五
「え……私が、歌詠みの会に?」
普通の人々が起き始め、一日の幕開けとなる早朝。世話係の女房に聞かされて、宵姫は驚きを隠せなかった。
滞在を引き伸ばされていたことから、また琴をどこかで披露せよ、という命が下るであろうことは予想していた。
けれど、まさか歌詠みの会で、和歌を作るなど、全く想像もできなかったからだ。
「でも……宮中の姫君方とは違って、私には和歌など」
断りの文句を口にする前に、女房は宵姫の髪を梳き始めた。墨を流したような、美しい黒髪を褒めながら。
「姫君におかれましては――宮中のどこに出しても恥ずかしくない教養を身につけておられると、聞き及んでおりますわ。特に物語をお読みになるのがお好きだとか。普段から文字に慣れ親しんでおられる姫君様ですもの。和歌など容易いものではありませんか」
「そんな……けれど、聞き及んでいる、とは? 誰がそのようなことを」
「それはもちろん、お館様でございます。不幸な病さえなければ、都のどの姫君にも負けぬ、素晴らしい娘だと仰っておいででしたわ」
「……お父様が、本当に?」
「ええ。こうして極秘裏に文まで下さるほど、期待されておられるのですよ? 当日、出席こそできないとはいえ、十分に宵姫様の教養をお見せするように、と」
髪を梳く合間に、懐から出された文。巻かれていた紙を広げて、一字一字、信じられない思いで目を通していく。
書かれていたのは、筆不精を詫びる文句と、先日の演奏に対する、手放しの賛辞。父としてどれほどに誇らしかったかと、綴られていた内容を読み終える頃には、瞳が潤むのを抑えられなかった。
「お立場がございますゆえ、ご本人ではなく、代理の者を立たせるとのことです。若い貴族の方々だけの歌詠み会に、ふさわしい方を」
「そう……そうなの。でも、私は貴族では――」
「まあ、ご身分こそそうでなくとも、実質的にはこの宮中の誰よりも尊ばれるお方を父君にお持ちですもの。何を恥じることがございましょう」
確信を込めてそう励まされ、宵姫はそれ以上の抵抗はできなかった。
今読んだばかりの文も、突然の状況も、何もかもがふわふわと頭の中に浮遊するだけで、実感を伴わないのだ。
――ずっと疎まれていただけの私が、そんな晴れがましい席に?
しかも、ぜひにと望まれていると言うのだ。これほどに耳を疑う話があるだろうか。
けれど――もしも、この文が本当なら。
闇の中にきらめく一筋の光のように、そんな気持ちは胸を衝いた。
「私で、役に立てるのなら……」
自分でも考えもしなかった答えが、口から滑り出る。どこかほっとしたように笑顔を浮かべた女房は、朝餉の用意に立って、また部屋に一人残された。
「――約束が違うではないか」
突如耳に届いた低音に、弾かれたように宵姫は振り向いた。たった今まで厳重に作られた闇であっただけの場所――わずかな燈台の火だけがちらちらと照らしていた空間に、異質な明かりが出現していた。
ぼんやりと、黄緑がかった光。それは目の前でゆらぐ火とは別の、自然にはあり得ぬ色彩だった。
「蛍鬼……あなたなの」
どきりと縮み上がった心臓を無意識に抑え、ほっと息を吐く。相手が見知った鬼であることで、少なからず安心した宵姫の微笑には応えず、蛍鬼は不機嫌そうな顔をしている。
「なぜ、ここに留まることを選ぶ? あの屋敷に戻ると――ここから離れると、約束したではないか」
約束、という言葉が一番似合わない存在からそう責められて、つい可笑しくなる。
けれど、宵姫が何か返す前に、萌黄の双眸がいつもと違うことに気づいた。
そうだ――こんな風に、ほのかな明るさを宿しているのは、語りを『喰い』始めた時にしかなかった現象。それなのに、同じような明かりを発しながらも、蛍鬼の表情は硬く、寄せられた眉は、怒りにも似たもどかしさのようなものに憤っているように見えた。
「どうしたの? 何か……」
あったのか、と訊ねるよりも先に、白髪が舞い、強い瞳でこちらを見据える蛍鬼の体が、距離を詰めてきたのだ。
「蛍……」
「わしが何の理由もなく、そうしろと言っているとでも思うのか? 今まで一度としてお前の想いに応えたことなどないあの男が、本心からそのような文を寄こすとでも? お前は本気でそう思うのか?」
「それは……」
言いよどんでしまったのは、やはり自分でも信じきれないからなのだろう。それでも口にしたら完全に可能性を消してしまう。
わずかな逡巡の後、宵姫はそっぽを向いて曖昧に微笑んだ。
「……まるで人間みたいなことを言うのね。ふりをして楽しむならまだしも、あなたほどの鬼が、一体どういう風の……」
最後まで言う前に、大きく力強い手が宵姫の手首を掴んだ。荒々しい仕草に息を呑む。
「なぜ素直に従わぬ! わざわざこのわしがこうまで忠告してやっているというのに」
