六
そして数日が経ち、ついに歌詠み会の夕刻がやってきた。
節会のような形式ばったものではない、若い貴族ばかりの気軽な席。それでも舞台はこの前と同じ、紫宸殿に据えられており、用意された衣装などは更に豪奢なものになっている。緊張と戸惑い、そしてほんのわずかな高揚感。懐に入れてきたあの文を思いながら、勇気を振り絞る。
求められた演奏だけをこなせばいい。そして、無事この席を務め上げればその時は、申し出るのだ。あの山中の館へ、帰してもらうように、と。
蛍鬼にはああ言ったものの、本当は自分でもわかっていた。生まれてからずっと遠ざけられてきた自分が、あの父に愛されているわけがない。この歌詠み会のことも、節会のことも、きっと彼の立場を有利にするためのものだけであるだろうことも。
それでもいいと自分で決めた。それは蛍鬼に言ったとおりの思いだけれど――やはり苦しいことに違いはない。
叶わないことがわかっている想いも期待も、悲しいだけだ。一度だけ、ほんの一時だけでも自分が彼に望まれたのだと夢を見られたならそれでいい。その思いだけ持ち帰って、今まで通り、ひっそりと暮らしていければもう十分。余計に空しくなるだけ――そう決意を固めていた。
そしてできるならば……あの鬼に、またそばにいてほしい。
――なんて、身勝手なのは私ね。
彼の言葉を撥ね付けたのも拒絶したのも自分だ。いくら『語り』のためであろうとも、こんな自分を案じてくれた唯一の存在なのに。
「ごめんなさい……蛍鬼」
自嘲の笑みを浮かべ、そっと呟いた。誰もいない、何の気配もない空間に向けての言葉。それでも人知を超えた能力を持つ彼になら、届くこともあるかもしれないと願った。
先に舞台上の御帳台に入り、次々と到着する貴族たちを待つ。歌詠み会に必要な筆や紙、そして菓子や茶の類を運んできてくれた女房に礼を言った。
ほどなくして夕日が全て地平線の彼方に沈み、闇が辺りを包みこむ頃合を待って、歌詠み会は始まった。
時折はためく几帳の隙間から、朱塗りの回廊に囲まれた南庭が覗いている。門の周囲には、貴人の警護のためなのか、衛士たちがぐるりと配置されていた。それはあの節会の時と同じ光景のはずなのに――どこか違和感をもたらした。その数がこの前より多いからだろうか、それとも彼らの態度がどこか緊迫しているように思えるからだろうか。
時と共に続々と若い貴族たちが集まってくる。それでも、それぞれの官位も立場も明かすことはされない。
もちろん互いに見知った顔ではあるのだろうが、宵姫にとっては、彼らがどこの誰であるかわからないほうが余計な緊張もせずに済んでいいというものだった。気楽に和歌を楽しめるようにという計らいなのだと、女房が側で言い添える。
「皆様、和歌の技量では有名な方々ばかりですわ。楽しみでございますわね」
なぜか機嫌を伺うような笑みを見せ、女房が続ける。確かに宮中で有名な歌の名手ともなると、どのような歌を詠んでくれるのかと気にならないことはない。が、宵姫の興味は他にあった。
「あの……他に女性はいないのかしら」
「え? ええ……そうでございますね。今宵は宵姫様を除いては、殿方ばかりで。これも姫様に余計なお気を遣わせないためかもしれませんわね」
なんとなくしっくり来ない説明と愛想笑いだけを残して、女房は控えの間に引っ込んでしまう。ここからは、会の参加者だけで進行されるのだという話らしい。その言葉通り、世話役の女房たち全員が舞台を降り、そそくさと立ち去っていくのが見えた。
宴のように盛大に催される行事ごとではないからなのだろうか。一般的な歌詠みの会というものがどうやって行われるものか、宵姫にはわからない。
けれど、物語で見聞きしたような、観客の姿も、その美だけではなく知性をも競い合うという、姫君たちの姿もない。代わりにいるのは、身分も正体も知れない若者たちと、この場を守る衛士たちだけ。そう、特に異様なのは歌詠み会の参加者であるはずの若者たちが、立ったまま舞台を取り囲んでいるということ。そして、彼ら全員が作る円のちょうど中央にいるのは、自分なのだ。
