにいた。多分、可南子は生前予想していたのだろうか、
(エンディング・ノート 真柴可南子)と書かれたものは、出だしから分かりやすく、まず一番に延命処置はしないこと、と順番をおいて記している。実によくできていた。
誰のため、というより、自然な生き方をした。それは、人からは不器用な生き方だと思われがちだけれど、やはり若すぎる突然の死は身内にはたまらなく辛い死に方だった。
一族の末裔がまた一人あの世にいき、あちらでは代々の村の長関連のご先祖様が沢山いるはずだ。
(上手に過ごせるかな? 人づきあいで悩みそう)
そんな可南子の笑い声がしそうで、正志は、はやく自分もあの世にいかないといけないと、おかしな責任感すら生まれている。白い布の箱にいる可南子は早く浩二と眠りたいと、訴えているだけで落ち着かないのだ。申し訳ないけれど、生きている自分達には可南子のお骨は本当に責められているようで、息苦しさを感じている。
正志はオンボロ車を走らせ、ノートに記述されている霊園に初めて訪れた。びっこを引きながら歩いていると、背後で声がする。
「真柴さん、ではないでしょうか、私、管理をしているものでして」
「はい、そうですが。よく分かりましたね」
「もしかして、と思ったんです。カンですよ。墓地まで、ご案内いたします」
スーツ姿の、正志より十ほど若いように見えた男性。説明を受けたものの、何も頭に入ってこない。今は、無理だと思ったその男性は、
「後ほど、ご家族と一緒にいらして下さい」
静かにあとにしていった。それだけ聞いて、正志はびっこをひきながら車へと戻った。ただ、真柴家、という石塔を確認して。
(あいつのことだ。いい物件だ、と思って買ったんだろうよ)
そう、思いまた涙が出て頬に伝ってくる。
マンションを売却していたようだ。どれほどの価値があるかもう、考えていたのだ。それは立派な墓地で、その中でも堂々としていた。四十九日の法要が済んだら早々に埋葬してやろう。浩二と一緒に。早く捻挫を治さないと二人に笑われる気がする。遺言には、法要は身内でという記述があった。葬儀場から、初七日の法要は是非、うちでと問い合わせの電話があったが断った。けれど、可南子は確かにここに足を運んだのだと、今度はまた葬儀場に行きたくなるのだ。
「お父さん、もう、やめましょうよ。悲しいのはわかるけど・・」
「うるさい。行かずにはおれん」
また、車に乗る。セダンのオンボロ車だ。この葬儀場で、あの日浩二の法要の時、明らかに可南子の体は病魔でギリギリの気力だった。もう一度聞いておきたかった。あの憎まれ口。わしにむかってきさまと言う娘に。
(おい、誰もお前がいないと家は廻っていかないのだ可南子よ。帰ってこんか、生きてる世界に。お父さんはまだ喧嘩したりないのだよ)
自分勝手にこみあげてくる涙は、このところ絞り出せなくなって、ただ自分が泣いているのではないかと、それこそ勝手に涙が出ていると思い手をやると全く涙などない。遺言の続きをまだ全部読む自信はない。もう、初めの二ページでおおよそ終わっているように思えていたからだ。箇条書きのところしか見ていない。春子も同じだった。ただ、二十五になる雅也だけは違い、全文目を通したと言っている。
「雅也、何が書いてある」
小さくため息をついた雅也は、俺だけか、目を通したのはと呆れていた。
「じいちゃん、これ、可南子叔母さんね、みんなが入る墓地だって思ったけどね、一族に相応しくないと思う行いをした人は入るべからず・・その判断は俺に任せるって。そう書いてあるんだ」
「なんだと?」
「・・つまりね、叔母さんは。叔母さんの一族にしたいみたいよ。死んでからは。だからお父さんや、じいちゃん、ばあちゃんも安心して墓には入れない・・そんなようなことを書いてあるんだ。まぁ、俺に言わせてもらうと、単にみんな仲良く暮らしなさいってそんなことだとは思う。こんな無茶な話、遺言のワケないでしょ。きっと、エンディング・ノートだなんていっているけど、本当の遺言は別にあると思う」
淡々と言う雅也だ。
「あ、気が付いた。これね、弁護士通してないんじゃない? 手元にあるくらいだから。遺産とかなら、公的な書類がきちんと信託銀行とかに保管されているはずだよ・・じいちゃん、じいちゃん? 聞いてないな」
(やっぱり恨みながら死んでいったんだな。生まれたときも亡くなるときも見ていたおまえは、やっぱり難題を残して逝ったか。闘いの準備をしているのか? 同じ墓に入れる、唯一の願いすらおまえはわしを試しているのか?)
