山羊人のぼっちゃまがぽんこつオオカミメイドとふまじめネコ従僕と一緒にお参りに行く話。
獣人。山羊人のぼっちゃまがぽんこつオオカミメイドとふまじめネコ従僕と一緒にお参りに行く話。
来年書く予定であるプロット段階の長編のキャラ設定をそのまま持ってきた現代パロです(もう何言ってるかわかんねえ感)
「父様、無理です」
山羊人の少年、テオドールはそう言わざるを得なかった。もちろんテオドールだってこんなことを言いたくて言っているわけではない。敬愛する父親の期待に応えられないと考えると、小さな胸がつきんと痛むが、それはそれとして、無理なものは無理だった。テオドール。齢未だ十と少しだが、世の中にはできること、できないことがあるというのは承知している。
「テオドール……」
困ったように目を瞬かせる父親に向かって、テオドールはもう一度、無理です、と言った。父子はしばらく黙って見つめ合う。古びたストーブが、ぼん、と大きな音を立てる。
「一人では行かせられないよ。それにこれから私とお母さんは話し合いをしなければならないから、ついていってあげることもできない」
「わ、わかっています父様。わかっていますけど……どうしてあの二人なんですか……?」
ほとんど泣き出しそうなテオドールの肩に手を置き、彼の偉大なる父は優しく言い聞かせた。
「……テオドール。何事も経験だよ」
「せめてかたほ……いや、ブノワだけじゃ駄目なんですか? どうして二人なんですか?」
「テオドール、マルガレットをひとりで行かせたら帰って来れなくなるかもしれないだろう。一緒に行ってあげようとは思わないかい?」
「あの父様、ぼくは二人のことが嫌いなわけじゃないんです、むしろ好きです、でも父様、あの、いくらなんでも……」
言い縋る自分がみっともないのはわかっていたが、それでもテオドールはそうせずにはいられない。どうすれば説得できるかを一生懸命考えている内に、彼の父親は懐から懐中時計を取り出してしまう。ぱちん、と蓋が閉じられる音が最終通告だった。
「いつまでも駄々をこねていないで行って来なさい。なに、心配するほどのことではないよ。なにかあったら近くの人に助けを求めなさい。お小遣いはブノワに預けてあるから、大事に使うんだよ」
父親の信頼に満ちた笑顔に、なにも言えなくなってしまったテオドールは、めぇ、と泣くことしかできなかった。
テオドール。山羊人の彼はこの都市を統べるコルヌ=ドゥンルールモン家の嫡子である。山羊人らしく思慮深い両親の性情を受け継ぎ、やや引っ込み思案なところがありながらも優しい少年に育っている。
そんな彼は今、新年早々打ちひしがれていた。
名家であるコルヌ=ドゥンルールモン家は当然ながら社交界において重要な位置を占めており、各地の寺社で開かれる地域の寄り合いにも顔を出す必要がある。嫡子であるテオドールもそこに同行していたのだが、さすがに彼のような仔供が大人の会合を聞いても楽しいはずがない。それを気の毒に思った彼の父母は、お小遣いをあげるからお参りした後に屋台で遊んで帰っておいで、という親心を発揮したのだ。先程の顛末はそういうこととなる。無論テオドールとて自由に遊びに行けるのは嬉しいし、お供付きとはいえひとりでお参りさせられるくらいには信頼されているのだと思うと誇らしくもある。
あるのだが。
お供が。
問題で。
「ぼっちゃまー!」
暖かな会議所を出て冷え切った渡り廊下をとぼとぼと歩くテオドールの白い耳を、底抜けに明るい声が打った。足跡一つない雪の庭を灰色の塊が一目散に駆けてくる。はふう、と白い吐息がテオドールを襲った。
「マルガ、なにやってたの?」
テオドールが黒い鼻先についた雪を払ってやると、マルガレットはくすぐったそうに身を震わせた。
「雪の下になにか食べ物埋まってないかなーと思って探してたの」
「あるわけないよ」
「そうかなー」
「そうだよ」
マルガレットは未練がましく庭を睨んでいる。テオドールがなんとなくポケットに入れていた蜜柑を手渡すと、マルガレットはぴょんぴょん跳ねてぺろんと食べた。皮くらい剥けよ、とテオドールが注意する間もない早業である。
マルガレット――彼女は狼人だ。道で行き倒れているところを捕らえられ、もろもろの事情によりコルヌ=ドゥンルールモン家でメイドとして働いている。ことになっている。