――これでは、まるで……檻の中の見世物のようだわ。
何かがおかしい。そう感じ、首の後ろがざわつくような、ちりちりと鋭い針で刺されているような感覚がする。
その時だった。不自然なほどの静けさを断ち切るように誰かが咳払いをし、突然甲高い笛の音を奏で始めるではないか。
びくりと肩を震わせた宵姫が、立てられた几帳の上、ほんのわずかな隙間から覗く夜空を見上げた。その直後のことだった。
たった今まで雲一つなかった夜空が、怪しく轟き出したのだ。雷鳴が鳴り響くのに、雨は一粒も落ちてこない。不気味な光景に、若者たちも衛士も声すら発しない。
一際大きく雷が鳴った次の瞬間。空を、巨大な影が覆った。
何が起きようとしているのかわからない恐怖で、宵姫の膝は震え、立ち上がることもできない。はたはたと几帳が風になびき、弾みで側に置かれていた朱塗りの皿が倒れ、菓子がいくつか転げ落ちる。
「きっ、来たぞ! 来た! 鬼だ……!」
誰かの叫び声を機に、静かだった衛士たちもざわついた。
しかし、すぐさま立ち上がった若者の誰かに低く一喝され、再び不気味な静寂が南庭を支配する。男たちが何かに対峙しようと歩幅を開いて、敷き詰められた白砂を踏みしめる音だけが聞こえた。
鬼と聞き、咄嗟に蛍鬼のことかと思ったが、そうではないことはすぐにわかった。
巨大な影――つい先ほどまで上空彼方にあったそれが、ひらりと宵姫のいる舞台上に降り立ったのだ。
「わらわへの贄はここか?」
声は、意外にも女のものだった。がくがくと震える体でただ後ずさりするしかできずにいた宵姫の存在を知っていたかのように、彼女は真っ直ぐに進んだ。
宵姫を頭上はるかなところから見下ろす巨体。にもかかわらず、艶かしいほどの長い黒髪と翻る薄手の着物は、人間の女を模したよう。
けれど、その頭上に生えた二本の角と、赤く光る恐ろしい瞳、そしてあふれる邪悪な存在感の全てがその場を圧倒する。
信じられぬほどの強風が吹き荒れ、あつらえられた御帳台はすぐに倒れ、舞台には宵姫一人が取り残される。ようやくはっきりと見えた視界には、黒一色の衣装をそれぞれまとった、ものものしい若者たちの姿。そして、彼らの後ろから歩み出てきたのは――見紛うはずもない父その人だったのだ。宮廷陰陽師である彼の、本来の衣装を身につけて。
「お父、様……?」
無意識にもれた声はかすれ、ひどく力ないものだった。
――まさか、でも、それなら。
幾つもの疑問と返答を自身の頭で生み出して、宵姫は残酷な結論を得る。
「そうだ。贄は用意した。お前が最近都を震撼させている鬼だな。とっておきの馳走だ。煮るなり焼くなり、好きにするがいい。その代わり――若い娘を襲うのは金輪際やめてもらおう」
堂々と巨大な鬼女に対峙した父は、何の感慨も苦悩も見せずにそう言った。自らの娘を差し出して、都の平和を得ようとすることに、微塵の自己嫌悪も感じていない顔だった。
――嘘、だったのだ。最初から、何もかも。
琴の演奏など自分を呼び寄せるための建前に過ぎない。和歌を披露してほしいというあの文も、全て……初めから、鬼に食わせるつもりで。
全てがわかったその刹那、はりつめてきた心の糸が音を立てて弾けた。
呪われた病持ちの娘など、彼には不要でしかなかったのだ。あの館を与えたのも、厄介払いをしただけ。だから、きっとこれがちょうどいい機会だったのだ。公然と、自分を切り離すために――。
ふらり、と足元が傾ぐ。その結論を裏付けるかのように、おそらくは父の下で働くのであろう若い陰陽士たちも、朱塗りの柱に張り付いた衛士たちの誰一人も、微動だにしない。彼女を守る意思など微塵もないということが、はっきりとわかった。
視界は回り、意識が遠のいていく。甲高い笑い声を上げた鬼女は、倒れ行く宵姫の体を、太い腕で容赦なくさらった。