正志は頭の中が混乱していた。応えがでずにせっせと葬儀場に足を運ぶ。ここは一体何が分かるというのか。最近、正志はおかしなことを言うようになった。浩二が目の前にいて笑っている、というのだ。春子が気付いた。
「何バカなことを言ってるの」
まともに感じなかった。
「二人が笑って見える。目の前にいる」
春子は、お父さん、しっかりしなさいというも心配になる。参っているのだ。眠った形跡もない。
春子も初めのうちいは、お父さんがあんまりにも二人をいじめたから、化けて出てきたのよ。出てきたら嬉しいじゃないの、などと軽口を言っていたのがまずかったのだろうか、この頃の正志は精神状態がおかしいように思えてくるので、
「お線香、あげましょ。一緒に」
正志の肩に手をおくと、おお、わしにはそれぐらいしか出来ないからせめて、娘を思い出そうとする。回らない頭で、娘を思う。変わった子だった。何を考えているのか幼い頃から分からなかった。それでつい体罰を・・。それを辛いと感じなかったのかまだ追及してくる。疎ましいぐらいに。なのに、最期はノートに(お手数かけます。宜しくお願いします)などと他人行儀で去っていった。あんまりにも唐突に。
あぁ、わしは何度でもやり直していく人生を送れば良かったと、後悔してももうあともない。アルバムを開いてみると、その写真は膨大な枚数で、全て笑顔なのは、笑えといったのだろうか。せめてファインダー越しに泣きっ面のままなら、その写真をみて正直に反省できたものの、笑みは今になって心が痛む。可南子と一緒の墓に入りたい。
(エンディング・ノートか。わしも書くか)
ウィング・タウンという大きな書店がある。正志は本を探すが広すぎて全く見つからない、参考書。店員に尋ねると、
「こちらの検索機でお願いします」
そっけなく機械に案内された。老人に優しくとは言わないが、特別に親切にされなかったのを悔しく思いながら、タッチパネルを人差し指でおぼつかない様子で押してみる。後ろには、いつの間にか検索待ちの人の列ができ、途中でやめた。店内をうろうろしても本の量は膨大で、確かに機械の力を借りないと探せそうもない。今度は年配の店員を呼ぶことにした。
「ああ、F列の三段目ですね」
「ちょっと待ってくださいよ。F列ってどこですかね?」
「お客様の目の前の棚ですよ、その三段目ですよ」
ちょうど探していた本が目の前にあったのを恐縮しながら、すみませんと小さく挨拶する。その後、ここの店はそっけないな。もう来るものか、と思いながらも、本だけはと思いレジに行こうとする。すると、行列ができていて途端に並ぶのが嫌になった。結局そんなわけで肝心な本は買わずに棚に返す。
そんなとき、ふと嫌な言葉を思い出した。
「可南子ちゃん、死んでまでしっかりしてるわ」
「死ぬまで痛みを堪えているなんて、正志さんの短気な性格とは大違いね、我慢したんだね」
胸をえぐるような親族からの罵声だ。そうではない。可南子はただ、常に先を見ていたのだ。死ぬ=終わりではないこと。勉強に例えたら予習復習だ。そうだとも、今可南子はわしの気持ちが分かるだろうか? あの世で笑っているのか? ・・分からない。もう死人になってしまったのだから。
結局何しに本屋に行ってきたのか、このところの外出は葬儀屋や霊園、本屋と何も自分に告げずに出かけることが多くなって、帰ったら帰ったでぶつぶつと独り言を言うようになっているのを、春子は心配している。今日は分かったぞ、分かったぞと言っている。嬉しそうに言わない。無表情で同じ言葉を繰り返している。まさか、急に痴呆が入ったのかとさえ感じて、それは落ち着かない気持ちだ。
西日があたる夕暮れの可南子の部屋に入ってみる。確かにこの部屋で浩二と過ごしていた。その部屋は浩二が死に、可南子が家を出たときのまま変わっていない。いや、もともと部屋を覗くことをしなかったから、春子が掃除をするだけなのだろう。しばらく佇んでいると、何やら声がする。気のせいか?