声を荒げたことなどない彼の、苛立ちをあらわにした問い。目と鼻の先に迫った流麗なる美貌は、整いすぎているからこそ、人ではあり得ないもので――それゆえに、発する言葉の異様さを際立たせた。
「し、従えですって? 今までだってずっとそうしてきたわ。勝手を言われても笑って受け入れて――けれど、今回はその理由がわからないからよ。忠告って何? あなたには、関係のないことじゃないの」
「ある。一つの場所に留まったことなどないこのわしが、これほどの時間を過ごしたのだ。おろかな人間になど興味はないが、それがお前の身に及ぶなら、黙って見ているわけにはいかぬ」
あまりに真剣な眼差しに、先ほどとは違う驚きが胸を打つ。浅黒い手を振り払おうとしても、離してくれるつもりはないらしい。
何に対してなのか――蛍鬼の瞳は真剣に怒っていた。矢のように視線で射抜かれて、心臓が縮むような気がする。味わったことのない鼓動の速さが、異常な事態を実感させた。
「……私の身って、どういうこと?」
静かに問い返した宵姫を、なぜか苦しげに見つめる蛍鬼。これでは人間に似せるどころか、本心を見せないこの宮中の誰よりも、よっぽど人間じみているではないか。
「言えないの……? それとも知らないの? まるでどこかからずっと観察でもしていたみたいな口ぶりだったけれど」
「わしがそんなくだらん真似など――」
「なら、なぜここまで私を止めるの? あなたは私の身など案じているわけじゃない。あなたの口にする『語り』が欲しいだけでしょう!」
皮肉まじりにそう言って、宵姫は笑う。捕まれたままの手首。青白い自分の肌と、浅黒い鬼のそれ。
似て非なる存在。色どころか流れる血さえもきっと違う。なのに――。
なぜだかおかしくてたまらない。今まで鬼と人間という相対する存在でありながら、それなりに築き上げてきたつもりの関係が、なぜだかおかしくて――それよりもっと、悲しかった。
自分の想いを誰よりもわかってくれるはずの相手は自分を疎み、そして、疎むべき存在の人ならざるモノこそが、一番の理解者だなんて。
――こんな皮肉、きっとどこにもないわ。
くすくすと笑い続ける宵姫の様子がおかしいことに気づいたのか、ゆっくりと蛍鬼は手を離した。
その途端、なぜか胸が締め付けられて、涙が滲みそうになる。寸でのところでそれを抑え、宵姫は背を向けた。感情の高ぶりを示すような萌黄の光を、その双眸ごと締め出して。
「……愚問だな。このわしが、たかが人間ふぜいを『語り』以外の目的で気にかける必要がどこにある?」
ふっと笑う気配を背中に感じながら、宵姫は俯いた。見えるのは、脇に置かれた美しい琴。装飾もその音色も、どれをとっても上回るはずの楽器が、山深い屋敷に残してきた古い琴よりも、色あせて見えた。
懐かしいあの屋敷。不思議なこの鬼との三年。心地よかった時間は、もう戻らないのかもしれない。
「なら、いいじゃない。栄誉だか何だか知らないけれど、もう結構よ。もともと、私があなたに仕える理由なんてないんだもの。人間と鬼、そんなかけ離れた存在が、これ以上共に過ごしてどうなると言うの? 私以上の語り手なんて探せばどこにでも見つかるわ。あなたのその自慢の足で、地を駆けるなり、天を渡るなりして、勝手に探せばいいのよ――もう、私のことは放っておいて!」
そんな風に、望んだことはなかったというのに。どうして自分は声を荒げて叫んでしまうのか。あふれる涙をそのままに、睨みつけてしまうのか。伸ばされた手を、跳ね除けてしまうのか。自分で自分がわからなかった。
独りでに唇は震え、嗚咽がもれ、両手で顔を覆っていた。
「初めてなの……必要とされたのは」
「宵姫」
低く呼ばれてもなお、涙は止まることなく流れ続けた。
「この文が、本心であろうとそうでなかろうと、少なくとも私にとって、これは初めての機会なの。あの方に何かを望まれたことも、何かをしてあげられることも」
口にして初めて、自分が全身でそれを待ち望んでいたことを知った。どれほどにあの遠い父を、求めてやまなかったかも――。
「だから、私は出るわ。歌詠み会であろうと何だろうと、求められたからにはやってみせる。呪われた娘でも、娘なんですもの。私がこうして生きているということの、証明になるのなら……!」
打ち捨てられた山中の屋敷で、ただ年を重ねていく人生。気楽でいいと思おうとしたそれは、やはり気が狂いそうなほどの孤独でしかなくて。例えそこに帰るのだとしても、今だけであっても、消えぬ思い出を残していきたかった。言葉を交わすことも許されない、たった一人の肉親に――。
肩を震わせ、声を殺して泣く宵姫に、それ以上蛍鬼が言葉を発することはなかった。
沈黙のままに、来た時と同じ音もない退去。それが彼の答えなのだろうと思うと、なぜか胸に大きな棘が刺さったような気分になった。