なにしろこのマルガレットときたら、なんでもかんでもいくらでも食べたがる食いしん坊で、頭の中身もふわふわだ。うっかり食べてしまったのか常識もない。被差別種族の狼人である彼女をテオドールの父が保護しようと考えたからこそメイドということになっているが、現状、オオカミメイドの主な仕事はテオドールに食べ物をねだることである。
「マルガ、父様からお参りの話は聞いてるの?」
テオドールが一応聞いてみると、マルガレットはこくんと頷いた。
「神さまにお願いして、食べるんだよね。昨日教えてもらったよ。ぼっちゃまも一緒なんだよね?」
「え、ああ、うん……」
オオカミメイドの目は期待にきらきらと輝いている。急に気分が悪くなって、などと言ってどうにかこの外出を取りやめようと思っていたテオドールだが、そういうわけにもいかなくなってしまった。幼い良心の呵責も知らず、マルガレットは雪景色の中を兎のように跳ね回っている。
「ねえぼっちゃま、神さまってなあに? 食べていいの?」
「いいわけないだろ!」
テオドールの父のことだから懇切丁寧にお参りのなんたるかを説明したに違いないが、マルガレットの頭の中には、なにかを食べられる、ということしか残らなかったらしい。神様どうかこのあわれなオオカミメイドをお許しください。テオドールはそう呟いて小さなくしゃみをする。すぐに長い鼻先がぬうっと突き出された。灰の瞳に見つめられて、テオドールは思わず一歩下がる。
「ぼっちゃま、外は寒いからいっぱい着たほうがいいよ。わたしの着てるやついる?」
「それじゃマルガが寒いだろ」
「わたしはあんまり寒くないよ。これくらい慣れてるもの」
「ぼくの分は別にあるからいいってば。そろそろ行くから、玄関で待ってろよ」
「はーい」
元気よく返事をして、マルガレットはたったかたったかと走っていった。白に紛れてゆく灰色尻尾を見送って、テオドールも玄関に向かう。
「にゃああああ寒いぃ。死ぬほど寒い。テオドールさま行くのちょっと待ってくれませんか? 春になるまで」
玄関近くの控室。もう一人のお供はストーブに張り付いてそんなことを言いだした。普段はゆらゆらと揺れているその尻尾もだらしなく床に垂れている。
「そんなに待てるわけないだろ!」
「えーいいじゃないですかあ。こうやって春が来るまでだらだらしてましょうよお。外めっちゃ寒いですし、わざわざ外に出なくたって」
「ブノワ。ついてくるよう父様に言われてるんだろ?」
「はあ、まあ、そうなんですけど……ああ、働くって辛い」
そっちにコートあるんで着といてくださいねえ、と横着にも尻尾で示す従僕をテオドールは思い切り睨みつけてやった。
ブノワ。猫人の例に漏れず寒がりで気儘な彼はコルヌ=ドゥンルールモン家に雇われた従僕だ。紺色の毛をぴたりと撫で付け、常に自分のペースを崩さない彼は、仕事そのものはきっちりとこなすのだが、どうにもいい加減というか、なんというか。さすがに主人であるテオドールの父の前では真面目なようだが、テオドール相手にはだいたいこんな調子である。今更畏まられても気持ち悪いのでテオドールも怒ったりしない。
なんだかんだと卒がないブノワらしく、テオドールの防寒着はしっかり揃っていた。帽子を被り、手袋をはめ、母様に買ってもらったコートを着ているといつの間にか近寄ってきていたブノワがボタンを留めてくれる。
「そういえばブノワ、父様がくださったお小遣いはちゃんと持ってるの?」
「はい。テオドールさまにお渡しするとあれなんで自分が預かりますけど、いいですよね?」
「うん」
これくらいですよん、とブノワが口にした額はテオドールのお小遣いにしてはやや多い。テオドールがそれを聞く前に、ブノワは外を指し示した。
「あっちの分も込ですけど、これテオドールさまの小遣いですからね。ちゃんと嫌なときは嫌って言わないと食い尽くされますよ」
「わかってるよ……」
これから起こることを想像して、テオドールはめぇ、と鳴いた。
「ようオオカミ。涎でも垂らしてたか?」
「それはそっちでしょ。ストーブの前でよだれたらして寝てたの見たよ」
空はからりと晴れていた。乾いた冷たい風がテオドールの頬を撫でる。
「さすがに人の隙を窺うのがうまいな。ま、お前にやられたりしないけど、俺」
「わたしブノワを狙ってなんかいないよ。だらしなく寝てるなーって見てただけだよ」