「じいちゃんは入ってきちゃダメ。こないで」
浩二の声だ。怒っていて甲高い声で叫ぶ。
「可南子に用事があるんだ。ちょっといいかな?」
入り口に立つとすぐに遮り、
「ダメ。僕から可南子をとらないで。あっち行って」
あぁ、なんということだ。この部屋は、まだ二人がいるのだ。
可南子と浩二の納骨が過ぎるまで、正志の幻聴は続く。どんどん二人の声が耳の中を揺さぶるので耐え切れない。堪えきれず、「うるさい」と怒鳴り耳を両手で塞ぐ。あんなに聞きたい声であったとしても責める浩二の甲高いこの声は響いて、頭の中でこだまする。言霊を使って話をしている。本当におかしくなりそうだ。辛さに気が狂いそうで、慌てて階段を下りた。
夕食の時間になり、雅也は残業で遅いのが常だったので、また二人で過ごす。テレビも見る気力はなかった。幻聴は治まった。
「おとうさん、健康診断の結果でたわよ。ほら、詳しく書いてあるわ」
「何か、一つでも問題はないか?」
「いいえ、全く。健康体ですって。実年齢より十歳若いそうよ」
「長生きはしたくないな」ふと漏らす。
「年金生活だけじゃ、生活が苦しいわね。もう、相談する子もいないわけだし」
春子はつい、あなたじゃ相談にならない、と言ってしまった。それを遮って、
「いいか。わしら親が揉め事をしていると、雅也の一存で無縁仏になるぞ。可南子はそう伝えている」
春子は声をひそめながら、
「二階に、あの子たちの声が聞こえてきそうで怖いの。見張られている気もするわ。私、こういっちゃなんだけど、不気味で。さっさと納骨しちゃいましょうよ」
二人は同時に天井を見つめた。翌日、四十九日を待てず、早々に遺骨をおさめてきた。そうするしかなかった。二階は静かになった。春子は一安心したが、正志は違った。そうした自分を悔いた。また自分を優先してしまった。取り返しのつかないことをしてしまった。
手先が器用だったので、ズボンのベルトを細工して工具を取り出すと、自分の部屋に輪っかを括り付け、いつでも首を絞めつけられるようにした。こんなことで戒めとしても、何の得にもならない。分かってはいる。もし、このまま死ねば、後の人が自分を片付けるのに大変だろう。これ以上の勝手はいけないと、おろおろしながら輪を外した。何をやっているのだろうか。
気が狂えばいいと思う。正気でいたくない。正志は、正気、というけれど段々と行動はおかしくなる。
大飢餓のときのご先祖様に仕えた村民の話、親父に聞いたことを思い出そう。そう想像してみよう・・そこまで考えて、納得し、一切口にものを入れないことにするのだ。口も開かない。暴言も吐かない。これで死ねるはずだ、と。
可南子の兄、純一が片道二時間かけて実家にやってきた。婿にいった純一であったが、今は妻と別居している。確か妹の四九日だと思ったからだ。
「何? 親父が水も飲まないって? 大丈夫か。真夏だぞ。おふくろ、親父どこにいるって?」
「それがね・・可南子の部屋なの。ちょっと見てやってよ。丸二日飲まず食わずなの」
「まじか」
純一が二階にあがると、正志は口を固く結んで目を閉じている。可南子のベッドの下で横たわっていた。
「おやじ、おやじ」(おやじは死ぬつもりだ)
純一は正志の極端な性格を知っていた。本気なのだろう。
「もう、これ以上の葬式は嫌よ。ね、純一もう何とかして。私もね、参ってきたわ」
「・・おやじ入院させよう」
春子は、何を大袈裟な、と笑った。
「熱中症でしょ? 水さえ飲んでいれば大丈夫でしょ。大袈裟よ」
不思議そうに純一を見る。その表情に悪意は感じられなかった。
純一は言葉を選びながら、
「精神科だ。アルコール依存でお世話になった病院が一番いいだろう・・おやじは死にたがっている。それだけは避けないと・・辛いんだろうよ」
「分かったわ。頼りになるのは、もう純一ぐらいね。早くうちに戻ってらっしゃいな。あなたは仮にも長男なんだから」
それが純一にとって一番煩わしく思うこと。自分も嫡男だからだ。その重みは苦しく、また周りから期待された。純一にとって、正志の、
「天才も、二十歳過ぎればただの子」
この言葉をずっと忘れずにきた。期待に応えようとして、挫折した時の言葉だ。何十年も忘れなかった。平気でよく言えたものだと、恨みに長年思っていた。
純一は、正志を起こし背中に背負わせそろそろと階段を下り、正志のボロ車の後部座席に乗せた。病院まで車を走らせ、待合の看護師に声をかけ、ベッドに横たわらせてそのままドクターあとの診察になった。正志はその間宙を見て、口はへの字。代わりに説明をし、そのまま入院となった。 以前と違い、完全に遮断された個室での入院で、静かな管理された一室だった。
「おやじ、またくるから」
そうしてまた家に戻り、春子と一緒に入院の準備をする。コップ、着替え、歯ブラシなどをボストンバッグに詰め、また純一の運転で病院へと向かう。荷物だけあずけてそのまままた帰ってきた。しばらくは会えそうもないのだろうと、春子は感じたのだろう。目を伏せている。ご飯を作る気もしないというので、純一がコンビニで冷やし中華を買ってきた。
