ゲームに関するメモ
全てはゲームである、そう現実を見なすことも可能だ。では、人間にとってゲームとは何か?それは一定のルールに従うことを課する時間的及び空間的広がりである。
人はゲームをプレイしている間は他のことを忘れることが出来る。つまり人はゲームによって非人間化できる。音楽鑑賞や読書行為もゲームとみなすことが出来る。何故ならそれらは特定のものに集中することを課するからだ。ここで具体的に、格闘ゲームについて考えてみようと思う。
格闘行為は人と人(あるいは機械)との駆け引きである以上、さしあたり、格闘とはコミュニケーションである、と言えるだろう。言うまでもなく、人とのコミュニケーションはルールとして社会的規範を採用する一つのゲームである。ただ、格闘には通常のコミュニケーションと違い、相手を倒す、という明確な目的がある。
プレイヤーは相手に攻撃が当たると快感を、自分に攻撃が当たると不快感を感じる。プレイヤーはしばしば大ダメージを受け、親しい友人に自らの存在を全否定された時のような、あからさまな不快感を覚えることだろう。とはいえ、ゲームはこの不快感なくしてはあり得ない。ゲームの醍醐味はこの快と不快の緊張関係のうちにある。そして良いゲームとはこの緊張関係がうまく調整されているゲームである。
それとは別に、ルールに従う快楽が存在する。ルールに従うことでプレイヤーは日常生活における人間身体とは別の非人間化された身体を獲得する。すなわち、ゲームにおいてはそれぞれのルールに応じた快楽が存在することになる。これは音楽鑑賞や読書行為にも当てはまることだが、音楽や文学においては、表現可能なものが格闘行為より豊富なため、獲得される身体はより複雑になりうる。とはいえ、獲得される身体が複雑であればあるほどよいというわけではない。重要なのは身体を動かすことではなく、身体を獲得する快楽だからだ。
より突きつめて考えると、攻撃を当て、自分は受けないことと、ルールに従うことは同じことを指す。なぜなら、ゲームによって獲得される身体とは、ルールに盲目的に従った上で、上手くプレイすることができる身体だからである。このことは、ルールに従うこと自体が快感と共にある種の不快感を与えることも示唆する。そしてこれはわれわれの経験上正しいといえる。とはいえ、それはゲームの目的達成を阻害されることに比べると些細なものであることが多いだろう。
ここまで、われわれは格闘ゲームについて分析してきたが、そもそも人間の営みとは、身体の獲得のプロセスなのではないだろうか。もちろんこの身体の獲得には苦痛と快感が伴う。そして、快感を感じる限り人は進んで身体を獲得し、逆に苦痛が閾値を超えるとひとは身体の獲得を諦める、と言えるだろう。
ところで初めの定義ではゲームとは、一定のルールに従うことを課する広がりであり、他のことを忘れ去ることであった。今やわれわれはこの定義は不十分であった、と言うことができる。何故ならゲームによってわれわれが何かに集中できるのは、それが良いゲーム、すなわち快と不快の緊張関係がうまく調整されているゲームである場合に限るからだ。
さて、では、世界そのものをゲームとみなすとき、われわれはどのようなゲームをプレイしているのか。ルールは何で、われわれははどのようなことに集中しようとしているのか。もちろん世界に対してある種の空想や虚無を対置させ、ルールは物理法則や快楽原則で、われわれは現実世界に集中しようとしている、と言うことも可能である。だがここでは、世界はおよそ考え得るものをすべて含む、外部のない全体とする。すると、われわれは何にも集中していないことになる。
これは、世界は本質的に良いゲームではありえないことを意味している。良いゲームは、悪いゲームと共に常に世界の内部にあり、悪いゲームとの関係のうちに生成・成立しているのだ。
ゆえに結論はこうだ。人生(あるいは世界)とは、ゲーム、すなわち身体の獲得のプロセスであり、幸福とは、良いゲームをプレイすること、すなわち適切な身体の獲得のプロセスのうちにあること。人生≠幸福。