染み透るような寒さだった。冬の空気はそれそのものが冷たく澄んでいる。そんな空気を吸っていると内側から凍ってしまうような気がして、テオドールはお腹のあたりを撫でた。
「はいはい、お前が狙ってるのはテオドールさまだもんな。やらせねえっての」
「ぼっちゃまにいじわるしてるのはそっちでしょ! いつも困らせてるじゃない!」
道行く人々は誰もが楽しそうだ。山の中腹にある神社に向かって雑然と歩いている。賑やかな彼らの歩みは雪に吸い取られて聞こえなかった。
「いや、お前の方が困らせてるだろ。いっつも食べ物ねだりやがって」
「仕事さぼってぼっちゃまにやらせてるんでしょ」
テオドールの耳に届くのはしょうもない喧嘩ばかり。
そろそろうんざりしたテオドールは二人に頭突きをくれてやった。きゃん、とマルガレット。にゃん、とブノワ。
「いい加減にしてよ二人とも! すぐ喧嘩するんだから!」
さすがに仔供に叱られるのは恥ずかしかったらしく、大人二人は気まずげに顔を見合わせた。マルガレットとブノワ。一人でも十分面倒なこの二人は更に面倒なことに寄ると触ると喧嘩ばかりしている。だから無理だと言ったのに……せっかく外に出たとはいえ、テオドールは今すぐ会議所の中に引き返したい気持ちでいっぱいだった。
「二人とも喧嘩するんならぼくのいないとこでやれよ! もう!」
怒っている内にうっかり泣きそうになってしまい、テオドールは慌てて目元を擦る。もっと慌てた二人はがっしと肩を組んでかなり無理のある笑顔を作った。
「俺たち!」
「なかよし!」
「そこまでしなくていいよ……喧嘩しないんならそれでいいよ……」
あまりに情けなくて、テオドールはまた涙が出そうになった。
初詣ということで参道には雑多な種族が溢れていた。犬。猫。山羊。羊。行き交う人々は自分のことで忙しく、すれ違った相手の種族をわざわざ確かめるような者はいなかった。自然、狼であるマルガレットも目立たない。
逸れることのないよう三人は手を繋いで歩いていた。先頭は背の高いブノワ、次は当然テオドール、最後はマルガレット。食べ物の屋台の前を通りかかるたびに、ごくり、ごくり、と後ろから唾を飲み込む音が聞こえて、テオドールは気が気ではなかった。オオカミメイドを野に放つ危険性は十分すぎるほど理解している。テオドールが振り返ると、マルガレットはにっと笑ってきゅっと握った。なんとなく恥ずかしくなって、テオドールはなにも言わずに前を向く。マルガレットの小さな手のひらは手袋越しにもそうとわかるほど熱かった。
「テオドールさま、そろそろ着きますよん」
前を行くブノワが大きな声で言う。テオドールも見ようとしたが、見えるのは人の背中ばかりだった。なんとなく面白くない気持ちになりながら、テオドールは頑張って大きな声を出してみる。
「階段だよねー?」
「そうです。濡れてるんで足元には気をつけてくださいねー。そういえばテオドールさま、なにをお願いするか決まってますか?」
「神様に?」
「神様に」
テオドールは、ムビョウソクザイ、と言おうとして考え直した。それは母様が何度も繰り返しお祈りしていたことだが、自分は意味をよく知らないし、どんな漢字で綴るのかもわからない。それよりはなにかもっと、自分で考えたお願いがいいだろう。お願い、と言われると案外思いつかない。父様のような立派な大人になりたい。すぐ泣かないようにしたい。もっとマルガレットと――
そ、そこで、後ろの手がするりと離れた。
「マルガ?」
振り向くと、小さな彼女は力なくしゃがみこんでいた。人の海にぽかんとそこだけ空白が満ちている。灰の瞳がぼんやりとテオドールを映した。
本殿横の社務所は渋りながらも場所を貸してくれた。大きなストーブの上でしゅんしゅんとヤカンが湯気を立てる。
「こりゃ人酔いしたんでしょうね」
壁にぐったりともたれかかったマルガレットから身を離し、ブノワはそう結論付けた。
「ひとよい?」
「人が多くいる場所に出ると気分が悪くなるとかそういうことがあるんですよ。こいつはあんまり外に出られないから……テオドールさまは?」
「ぼくはなんにもないよ」
テオドールが首を振ると、ブノワはぴしりと尻尾を振った。
「ん……テオドールさま、自分はちょいと飲み物でも買ってきてやろうかと思うんですが……こいつと二人きりで大丈夫ですか?」