虚空。そんな言葉が似あう一日で、お喋りな春子さえ黙りがちで、洗面所から見える窓から夜空を見上げて何を思うのか。後ろで純一は肩に手を置こうかと、ちらりと思ったけれどそれはおやじの役目だと思い直し、涙を流す春子を見つめていた。
一週間後。純一はひとり見舞いに行った。個室で、点滴を受けていた。
「父はどんな状態でしょうか?」
「順調ですよ。嫌がっていた水も飲んでます。ただ、まだ食事は嫌がっているので生理的食塩水で栄養を注入していますから・・安定するまでは少しかかりそうです」
「そうですか・・入院は長引きそうですか?」
「大丈夫ですよ。夜も眠れていますし」
純一はほっとして、早速春子に伝えようと家に着くと、先日の冷やし中華が気に入ったのか錦糸卵を作っている最中だった。
「入院は長引くって?」
「いや、大丈夫そうだ。それに、入院費もそううちにはないだろう」
春子は少しむっとして口をつぐんだ。
「そうだ。看護師が言ってたぞ。だれか家族で辛いことをいう人はいなかったかって。あれ、おふくろのことじゃないか?」
「馬鹿言わないの。おかあさんだってね、毎日必死なのよ! 分かってくれそうなものなのに」
「・・けれど」
無言で出された冷やし中華は、麺が伸びきっていた。春子は近所の人の目が怖い。今まで精いっぱい虚勢を張っている正志を支えてきた。この頃、外に出るのが本当、億劫なのだ。
一族の直系にあたる純一。は、確かに真柴家にしては気の優しい息子だ。そのまた長男の雅也も優しい。突出していたのは、可南子と浩二だった。二人は確かに気持ちを合わせていた。二人とも二番目に生まれてきた。つまり、一族の流れでは差別されなければいけない対象で、言ってみれば同士。激しい感情を抱いていた。
純一は帰る決意でいた。母の考えることがわかるようなってきた。きっとこうだ。
(純一は女に縁がありませんでして、こうして戻ってくるのもなんですけど)やっかいな正志の対処法。
(憔悴しきってしまって、今静養していまして。あ、お見舞いなんていいんです。可南子を可愛がっていたので、ショックといいますか、男親って弱いものですね、私こそ、今しっかりしないと)
と想像できる。これだけの言葉を用意しているのだろう。すると世間様は、
(あまり無理をしないでください、今は気持ちが張ってますけれど、みなさん心配してますからね。純一くんも戻ってこれたわけですし、安心でしょう。いずれ、誰しもが仏さんになるの。早いか遅いかくらいですよ)
としっかり返しの言葉も想像していそうだ。
春子は体裁を保つだけで、精一杯なのだ、と純一は思っている。だから、戻る決意をしたのだ。
病室の中の正志は、点滴が切れそうな様子で、ゆっくりぽとりぽとり落ちてゆく一定したリズムを、ぼんやり見ていた。ここは、一体どこだろうかさっぱり分からない。
点滴を打っている、ということは病院にいる・・その事は分かった。けれど、それ以上は分からない。直に寝ているからだ。シーツもないし、布団がむき出しになっている。分からない。(それは病室での自殺行動を避ける配慮の部屋であることを知らない)
正志は阿呆みたいに、ひたすら点滴を眺めており、考えることが出来なかった。自分のことも分からなければ、家族のことも分からない。やたらと眠い。毎日どれほど眠っていればいいのだろうか。
可南子の四十九日の法要は、遺言通り親近者だけで行った。純一の考えで、親族もいないほうがいいだろうと呼ばなかった。この日まで妹の残した遺書を見たことがなかったので、くまなく目を通した。まず、墓を用意していたことに驚いた。一体、いくらもっていたんだ? 可南子。
春子は長いこと手を合わせていた。そして正志の代わりに家族で冥福を祈った。ただ、純一は、可南子の残したお金について気になっている。
「俺、今年中に嫁と決着つけて家に戻ろうからまたみんなで、お墓行こう」
春子が、目に涙が溢れそうなのを堪えて、
「嬉しいなぁ、嬉しいよ」
と、いそいそと台所へ向かった。そして、冷えたビールを純一に渡す。つまみになるものを急いで作り始めたが、出来合いのオードブルがあったので、結局春子もコップ一杯のビールを飲んだ。雅也は、お酒が飲めない。
「いつごろ決着がつくの」
少し間をあけて、
「ただな、婿入りしたから離婚は慰謝料が多大にとられそうなんだよ」
「手切れ金?」
「おふくろ、いいやらしい言い方しないでくれよ。まぁ、そうなんだけどさ。ないんだ、金」
「うちも・・貯金なんか雀の涙ほどで、どうにかしてあげたいんだけど、ないなぁ」
「・・」
しばらく間があき、春子が口を開いた。
「可南子の遺産、調べてみない? お母さん、どうしても気になるの。次の法要は随分と先。知っておく必要もあると思うわ」
「こんな日に、おふくろ。この話はやめよう」
「そうね・・またね」
春子はちっとも悪びれた様子もなく後片付けを始めた。その間、純一はエンディング・ノートを食い入るように見ている。けれども、肝心な遺産の記述がない。あるはずだ。どこだ? どこにある?
頭の中はそれ一色になっている自分を恥じるものの、亡き妹に縋るしかない。
三年前、内緒で可南子が保証人になってローンを組んだものの、払えず、闇金融会社からの取り立ての時、自然とぱたりと取り立て電話が消えた。あの時は、車で支払えなかった300万プラス闇金の過払い金。一体あいつはどうしたのだろう。確か、3社借りたはずだ。親には全くばれていない。過払い金、少しはもらえるだろうか?
そんな考えで、早速ある事務所を訪ねてきている。担当弁護士は、野田といった。
「過払い金、って私の場合、ありますか?」
そういって、自分が借りた会社の取り立ての話をした。けれど、野田は意外なことを言った。
「過払い金。出ませんよ。お調べしましたけれどね、その保証人の妹さん、可南子さんでしたか。きちんとしてますね、もう妹さんが受け取ってます。えぇと・・半年前になりますね。あ、少しお待ちください。お名前に憶えが」
野田がごそごそと書類を持ってきた。それらをきちんと机に並べ、
「真柴純一さん、宛の遺言書を預かっています。身元証明するものありますか? 免許証とか」
「え、あ、はい」財布に入った免許証を取り出し差し出した。
またじっと待たされて、野田は奥から戻ってきた。
「免許証だけでは薄いので、後日ご自身の戸籍謄本を取ってきていただけますか? 妹さんとのご関係が分かるものです。家族宛ではなく、あなた、純一さん宛になっているものですからね。宜しくお願い致します」
やっぱりか。俺宛の遺言。何だろう? あいつはいたずらが好きだったから、(あの世からの手紙だよー)なんてものもあるかも。本当、馬鹿兄ちゃんだよな・・おんぶにだっこ。手紙でも、嬉しいぞ。でも、やっぱり本音を言えば・・やっぱり馬鹿兄だ。
事務所から外にでた純一は、セブンスターを吸いながら、気の強い嫁からいくら払えば別れてくれそうか、頭で計算していた。自分では当分払えそうもないし、その為だけに働く人生は虚しい。思いはころころ変わる。けれど、どうも可南子と浩二に見張られている感じがするのは気のせいか? もう二人は成仏しただろうに。これは、単なる負い目を感じているからだけだろうか。分からない。いらぬ行動をとると、雅也の一存で無縁仏なのだ。やはり独りでは寂しいではないか。こんなときは生きている身内に会うに限る。おやじに会いにいこうか。
(おやじの通帳は今どうなっている?)