ブノワの視線はテオドールではなく表の方に向いている。マルガレットが狼人だと知った社務所の羊人は露骨に嫌な顔をして、家の名前を出すことでようやく場所を貸すことを了承した。眼鏡の奥からこちらを窺うようなあの目つきを思い出して、テオドールはいやな気持ちになった。
「別にそれくらい……マルガの横にいれば来れないんじゃない? あのおじさん」
「あー、まー、そうなんですけどお……」
ブノワは苦笑しながらテオドールの頭を撫でて、じゃ、とあっさり出ていった。マルガレットは閉まる襖をちろりと見たきりで、また顔を伏せる。
いつも騒がしいマルガレットが静かだと、どうしたらいいかわからなくて、テオドールは彼女から少し離れたところに座った。ところどころに染みのついた畳はひんやりと湿っている。壁一枚隔てているだけなのに、ざわめきがひどく遠かった。
テオドールが生まれるはるか前のこと、肉を喰う民と呼ばれる肉食の獣人たちは草を食む民と呼ばれる草食の獣人たちを殺して喰っていた。降伏のない殺し合いの傍らで飢饉や疫病が蔓延し、人々は意味もなく死んでいった。
そんな暗黒の時代もいずれは終わる。疫病は根治され、食料事情は改善された。となれば、言葉も通じ、子も成せる相手を殺して喰うのは道理に合わないことだ。肉を喰う民と草を食む民の間には非餓宣言と呼ばれる協定が結ばれ、いかなる場合であろうとも食人は固く禁じられた。
――で、あるのに。狼人という種族は未だに異種族狩りをして人を喰っている。人を人として扱わないのだから、人として扱われない。狼人とはそういう種族であった。
ばかだなあ、とテオドールは思う。マルガはうちのメイドなんだから、人を喰ったりしないのに。第一マルガが他の狼人みたいに人を喰うのなら、ぼくとブノワが一緒にいるわけがないのに。狼人ってだけでびっくりして、そんなこともわからないんだから。
「ぼっちゃま……?」
甘く掠れた声がテオドールをつついた。マルガレットはぼんやりとしたまま手を宙に伸ばしている。テオドールがその手を握ってやると、やわらかく握り返される。人の体温に触れて、マルガレットは目に見えて安心したようだった。
「ねえぼっちゃま、すごいねえ」
「なにが?」
ストーブの中で赤い火がゆらりゆらりと踊っている。マルガレットはそちらの方に鼻先を向けながらも、どこか遠くを見つめている。
「人ってあんなにいっぱいいるんだね。わたし初めて見た」
「うん。もっともっといるんだよ」
「そうなんだ……ねえぼっちゃま、神さまにする願い事って、みんな、違うことをお願いするんだよね?」
テオドールは、マルガレットの隣に座って、同じように壁にもたれかかった。壁はほのかに暖かかった。
「そうだと思う」
「すごいなあ……考えたこともなかった。いっぱい人がいて、みんな違うことを考えてて、なんだか、すごいなあ」
すごいなあ、すごいなあ、とマルガレットは何度も繰り返す。彼女が何に感動しているのかよくわからないまま、テオドールも、すごい、と言ってみた。
「ぼっちゃまも願い事決まった? 考えてるところ?」
「まだ、考えてるとこだけど……いつもはちゃんとあるはずなのに、いざとなるとあんまり思いつかないや」
「ぼっちゃまでもそうなの?」
「うん」
「ふう、ん……」
わかったような、わからないような。そんな声を出して、マルガレットは身を起こす。
狼人の女は羊人の少年の瞳を覗き込んだ。くちづけには少し近い。見つめ合うには少し遠い。そんな距離。なにひとつ残さず燃え尽きた灰色を、うつくしい、と思う。
「わたし、なにもないよ……」
ブノワが戻ってきてもマルガレットの体調は回復せず、結局テオドールはブノワとお参りをすることになった。
石畳を経て石段を登る。からからと鈴の鳴る音を先に聞きながらテオドールは後ろをちらりと振り返った。
――迎えに来てね……。
あの天真爛漫なオオカミメイドの不安な声を、テオドールは初めて聞いたかもしれない。ガラスの器をピンと弾いたときのような、心がざわめく声だった。
「テオドールさま、危ないから足元見てください」
「あ、うん」
ブノワに窘められてテオドールは足を早める。そうして、今度は隣の男を見上げた。猫人の彼はいつも落ち着き払っている。
「ねえブノワ」
「はい?」
「ブノワは何を神様にお願いするの?」
「テオドールさまが立派にご成長なさるように、です」
テオドールが聞いてみたところ、ブノワはさらっとそんなことを言った。目をぱちくりさせる少年の肩を叩いて、意地悪な従僕はにやりと笑う。