またボロ車で病院へ向かっていて、車からカラカラとおかしな音が聞こえてくるのを運転しながら感じた。どうやら、部品がとれてそうだ。病院に着き、ボンネットを開けてみる。車検に通しているのか、と疑るような怪しい内部。危ないのでそのままUターンして、ボルトを片手にいじってみた。純一は、車をいじるのが好きだ。結局、手に負えないようなのでそのままにして、しっかりディーラーで直したほうが良いと判断した。けれど、ディーラーは確かな分、お金がかかる。当分乗らないほうがいい。スピードを出せばイチコロだ。
やっぱり家にはお金がないのだ。つくづく思った。けど、なにか残っているはずだ。市役所に歩いて戸籍謄本をとり、その足で弁護士事務所を訪れた。
「あなたも、なんだか必死ですね」
野田に言われ、腹立たしい気持ちになるも仕方がない。タバコに火を点けるとふっと吹きかけてやりたい衝動かられる。
「確認がとれました。預かりました、遺言状です。言っておきます。これは法的な契約ですから、確実に渡したという証書にサインを下さい。確かにお渡ししましたよ」
「あ、それと。妹さんのご冥福お祈りいたします。余談ですが、妹さんは本当に惜しい方でした。何度も何度も足を運んでいただいて、私の仕事ぶりを指導するほどでしたよ」
「妹は手紙のようなものを書いたのでは?」
あはは、と野田は笑い、
「公的手続きですよ。それに、弁護士だとはいえ、内容は一切存じてはいけないのですから。例え、一枚の手紙であっても、存じ上げません。これはですね、あなたに全てを託すそうです。もう、借金はいけませんよ、そうそう美味しい話はありませんから・・私もですね、この頃過払い金目当ての人ばかりでして。久々に遺言書・・やらせていただきまして。ええ、妹さんは、最後にこれから信託へ行くって何度も言ってました。たぶん、あ、私も余計なことをお伝えしたことお詫び申し上げます。この遺言書。妹さんの全てだと思って大事に保管してください」
そう言い、野田は純一を見送るとシャッターをしめた。
遺言。可南子は俺宛になにがあるんだろうか。信託? なんだそれ。信用金庫のようなものだろう。ちょっと雅也に聞いてみるか、あいつは俺と違って物知りだ。そうそう、可南子のエンディング・ノート、遺言ではなく遺書だと指摘したのもあいつだったし。
飯時でいいか。そう考え直した。
深夜。親子の密談。春子が寝静まったころ、明日を祝日休みに迎えた日曜日。雅也と晩酌をする。
「おい、信託って何だ?」
ぷっ、と雅也は笑う。
「一体、何の勉強してきたの。信託すら知らないの?」
「おまえなぁ・・俺は野球の勉強をしてきたんだ。打率、アウトの数だろ、防御率だろ? 色んな勉強をだなぁ」
「笑える」
「野球馬鹿と笑え」
あはは、とまずは乾杯をした。改まって可南子からの遺言状を開く。純一は雅也にはすべてを打ち明けた。自分では分からないし、息子には知っていてもらいたかったのもある。
「生命保険に加入していてね、死亡時の受取人が全てお父さんになってるね」
「あいつ、そんなもんまで入っていたのか!」
「まぁまぁ、聞いて。それで、可南子叔母さんね、エンディング・ノートが直筆遺言じゃなかったみたい。ちゃんと、別の直筆の遺言書があるね、これがそう。で、えぇと、信託銀行に管理されているらしいよ。毎月、100万の額振り込みがされるんだって。相当お金貯めてたんだね・・贈与税対策もしている。賢い遺産だ」
「雅也、まじか」
「まじ。凄まじいね、この、額」
直筆のサインに弁護士野田の証明をみつめ、二人は見入る。
「総額に計算できるか?」
待って、と言いながら雅也はバックから電卓を取り出す。
「約、1億6千万」
「は? 160万の間違いじゃないのか?」
ため息をついた雅也は、説明し直す。
「毎月、ある口座に100万入るの。で、総額、つまり・・1億六千万を毎月割るの。100万ずつ。だから、160000000÷100ってこと。以上」
雅也は、ノンアルコールチューハイを飲む。叔母さんすげぇや、と笑っている。純一は、心臓がバクバク音を立てていて雅也の説明の半分がようやく分かったほどだ。
(俺に1億6千万)
「雅也。まだ、他にあるか?」
「もうない。お金に関しては。ただね、墓地の管理費は永劫無用だって。だから、俺たち心配することはないって。そう書いてある。ただ・・」
「ただ? 何だ?」
「俺はね、可南子叔母さんに生きていてもらってて、みんなで旅行でも行ったりしてたほうが楽しい人生だったんじゃなかったかな、ってそう思うよ。ガンだって、あきらめずに治療頑張ってほしかった。お金だけ残して早死なんて。俺ね、浩二もそうだったけど、叔母さんが大好きでさ。それでさ、浩二だけでなくて俺も子供ができたら、叔母さんに抱かせてあげたかった、って思うよ
」
「そうだな。生きているうちは借金もいい」
しんみりと純一はビールを飲んだ。
正志は、その頃大部屋に移っていた。ここ2,3日で本当に落ち着いている。幻聴もないし、死にたいなどと思うこともなくなった。テレビをゆっくり見る余裕すらみせた。そんなとき、黙々とテーブルに椅子を乗せ、床にモップをかけている清掃員の姿に目がとまった。
「手伝いましょう」
「いいえ、これも仕事のうちですよ。手伝われては、また叱られちゃいます」
そういう声に、覚えがあった。
「あ、あんたはあの葬儀場の・・ここで仕事されてましたか」
女は照れくさそうに、
「結局ね、店長に文句を言いました。仏さまが可哀想だって。したらね、掃除するぐらいしか能がないやつに言われたくはないからって。辞めてやろう、って思ってたんですがね、クビにされましたよ。でも、縁あってまた掃除してます。やっぱり掃除しか能がないみたいですねぇ」
「生きていれば、会えるって言われた通りですよ」
もっと話したがっていた正志に、次の部屋を掃除に行くんで失礼しますと去っていった。その去り際に、
「影が薄くなってきているように見えてきました。気をつけてくださいよ」
そんなことを言うので、意味が分からず、
「大丈夫ですとも。娘の分も、孫の分も長生きしていきますとも」
「気を付けてくださいよ」
清掃員の女は去っていった。
久々に、春子の声を聞こうと、今はもう珍しいテレフォンカードで、春子の携帯に電話する。元気な春子の声が聞こえる。
「わしだ。一般病棟の大部屋に移れた。順調らしいと医者はいっとる。変わりはないか? 今回は2週間程度で退院ができるという話があってな」
「あら、良かったじゃないの」
「わしの入院費も馬鹿にならんと交渉してきた」
電話越しに春子が笑っている。
「もう、帰ってきて。病院なんて意味ない」
「そうだな。明日にでも、帰るようにするよ。たぶん大丈夫だ。退院したら、おかあさん。旅行にでもいかないか? あ、テレフォンカードは度数が早く切れるな。忙しい。じゃ」
電話は唐突に切れた。けれど、春子は嬉しさを隠し切れずに、もう旅行の荷造りをしなきゃと浮き浮きしている。純一を呼び、車にガソリンを満タンに入れてくるよう頼んだ。昨日の遺産の件で気が大きくなっているので、春子が手渡したガソリン代をそれぐらい出すよと断った。秋には毎月可南子からの遺産が入ってくる。もうお金の心配はいらないと思っていた。ガソリンは、スタンドではなく、セルフで入れた。この時、車から何も聞こえてこなかったので、ディーラーへ点検に出すことをすっかり忘れていた。
翌日。正志は無事退院してきた。生き生きとしている。春子とどこへ旅行へ行こうか、二人で雑誌やら広告やらをみている。そんな姿を純一が見るのは初めて、と言っていいくらいだろう。
「おとうさん、私、京都へ行きたいわ」
「おぉ、おまえの好きなところだな。一泊するか。予約が間に合うかな」
「じいちゃん、俺がネットで検索して予約いれてあげるよ。ちょっと調べる・・よし、いいところ見つけたよ。ここはどう?」
パソコンの画面を見て、春子は喜んだ。混浴になっている。
「雅也、ありがとう。明日にでも行きたいわ。予約して」
そして、翌日の朝二人は喜んで車に乗り、東名高速を走った。なんだか、カラカラと音がしている。
「なんだ? この音は。ちょっとかあさん、次のパーキングエリアに入るから」
「うん、聞いたこともない音ね」
車が揺れだす。緩い蛇行から激しい蛇行へと変わり、正志が路肩へ寄せハザードランプを点けなければと思った瞬間車内に黒い煙が充満し、視界は塞がれスピードを落とす間もなくクラッシュし、激しく炎上し二人は京都まで行けなかった。
葬儀などの全てが終わり、残されたのは純一と雅也の一族の嫡男のみとなった。ふと、雅也が二階の部屋に行ってみると、ある声が聞こえてくるではないか。その声は、おまえだけに聞かせてやろうと言っている。なんのことだろう? 戸惑いながらも耳を澄ます。
「天国か地獄へ行けば、一族がわんさかいるのよ。あの、ばあちゃんが逃げ出したじいちゃんの本家。霊が一斉に待っているの。私、考えが浅はかだった。お墓ばかり違えばそれでいいとさえ思っていたわ・・まさかあの世でも居場所に悩むなんてね。浩二と二人で雅也と話せるのを待っていたのよ」可南子叔母さんの声だ。さらに耳を澄ます。