「テオドールさまが立派になれば、それだけ俺の仕事が減りますからね」
「……なんだそれ!」
にゃははと笑いながらブノワは階段を登り、テオドールも憤慨しながらそれに続く。階段の半分を過ぎたあたりで、テオドールはもう一度、ねえ、と言った。
「神様にお願いすることがなにもないって、どういうことかな」
「現状で満足してるってことじゃないですか。これ以上なにも望むことがない、とか」
「そうなのかな?」
「そうじゃないですかね」
苔生した石段はところどころが欠けていて、テオドールは足を踏み外さないように一歩一歩慎重に登る。本当は手摺に掴まりながら行きたかったのだが、金属製のそれは氷のように冷たかった。
「そういうんじゃないんだ。ほんとに、なにも思いつかないみたいで」
「まあ……そうですね。知らないからですかね」
すれ違う参拝客たちは誰もが笑みを浮かべている。飲み込まれないよう懸命に進みながら、テオドールは彼らのことを考えた。彼らのひとりひとりにそれぞれ違う願い事があって、それは凄いことなのだ、と。やっぱり、テオドールには、よくわからない。
「知らないって?」
「今を生きるのが精一杯で、もっとああしたい、どうしたい、というのが思いつかないとか」
「だったら、もっといろいろ知ったら、なにか願い事が思いつくようになるのかな」
「なるんじゃないですか? いつかは、きっと」
「そうかな」
「そうですよ」
ブノワはそんなことを言うと、テオドールを振り返った。石段は途切れ、冬の青空の下、古びた社殿は石段を登り来る人々を出迎える。懐から硬貨を二枚取り出し、ブノワはぽんとそれをテオドールの手の上に置いた。
「だから今は、テオドールさまが代わりにやってあげればいいんですよ。きっとその方が喜ぶでしょう」
「そうかな……」
「そうですよ」
普段はだらしなくていい加減で、駄目な大人の見本みたいな奴だけど。こういうところは、見習いたいなあ。テオドールはそんなことを思う。マルガレットが自分で自分のお願いを見つけられるようにお願いしようかな、と思う。ぼくの分とマルガレットの分と、二人分でお願いをすれば、神様は叶えてくださるかな、と思う。
「あー戻ってきた! ねえぼっちゃまー、あのたこやきってやつ食べたい! たこやき! それとねえ、トウモロコシの焼いたのも食べたいし、あとじゃがいも! それにねー、あのりんごの飴食べたーい! ねーえーぼっちゃまー、行こー! おなかすいたー!」
「うーんテオドールさまごめんお腹いっぱい食べたいとかそんなんでよかったかもしんない」
「そうだね」
参拝が終わってしまえば後は楽なもので、三人は無事にお小遣いを使い果たしてテオドールの父が待つ会議所へ向かっていた。リンゴ飴ベビーカステラ焼きトウモロコシたこやき人形焼。思う存分食べ尽くしたマルガレットはたったか走り回ってはむぎゅっとテオドールに抱きついてくる。それをよしよしとあしらいながら、テオドールは手の中のお守りを指でなぞっていた。無病息災。社務所で買ったそのお守りをマルガレットにあげたところ、オオカミメイドは即座に口に入れてもぐもぐやってしまったのだ。ビニールにはきれいな歯型が付いている。まったくもう、と思いながらも、くるくると跳ね回る彼女を見ていると怒る気も失せた。
二人から少し離れてブノワはゆったりと歩いている。なんだかんだと働いて疲れたのか、ふいぃ、と時折オヤジ臭い溜息をついては肩を叩いていた。
会議所の中ではテオドールの父が待っていた。
「お帰り、テオドール。楽しかったかい?」
「はい、父様。ちゃんとお参りできました」
「やっぱりできたじゃないか。さすがは私の息子だ」
大きな手に頭を撫でられて、テオドールは目を細めた。ひどいことになるとしか思えないお参りだったが、こうして無事に終わり、尊敬する父に褒められては嬉しくてしょうがない。甘えた声で鼻先を擦り付けようとしたテオドールだが、机に置かれた蜜柑に伸びる灰色の手を目にしてそれどころではなくなってしまった。
「こら、マルガレット!」
「なあに?」
「蜜柑の皮は剥くものだぞ」
「わかった!」
マルガレットは蜜柑の皮を剥いて中身を口に放り込むと、続けざまに皮も口に放り込んだ。またしても止める間もない早業であった。
「……よく頑張ったね……」
「はい……」
今褒められても嬉しくないテオドールであった。