「私はね、天国へ行けない。この冥界はね意外と気楽なんだけど。天国行きって、何が基準なんて分からないものね。叔母さんは、決して天国へはいかないわ。天国にも悪い人はいるの」
「僕もいかない。可南子といる」
浩二はすぐに答える。離れているのが怖いようだ。
「この世界はね、ちょうど中間にあってね、少しほの暗いの。ただ、仕事をしなさいって言われたから、今日も門番を仕事をしなければいけないのよ。皮肉よね、天国行きの門番なの」
どうして天国にいけないのだろうか、雅也は毎日仏壇で手を合わせているのに。不思議に思っている。
可南子は、マンションを横取りして不正に売った罪があったのだ。その横取された後の持ち主は、会社経営に失敗して全資産を巻き上げられていたという。唯一の資産のマンションを可南子は知らぬとはいえ、売って自分のものにしたのだ。その罪は軽いようで重かった。
雅也はじっと耳を澄ます。すると、しばらくして会話が出来た。
「雅也もお金がらみに、暴力や薬とかおかしなことしちゃ駄目よ」
「そうだよ、兄ちゃんダメだよ」
幼い頃のままの浩二の声だ。
「なぁ、浩二。天国へ行きたくはないのか?」
二人の会話を遮って可南子が、
「問題は、君たちの両親はどの世界に来るかでしょう? 叔母さん自身も天国行きのデータにはないのよ。まだ。これから、死んでいくとしたら3年分はデータの記述は見当たらないの」
「えっ? 3年が基準?」
「そうよ。面白くできているでしょう」
「すると、ばあちゃんとじいちゃんは3年以内に天国へ行ってしまうのか」
「・・そういうことかしらね」
天国で一族がうようよいるところで上手にやってゆけるだろうか、そう雅也は懸念している。
「みんな、同じ世界でいてもらうこと、ってできないの? その、浩二と叔母さんが一緒にいるように」
「残念ながら。リストはできているの。入りきらない人は、いくらでも門番で追い払えるけど、じいちゃんたちは・・」
「天国へいくんだな」
「さあて。これから午後の仕事に行ってくるわ」
「可南子はね、働いているの。前にいた世界では仕事をしたことがなかったから、働きたいんだって」
浩二が説明する。
「働くことはいいことだけど・・成仏して、僕たちがくるまでは門番頑張って。それしか言えないよ」
「ありがとう、雅也。おまえも優しいね」
すると、負けじと浩二も話したいらしく勢いずく。
「僕も色んな人のために、お別れの歌を歌っているんだ。僕はボランティア活動だよ」
雅也は途端に笑顔になった。そろそろ会話が終わりそうだ。浩二の声が小さく聞こえてくる。何とか話したい。少しでも長く・・
「浩二、あのな、あの・・」
「兄ちゃん、僕もお歌の時間だから。さよならするね」
浩二の伸ばした指先が、届きそうで、精一杯伸ばそうと手を伸ばしたところで消えっていった。異世界のような幻想が、閉じていた瞼からまた始まった。
そこでは、大きな声でいつか法事で流れた、浩二が卒園式で歌えなかったお別れの歌を歌っている。終わると三途の川のほとりで、小舟は進んでいく。みな順番があり、次の人が渡ろうとするまでじっと身動きもせず待っていて、またお別れの歌を歌っている。その弟の姿に雅也は耐え切れず、浩二に会いたいと呟き閉じた瞼から、涙がこぼれてきてしかたなかった。ただの夢のような現実でも、非現実な空想でもいい。もう、会えないのか。次に会えることはできないのか。
そうは思っていても、この叔母さんたちの部屋にいると生々しくて気が狂いそうになる。ここへは入ってはいけないのだ。そう雅也は涙ぐみながらも、二人の世界には誰も入れないのだと思った。
階段を下り、仏壇にお供えとお線香をあげた。あの部屋には来てはいけない気がする。俺で一族を終わりにして、この家も売却しなければいけない。可南子おばさんのお金は、いらない。使うと、結局苦労するのだ。お父さんはどうするのだろうか・・一族の怒りをかうだろうから、俺はお父さんを守らないと。
毎朝、きちんと仏壇で手を合わせ、ご飯を炊き供え、朝食を作る。お父さんはみんなの部屋の掃除をする。僕は働きに行く。帰り道に、洗濯の柔軟剤の安売りとトイレットペーパーが特売だったので買っておいてくれと、お父さんからlineがあったからドラッグストアに買い物に行かないと。車はまだ、買わないそうだ。
了
長くお付き合い下さり、ありがとうございます!
この作品は、出版予定でしたが、また完成度を高めていつか作品集になれば、と思っております。
短編とはいえ、一時間余り。長いですよね…
本当、感謝致します。